第9話:バルコニーの冷徹な監視者
大広間の喧騒が、分厚いガラス扉の向こう側へと遠ざかっていく。
モルガン伯爵邸の西翼、夜露に濡れた円形バルコニー。
先ほどまでユリアンとヴィヴィアンが醜悪な取っ組み合いを演じ、シャンパンタワーが砕け散り、ソースまみれで衛兵に引きずり出されていった阿鼻叫喚の地獄絵図は、ここまでは届かない。吹き抜ける晩秋の夜風が、広間に充満していた濃厚な香水と欲望の熱気を、心地よく洗い流してくれていた。
「ふう……。やはり、騒がしい場所は肌に合いませんわね」
ルチア・フォン・グラナートは手すりに背を預け、冷え切った空気の中に細い息を白く吐き出した。
指先に持ったクリスタルグラスをわずかに傾ける。
月光を透かして揺れる深紅の液体は、王都でも指折りの銘酒とされるボルドー産のヴィンテージ・ワインだ。大広間がパニックに包まれる直前、給仕が放り出していったボトルから、何食わぬ顔で拝借してきた戦利品である。
ルチアは優雅にグラスに唇を触れさせ、芳醇な葡萄の香りを舌の上で転がした。
「極上の味。……勝利の美酒というのは、いつの時代も格別ですわ」
彼女の脳内では、すでに終わった舞台劇の余韻など綺麗さっぱり片付けられ、冷徹極まるキャッシュフロー計算機が高速で回転を始めていた。
前世――一代で数十億を動かした伝説の結婚詐欺師、一条玲奈の記憶が、電卓のキータッチ音のように小気味よく利益を弾き出す。
(さて、今回のディールの純利益の確定作業ね)
ユリアン・フォン・クラインが、見栄と強欲に駆られて全財産を注ぎ込んだ『金貨千枚』。
クライン子爵家の先祖伝来の農地、王都のタウンハウス、銀行預金のすべてを担保に掻き集められたその大金は、天才為替ディーラー・セレーナ・ハイドの手によって、完璧に市場で回収された。
ユリアンが幽霊船の手形を掴む直前、セレーナが仕掛けておいた『南方新航路特許手形』の最高値での空売り(ショート)ポジション。
座礁と沈没の一報によって手形の価値がゼロに暴落した瞬間、その空売りは満額の利益となって確定した。
為替座の手数料、ダミー仲買人への報酬、情報工作費を差し引いても、手元に残る純利益は――『金貨九百二十枚』。
日本円にして、およそ九億数千万円相当のキャッシュ。
(この資金を、どうやって安全にグラナート領へ還流させるか……)
ルチアはワイングラスの縁を指先でなぞりながら、思考を深める。
王都中央為替座から一度に金貨千枚規模の現金を地方の子爵領へ送金すれば、財務省や貴族院の監査に引っかかるリスクがある。
ならば、セレーナの管理する複数のダミー商会を経由させ、『グラナート領の木材および羊毛の長期買い付け前払い金』という名目で、二十回前後に分割して電信送金させるのが最も安全だ。
(クラリスに手紙を書かなくてはね。手に入った資金の配分……まずは領内の主要街道の石畳舗装に二百枚。これで馬車の輸送効率が三倍に跳ね上がる。次に、寒冷地に適した小麦と大麦の種籾の一括調達に百枚。そして、冬の間に領民へ支払う公共事業の賃金プールに二百枚……)
数字を組み立てるたび、胸の奥がじんわりと温かくなる。
前世の自分は、奪った金をただ預金通帳の数字として眺め、タワーマンションの金庫に溜め込むだけだった。誰にも使わず、誰とも分かち合わず、最後は孤独死した。
だが、今は違う。
自分がクズ貴族たちから合法的に巻き上げた汚れた金が、泥水をすすっていた妹や父を救い、飢えに怯えていた何千人もの領民たちの命を繋ぐパンと薪へと姿を変えていく。
(……悪くないわ。詐欺師のセカンドライフとしては、これ以上ないほど有意義な事業投資ですこと)
ルチアは満足げに目を細め、夜空に浮かぶ銀の月を見上げた。
完璧だった。
高利貸しカールの借金をチャラにし、元婚約者ユリアンを合法的に破滅させ、ヴィヴィアンの鼻をへし折り、領地再建のための莫大な軍資金を手に入れた。
自分は一度も法を犯さず、一度も嘘の誓約書を書かず、ただ相手の自滅の背中をそっと押しただけ。
誰一人として、自分を罪に問うことなどできはしない――。
「――見事な手際だな。元婚約者の虚栄心を煽り、空売りで合法的に破滅させた手腕は」
背後から、低く、冷ややかな声が闇を切り裂いて響いた。
「――っ!?」
ルチアの心臓が、ドクンと跳ね上がった。
足音は一切しなかった。
風の音も、衣擦れの気配すらもなかった。
まるで、最初からそこに存在していた夜の闇そのものが、突如として言葉を紡ぎ出したかのような唐突さ。
ルチアはグラスを持つ手を一ミリも震わせず、息を整えながら、ゆっくりと振り返った。
バルコニーの出入り口、大理石の柱の影から歩み出てきたのは、一人の青年だった。
月光を浴びて浮かび上がったその姿に、ルチアの紫紺の瞳が息を呑むように見開かれる。
身に纏っているのは、夜の帳をそのまま織り上げたかのような、装飾を極限まで削ぎ落とした漆黒の礼装。胸元には、王室の最高位を示す白銀の鷲の勲章が一つだけ、冷たく光を放っている。
仕立ての良すぎる上着の上からでも分かる、無駄な贅肉を一切削ぎ落とした鍛え抜かれた長身。
そして何より――その顔立ちだった。
彫刻のように完璧に整った美貌。
夜風に揺れる濡れ羽色の黒髪。
そして、薄暗い闇の中でも異常なほどの存在感を放つ――氷河の底を覗き込むかのような、凍てついた青い瞳。
社交界のどんな美男子とも違う。
慈悲や甘さを徹底的に排除し、冷徹な理性と絶対的な権力だけで形作られた、冷酷無比な捕食者の顔。
(この男……先ほど、広間の二階回廊から私を見下ろしていた……!)
ルチアの脳内のデータベースが、猛烈な速度で該当する人物を検索し、即座に警告の赤色ランプを点滅させた。
オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵。二十四歳。
建国以来の最高位貴族であり、若くして王国の国家予算、国税、為替、関税のすべてを一手に統括する最高責任者――『氷の財務卿』。
情実や血縁を一切認めず、不正を犯した貴族を親族であっても容赦なく断頭台へ送り込んできた冷血漢。
女嫌いで知られ、「いかなる甘言にも絶対に騙されない男」として、社交界中の令嬢や貴婦人たちから恐れられている生ける災厄。
(なぜ、こんな怪物がここに……!?)
ルチアは内心の激しい動揺を完璧なポーカーフェイスの下に押し殺し、静かにワイングラスを傾けて見せた。
唇に優雅な笑みを張り付け、まるで夜風に吹かれる無力な令嬢のように、小さく首を傾げる。
「……突然のお声がけに驚いてしまいましたわ。ヴァルハイト公爵閣下とお見受けいたします。私のような田舎貴族の娘に、何かご用がおありでしょうか?」
「白々しい芝居はやめろ」
オスカーは冷淡に言い放ち、大股に歩み寄ってきた。
靴音がコツリと鳴るたび、バルコニーの気温が数度ずつ下がっていくような錯覚を覚える。
彼はルチアの二歩手前で足を止め、その氷の刃のような青い瞳で、ルチアの全身を品定めするように見下ろした。
「グラナート子爵令嬢ルチア。……数日前まで、青カビの生えたパンをかじり、金貨三百枚の借金で首を吊りかけていたはずの没落令嬢が、なぜ今宵、王都の夜会でワインを味わいながら他人の破滅を鑑賞している?」
「あら。父のお人好しが招いた不幸から、奇跡的に立ち直っただけですわ。神のお導きに感謝しておりますの」
「神だと?」
オスカーの薄い唇の端が、嘲るように微かに歪んだ。
「神の名を騙るには、お前の手口はあまりにも悪魔的で、そして美しく計算されすぎているな」
オスカーは懐から、一通の書類を取り出した。
財務省の極秘印章が押された、分厚い監査報告書。
彼はそれを月光の下に翳し、事務的な、しかし容赦のない声で読み上げ始めた。
「三日前。グラナート領に乗り込んだ悪徳高利貸しカール・バルツァーが、なぜか借用書を自ら暖炉に投げ捨て、逆に金貨二百枚の為替手形を貴様に差し出した。……罪状、恐喝および詐欺の疑い」
「……」
「二日前。王都中央為替座において、何者かが『南方新航路特許手形』の最高値圏で、金貨千枚規模の不可解な空売り注文を分散して仕掛けた。ダミー口座の名義は下町のペーパー・カンパニーだが、為替座の取引ログを追跡したところ、その資金ルートの終着点はグラナート家と極めて近い為替ディーラー、セレーナ・ハイドの管轄口座だった」
「……っ」
ルチアの背筋を、冷たい汗が一筋伝った。
セレーナの口座まで追跡されていた?
為替座の取引ログを、わずか二日でそこまで掘り起こしたというのか。
だが、オスカーの解体ショーはそれだけでは終わらなかった。
「そして今宵。貴様は計算された純白のドレスで男どもの庇護欲を煽り、元婚約者ユリアンの虚栄心と未練を刺激した。バルコニーで架空の投資話を持ちかけて買い煽り、化粧室ではヴィヴィアン・ド・モルガンを煽ってユリアンを追い詰めた。結果――退路を断たれたユリアンは、全財産を担保に金貨千枚を手形に突っ込み、その直後に船団座礁の報が入り、相場は崩壊」
オスカーは報告書をパチンと閉じ、冷酷な眼差しをルチアの瞳に突き刺した。
「ユリアンは破滅し、ヴィヴィアンは失脚。そして貴様の手元には、空売りの差益として金貨九百枚以上の巨額のキャッシュが転がり込んだ。……違っているか、ルチア・フォン・グラナート?」
――完全な、看破。
ルチアの脳内で、警報が耳を劈くような音を立てて鳴り響いていた。
ぐうの音も出ない。
相手は現場を直接見ていたわけではない。
ただ、財務省に集まる『帳簿の数字』と『為替のログ』の微細な歪み、そして今夜の夜会の人間模様を観測しただけで――ルチアが仕掛けたグランド・デザインの全貌を、秒単位で正確に復元してみせたのだ。
(これが……『氷の財務卿』の頭脳……!)
前世で警視庁捜査二課のエリートたちを手玉に取ってきた一条玲奈にとって、これほどの「知性の怪物」と対峙したのは初めてだった。
情報非対称性の逆転。
常に相手の手の内を読み、心理を先回りして優位に立ってきたルチアが、今、完全に自らの手の内を丸裸にされ、俎板の上に載せられている。
だが――ルチアは屈しなかった。
恐怖で膝を震わせる代わりに、彼女の唇にふっと、不敵な笑みが蘇った。
ワイングラスをテラスの手すりに静かに置き、背筋を凛と伸ばして、オスカーの青い瞳を真っ向から見据え返す。
「……素晴らしい分析力ですわ、財務卿閣下。まるでその場にいらしたかのようです」
「認めるのだな」
「ええ。ですが――閣下。私を告発なさるおつもりなら、その報告書でどのような『罪状』を立証なさるおつもりかしら?」
ルチアは顎をわずかに上げ、挑戦的な視線を送った。
「高利貸しカール・バルツァーは、自らの自由意志で投資契約書に署名し、手形を切りました。私は一言も脅迫などしておりません。契約書には『努力義務』と明記してありますわ。
そしてユリアン様。彼が購入した南方手形の契約書第4条には、『元本保証のない自己責任の投機』と彼の直筆サインがございます。私は単に、手形を譲渡した仲介人にすぎません。海難事故を私が引き起こしたわけでもありませんし、為替座での空売りも、現行の取引所規則に完全に則った合法的なヘッジ取引ですわ」
ルチアは一歩、オスカーへと踏み出した。
「私は一度も嘘の書類を書いておりません。誰の首にも縄をかけておりません。相手の強欲と見栄が、自ら破滅の階段を駆け下りただけ。……違いますこと、法の番人たる閣下?」
沈黙が落ちた。
月光の下で、二人の視線が火花を散らす。
法的な防壁。ルチアが前世から徹底してきた「完全な無瑕疵」の理論武装。
並の裁判官や監査官であれば、この理路整然とした反論の前に手詰まりになるところだった。
だが――オスカー・フォン・ヴァルハイトは、冷笑すら浮かべなかった。
ただ、氷のように凍てついた瞳の奥に、昏い、底知れぬ光を宿らせただけだった。
「確かに、現行法では貴様を詐欺罪で立証するのは困難だろう。書類の上では完璧に無罪だ」
オスカーは低く囁き、ゆっくりとルチアとの距離を詰めた。
逃げ場を塞ぐように、長身の影がルチアの華奢な体をすっぽりと覆い隠す。
冷たい革手袋を嵌めた指先が、ルチアの白磁の顎に触れんばかりの至近距離まで伸ばされた。
「だがな、ルチア。俺は財務卿だ。この国の財政と法を司る、絶対の権力者だ。――貴様のような危険な劇薬、国家に対する相場操縦の嫌疑を捏造して、今夜のうちに地下牢へ叩き込み、明日の朝には絞首台へ送ることなど、俺の一筆でどうとでもなる」
ドクン、とルチアの心臓が冷たく収縮した。
脅しではない。
この男の瞳は、本気でそれを実行できる冷酷さを宿している。
権力者の理不尽な暴力。法を超越した国家権力の刃が、ルチアの喉元に突きつけられていた。
だが、オスカーはそこで言葉を切ると、その青い瞳をわずかに細めた。
冷徹な氷の奥に、微かな――狂気にも似た知的好奇心と、昏い愉悦を覗かせながら。
「……お前に、選ばせてやろう」
オスカーの低い美声が、夜風に乗ってルチアの耳朶を震わせた。
それは、死刑宣告であり、同時に――悪魔からの抗いようのない誘惑の言葉だった。
「首を吊るか、俺の駒になるか。――答えを急げ、美しいペテン師」




