第10話:悪魔の雇用契約
氷点下の冷気が、二人の間のわずか数十センチの空間を凍りつかせていた。
モルガン伯爵邸の西翼バルコニー。
吹き抜ける夜風が、ルチアの純白のドレスの裾をかすかに揺らし、オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵の漆黒の礼装の影を、大理石の床へと不吉に引き伸ばしている。
青年財務卿の冷たい革手袋を嵌めた指先は、今にもルチアの華奢な顎に触れそうな位置で静止していた。
その氷河のような青い双眸に宿るのは、絶対的な権力者の傲慢と、刃物のように鋭い冷酷さ。
『首を吊るか、俺の駒になるか。――答えを急げ、美しいペテン師』
常人であれば、その一言で魂を抜き取られ、その場に膝をついて許しを請うていただろう。
国家の最高予算と軍事費、司法の裏側すら統括する財務卿が、「国家に対する相場操縦の嫌疑を捏造する」と言い放ったのだ。それは法治国家の仮面を被った、抗いようのない死刑宣告に他ならなかった。
――しかし。
ルチア・フォン・グラナートの心拍数は、一拍たりとも乱れてはいなかった。
彼女の脳内では、前世――一代で数十億円を動かし、警察組織の包囲網を幾度となく嘲笑ってきた伝説の結婚詐欺師、一条玲奈の冷徹極まる思考回路が、超高速で回転していた。
ゲーム理論における基本概念。
交渉学における最強の切り札――『BATNA(バトナ:Best Alternative to a Negotiated Agreement/最善の代替案)』の検証である。
(……冷静になりなさい、ルチア。男の脅し文句の額面通りに受け取ってどうするの)
相手が自分を処罰する「実質的な動機」と「代替手段」を、ゼロベースで解剖する。
もし、この冷血な財務卿が、本気で自分を犯罪者として処刑するつもりだったなら?
答えは明白だ。
自分のような危険なペテン師など、事前に近衛兵部隊で屋敷の周囲を完全に包囲させ、広間でユリアンが破滅した瞬間に手錠を嵌め、地下牢へと連行していれば済む話なのだ。
わざわざ夜会の喧騒から離れたバルコニーへ、護衛の一人も連れずに単身で足を運び、誰にも聞かれない二人きりの闇の中で「二者択一」を迫る必要など、どこにも存在しない。
(つまり――この男には、私を殺せない『理由』がある)
相手にとって、私を殺すことは最善の選択肢(BATNA)ではない。
私を殺してしまえば、この男が喉から手が出るほど欲している「ある目的」が、永遠に達成できなくなるからだ。
パズルのピースが、小気味よい音を立てて組み上がっていく。
ルチアの唇の端が、ふっと柔らかく、蠱惑的な弧を描いた。
「ふ……」
吐息のような微かな笑い声が、静寂のバルコニーにこぼれ落ちた。
オスカーの眉が、わずかに不審そうに動く。
ルチアは逃げるように身を引くどころか、あえて手すりに置かれていた自らのワイングラスへと優雅に手を伸ばした。
指先一つ震わせることなく、深紅のヴィンテージ・ワインを口元へ運び、喉を鳴らして一口含む。
そして、月光を浴びながら、至近距離で見下ろしてくる男の青い瞳を――真っ向から、艶然と見据え返したのだ。
「……衛兵も連れずに、たったお一人でこのバルコニーへ足を運ばれた時点で、答えはすでに出ておりますわ、財務卿閣下」
「何だと?」
オスカーの声が、一段低くなった。
ルチアはグラスを指先で弄びながら、鈴の音のように澄んだ声で、淀みなく言葉を紡ぎ出した。
「本当に私を絞首台へ送るおつもりでしたなら、あなたが声をかけるより先に、冷たい鉄の枷が私の手首に嵌められていたはずです。……違いますかしら? 法の執行者たるあなたが、わざわざ密談の場を選び、私に交渉の余地を与えてくださった。その理由は、あまりにも明白ですわ」
ルチアは一歩、オスカーへと踏み込んだ。
身長差にして頭一つ分以上見上げる位置関係でありながら、その気迫は対等どころか、相手の喉元に刃を突き立てる猛獣のそれだった。
「閣下がお困りなのは――法律の網を巧みにすり抜け、肥え太り続ける『貴族院の古狸たち』ですわね?」
ピシリ、と。
オスカーの冷徹な仮面に、目に見える亀裂が入ったのをルチアは見逃さなかった。
「我がグラナート家のような弱小貴族や、哀れな元婚約者など、閣下にとっては道端の小石に過ぎません。ですが、建国期からの特権を盾に国家予算を横領し、脱税のトンネル会社を幾重にも張り巡らせ、財務省の監査をあざ笑う貴族院の重鎮たち……彼らは違います。どれほど不正の証拠を掴もうとしても、貴族特権と司法取引の壁に阻まれ、現行法では手が出せない」
ルチアはワイングラスを掲げ、月明かりにかざした。
「法の番人であるあなたには、法を破ることはできない。公的な刃を振るえば、貴族院全体が結託してあなたを失脚させにかかる。だからこそ……閣下には、必要だったのでしょう? 法の外側に立ち、相手の強欲と見栄を利用して、相手自らに全財産を差し出させて自滅させる――私のような『極上の毒』が」
沈黙が落ちた。
夜風が吹き抜け、ルチアの黒髪がふわりと舞う。
オスカーは微動だにしなかった。
だが、その氷河のように冷たかった青い瞳の奥底で、かつて誰も見たことのないような――驚愕と、底知れぬ知的な興奮が、青黒い炎となって燃え上がっていた。
「……そこまで見抜いているか」
オスカーの喉から、低く掠れた感嘆が漏れた。
「恐ろしい女だ。青カビのパンをかじっていた田舎の娘が、国家の最深部の政治力学まで一瞬で看破するとはな。……噂通りの怪物だ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
ルチアは冷笑を崩さない。
相手がこちらの価値を認めた。それはすなわち――交渉の主導権が、完全に自分へと移動したことを意味していた。
ここからが、プロの腕の見せ所だ。
脅されたからといって、ただの都合のいい「使い捨ての駒」に甘んじる気など毛頭ない。
相手が国家の財務卿であろうと、皇帝であろうと、動くからには対価を要求する。それが一条玲奈の、そしてルチア・フォン・グラナートの絶対の矜持だった。
「さて、閣下。私の有用性をご理解いただけたのでしたら、形式的な脅迫劇はおしまいにいたしましょう。……ビジネスのお話をしませんこと?」
「ビジネスだと?」
オスカーが面白そうに眉を上げた。
「ええ。あなたが私を処刑しないのは、私というリソースが国家財政の再建にとって不可欠だからです。ですが、私も慈善事業で詐欺を働いているわけではありませんの。……私の取り分(ROI:投資対効果)は、何パーセントになりますの、財務卿閣下?」
「……ふっ」
オスカーの喉から、乾いた笑いが漏れた。
絞首台の恐怖を突きつけられた直後に、財務卿に対して真っ向から報酬の歩合を要求してくる女。
社交界に存在するあらゆる令嬢の中で、これほどまでに図太く、合理的で、命知らずな生き物が他に存在するだろうか。
「言ってみろ。ペテン師の命の値段を」
「単純明快ですわ」
ルチアは細い人差し指を立て、冷徹に条件を突きつけた。
「第一に、私が合法的に解体し、国庫へと還流させた腐敗貴族の隠し資産――その総額の『三割(30%)』を、私の成功報酬として即日決済可能な無記名手形でグラナート家へ支払うこと」
「三割だと? 国家予算の監査規定を舐めているのか。民間への情報提供料の法定上限は五パーセントだ」
「それは無能な密告者に対する端した金でしょう? ターゲットの選定から心理誘導、契約の執行、そして自滅のシナリオまでを一人で完結させる『総合請負人』への報酬としては、むしろ格安ですわ。嫌なら、どうぞ別のペテン師をお探しになって?」
ルチアは涼しい顔で切り捨てた。
オスカーの口元が、わずかに苦笑の形に歪む。
「……続けろ」
「第二に、グラナート子爵領に対する完全なる『不干渉特権』。領内の産業振興、物流整備、および為替取引に関して、財務省および貴族院からのいかなる査察・監査・課税も、今後十年間免除していただきます。我が領を、王国の法が及ばない私の治外法権として認めていただくこと」
ルチアの紫紺の瞳に、宿ったのは揺るぎない覚悟だった。
巻き上げた金を私腹肥やすためだけに使うのではない。
飢えと寒さに苦しむ領民を救い、妹クラリスとともに、何者にも脅かされない強固な経済特区を築き上げるための絶対的な防壁。
それこそが、ルチアがこの危険なマネーゲームに身を投じる真の目的だった。
「……以上ですわ。私の手腕と、これらの条件。引き換えにする価値があるとお思いになりませんこと?」
夜の静寂が、再び二人の間を支配した。
バルコニーの外では、王都の街並みが薄暗い夜霧の中に沈んでいる。
オスカーは腕を組み、冷徹な青い瞳で、目の前に立つ少女を凝視し続けた。
美しい。
だが、その美しさは、社交界の花のように愛でられるためのものではない。
他者の欲望、見栄、傲慢のすべてを計算し尽くし、冷徹に数字へと換算して解体する――劇薬のような美しさ。
「……回収した隠し資産の三割。そしてグラナート領の十年の治外法権か」
オスカーは低く呟き、ゆっくりとルチアとの距離を詰めた。
そして、手すりに置かれていたルチアのワイングラスのすぐ隣、大理石の上に――音もなく、一冊の薄いファイルを滑り込ませた。
黒い上質な革表紙。
そこには、財務省の極秘監査官のみが使用を許される、銀の蝋印が押されていた。
「……これは?」
ルチアが視線を落とす。
「貴様への、最初の依頼案件だ」
オスカーの声は、先ほどまでの冷徹な脅迫者から、冷酷な共同経営者のものへと完全に切り替わっていた。
「社交界の裏で暗躍する二匹の害虫がいる。
一人は、甘いマスクと近衛騎士の肩書で数多の令嬢や未亡人を騙し、法外な借金を背負わせてきた結婚詐欺師まがいの放蕩貴族――カシアン・フォン・ベルンハルト侯爵。
もう一人は、王都随一の高級サロン『白百合の間』を牛耳り、偽造絵画や偽装美術品を貴族たちに高値で売りつけて巨額の裏金を吸い上げている女衒――イザベラ・フォン・クランツ伯爵夫人」
ルチアの瞳が、わずかに細められた。
ベルンハルト侯爵と、クランツ伯爵夫人。
社交界の華やかな表舞台の裏で、女性たちの純情と見栄を食い物にして私腹を肥やしてきた、悪名高い男女のペテン師コンビ。
「奴らの背後には、貴族院の重鎮が何人も連なっている。財務省の監査部隊が動けば、即座に政治的圧力がかかり、証拠はすべて隠滅される。……貴様の毒で、奴らを内側から食い破れ。自滅させ、隠し口座の資産をすべて吐き出させろ」
オスカーはそう告げると、伸ばした手で、ルチアの白磁の顎をそっとすくい上げた。
革手袋の冷たい感触が、ルチアの肌に触れる。
だが、その指先には先ほどの暴力的な気配はなく――まるで、手に入れた至高の凶器の切れ味を確かめるかのような、奇妙な熱が宿っていた。
「強欲な女だ。財務卿の足元を見て、国家予算の三割をふんだくろうとするとはな。……だが、気に入った」
オスカーの薄い唇が、獲物を前にした狼のように獰猛に歪んだ。
「貴族院の腐った豚どもを、骨の髄まで搾り取ってみせろ。契約は成立だ、ルチア・フォン・グラナート」
顎を解放されたルチアは、乱れた呼吸を悟られぬよう、優雅にカーテシーを執って頭を下げた。
その紫紺の瞳の奥底で、かつてないほど獰猛な野心の炎がパチパチと音を立てて爆ぜる。
女の恋心を弄ぶ放蕩侯爵に、偽造美術品で暴利を貪るサロンの女王。
同業者(ペテン師)同士の、血で血を洗う心理戦。
そして――目の前に立つ、この絶対に女に騙されないはずの冷血な財務卿。
(ふふ……。面白くなってまいりましたわね)
ルチアはテーブルの上の黒いファイルを指先で引き寄せ、その冷たい革の表紙にそっと爪を立てた。
夜風が吹き抜け、モルガン伯爵邸の壊滅した大広間から、遠い楽団のワルツの残響がかすかに届いてくる。
泥水をすすっていた没落令嬢が、国家の心臓部へとその毒牙を伸ばす、長大なマネーゲームの幕が上がったのだ。
ルチアは顔を上げ、氷の公爵に向けて、息を呑むほど蠱惑的な微笑みを投げかけた。
「喜んでお引き受けいたしますわ、財務卿閣下。――あなたの誠意(予算)、美味しくいただいてみせます」
月光の下で交わされた、悪魔の雇用契約。
打算百パーセントで結ばれた二人の共犯関係は、やがて社交界全体を、そして王国そのものを根底から揺るがす巨大な嵐へと変わっていくのだった。




