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第8話:バブルの崩壊と自己破滅

巨大な真鍮の鐘が、王都中央為替座の吹き抜けのドームに乱打された。

ゴォン、ゴォン、ゴォン――!

それは通常、一日の取引の終了を告げる合図ではない。市場を揺るがす未曾有の事態、すなわち『緊急重大公報』が発令されたことを意味する、市場関係者にとっての弔鐘(ちょうしょう)だった。


「速報だ! 海軍本部および南海貿易ギルドからの公式緊急電だぞ!」

「どけ、書類を見せろ!」

「南方新航路の調査船団――座礁だ! 未知の暗礁に接触し、旗艦を含む主力貨物船三隻が沈没! 香料および希少鉱石の調達は全面的に不可能、計画は無期限凍結!!」


怒号が地鳴りのように為替座のフロアを揺るがした。

階段を駆け下りてきたブローカーたちが、印刷されたばかりの濡れた号外を宙にばら撒く。

真っ白な紙吹雪が舞い散る中、それまで熱狂的に買われていた『南方新航路特許手形』の価値は、垂直落下を描いて暴落した。買い注文の板は一瞬にして蒸発し、売り注文の山だけが積み上がっていく。


「買値がつかないぞ! 半値でもいい、誰か引き取れ!」

「十分の一でも売れない! 紙屑だ、ただのゴミ屑だァァッ!」


阿鼻叫喚の狂乱を、二階の貴賓席バルコニーから無表情に見下ろしている女性がいた。

黒いヴェールを上げ、無造作にショートカットの銀髪を揺らす二十二歳の天才数学者――セレーナ・ハイドだった。

彼女の細い指先は、手元の取引台帳の上を滑るように羽ペンを走らせ、冷徹極まる計算式を淡々と処理していた。


「……うん、計算通りね。流動性の枯渇、パニック売りの連鎖。愚かな子爵令息が金貨千枚で飛びついた直後に、最高値で売り抜けておいた空売り(ショート)のポジション……すべて底値で買い戻し完了」


セレーナは小さく息を吐き、唇の端を皮肉げに吊り上げた。

ユリアンが「金貨千枚」で買い取った手形は、実体のない幽霊船の権利だった。セレーナはルチアの指示のもと、ユリアンが買い付ける直前の天井圏で、ダミー口座を通じてその手形と同額の「将来の引き渡し約束(空売り)」を市場に仕掛けていたのだ。

手形の価値がゼロになった今、空売りの利益は丸ごと確定する。

ユリアンが破滅のために差し出した金貨千枚――クライン子爵家の全財産と借入金は、為替座の複雑怪奇な清算ルートを経由して、合法的にグラナート家の裏口座へと還流されていた。


「ルチア様……本当に恐ろしいお方。人の見栄と欲望だけで、一銭のリスクも負わずに十億円相当の富を吸い上げるなんて。……さあて、あとは夜会の処刑劇を見届けるだけね」


同刻。モルガン伯爵邸の大広間。

昨夜に引き続き開催されていた晩秋の慈善舞踏会は、夜の更けるとともに最高潮の熱気を帯びていた。

クリスタル・シャンデリアの眩い光の下、フロアの中央でこれ見よがしに豪快な笑い声を響かせていたのは、ユリアン・フォン・クラインだった。


「はははっ! 皆様、遠慮なさらずにどんどん最高級のシャンパンをお開けください! 今宵の宴の追加費用は、すべてこの私が個人的に持ちましょう!」


燕尾服の胸を反らし、銀のトレイからグラスを取り上げて周囲の令息たちに配るユリアン。

昨日のやつれ果てた顔はどこへやら、その頬はワインの赤みと全能感によって紅潮していた。懐には、昨日手に入れたばかりの、黄金の箔押しが施された『南方新航路特許手形』の原本がしっかりと収められている。

半年後には金貨五千枚。

自分はすでに、社交界の頂点に君臨する大富豪の内定者なのだ。そう信じ込んで疑わない男の傲慢さは、天井知らずに肥大化していた。


「おいおい、ユリアン! 急に羽振りが良くなったじゃないか!」

「何か巨大な商談でもまとめたのかい? モルガン伯爵家のおこぼれかい?」

「失礼なことを言うな!」


取り巻きの冷やかしに対し、ユリアンは不快そうに鼻を鳴らした。


「モルガン伯爵家の力など借りてはおらん! これは俺自身の器量、俺自身の圧倒的な才覚によって掴み取った独自の国家プロジェクトだ! 半年後、お前たち平伏することになるぞ。俺は王都一の大富豪になるのだからな!」


その尊大な喚き声のすぐ背後で、氷のような足音が近づいてきた。


「……あら。私の実家の力など借りていない、ですって?」


真紅のシルクドレスを纏い、扇子を手にしたヴィヴィアン・ド・モルガンが、冷え切った釣り目を細めてユリアンの前に立ち塞がった。

首元の豪奢なエメラルドが、苛立ちの熱を帯びてギラギラと光を散らしている。


「昨夜、あんな見苦しい大見得を切って飛び出していったと思えば……よくもまあ、我が家のサロンでそんな下品な大言壮語を吐けましたこと。大富豪? 笑わせないで。クライン子爵家の身代で、一体どんな身の程知らずな夢を見ていらっしゃいますの?」


ヴィヴィアンの冷酷な嘲笑。

だが、今宵のユリアンは、昨日までの従順な飼い犬ではなかった。

彼は懐の手形にそっと触れ、優越感に歪んだニヤケ面をヴィヴィアンの至近距離へと突きつけた。


「ふん……ヴィヴィアン、お前はいつも俺を見下してきたな。だが、それも今日までだ。お前が欲しがっていた特注のエメラルドの婚約指輪など、俺にとっては端した金で買えるオモチャに過ぎなくなる! いいか、半年後にはお前の方から俺の足元に跪き、『妻にしてください』と泣きついてくることになるんだ!」


「な……なんですって……!?」


ヴィヴィアンの顔が侮辱に引き攣った。

周囲の貴族たちも、伯爵令嬢に対して公然と反旗を翻した子爵令息の狂態に、息を呑んで遠巻きに輪を作り始める。

まさに、ユリアンの自尊心が絶頂に達し、己が世界の王であると錯覚した――その瞬間だった。


ドタンッ!!


大広間の重厚な扉が、警備の衛兵の静止を振り切って乱暴に押し開けられた。

優雅な音楽がピタリと止まる。

息を切らし、泥まみれの外套を引きずりながら広間へと転がり込んできたのは、クライン子爵家の紋章をつけた老執事だった。


「ぼ、坊ちゃん……! ユリアン坊ちゃんんんんっ!!」


「な、なんだ、無作法な! ここはモルガン伯爵家の夜会だぞ、何の騒ぎだ!」


機嫌を損ねたユリアンが怒鳴りつける。

だが、老執事は主人の息子の怒声など耳に入らない様子で、床に膝から崩れ落ち、血を吐くような絶叫をホール中に響かせた。


「お、終わりです……! すべて終わりでございます……! 先ほど、王都中央為替座から緊急の破産通達が屋敷に届きました……! 南方航路の船団が……主力船がすべて座礁し、沈没いたしましたァッ!!」


――ピシリ。

ユリアンの視界の端で、何かが砕け散るような幻聴がした。


「……は? ざ、座礁……? 沈没……?」


「手形は……坊ちゃんがクライン家の全資産と、領地と屋敷を担保に入れて買い取られたあの手形は……額面価値ゼロ! ただの紙屑となりました!! 高利貸したちが一斉に担保の執行を宣言し、今まさに我が領地の農地と王都の屋敷が、すべて差し押さえられておりまするッ!!」


広間が静まり返った。

蝋燭の炎が爆ぜる音すら聞こえるほどの、絶対的な静寂。

老執事の言葉の意味を、ユリアンの脳は即座に処理できなかった。

紙屑?

金貨千枚が?

先祖伝来の領地が?

金貨五千枚の大富豪になるはずの、俺の未来が……?


「う……嘘だ……」


ユリアンの手から、銀のワイングラスが滑り落ちた。

ガシャンッ! と甲高い音を立てて砕け散り、深紅の液体が純白の大理石の床を無残に染め上げる。


「嘘だ嘘だ嘘だッ! そんなはずがあるか! あれは王室直轄の利権だぞ!? 海軍の認可印も、為替座の極秘シミュレーションもあったんだ! 五倍になるはずなんだ! 俺は大富豪になるんだよォォッ!」


ユリアンは狂乱し、懐から羊皮紙の手形を取り出して頭上に掲げた。

だが、その手形を真っ先に凝視したのは、隣に立っていたヴィヴィアンだった。


「……見せなさい、それを!」


ヴィヴィアンはユリアンの手から手形を強引にひったくった。

そして、そこに記された取引条項――『未確定航路における特別投機』『不可抗力による元本毀損の免責』『自己責任の原則』の文字を目にした瞬間、彼女の顔面は急速に青ざめ、次いで沸騰したように真っ赤に染まった。


「な……何よ、これ……! 本当に……本当に、全財産をこんな怪しい紙切れ一枚に突っ込んだの……!?」


「ヴィ、ヴィヴィアン……! 違う、これは陰謀だ! 何かの間違いなんだ……!」


「間違いですってぇぇぇっ!?」


キィィィィンッ! と耳を劈くような金切り声が、大広間の天井を突き破らんばかりに響き渡った。

ヴィヴィアンの双眸から、貴族令嬢の理性が完全に蒸発していた。

手にした白鳥の羽毛と象牙の扇子を振り上げると――。


バシィィィッッ!!


鈍く、重い破裂音が広間に轟いた。

扇子の骨が、ユリアンの左頬を容赦なく打ち据えたのだ。


「ぐへっ!?」


「この無能! 能無し! 救いようのない寄生虫がぁぁっ!!」


ヴィヴィアンは狂乱し、扇子を滅多打ちにしてユリアンの顔面を殴りつけた。象牙の親骨が折れ、羽毛が千切れ飛び、ユリアンの頬から鮮血が飛び散る。


「よくも……よくも私の顔に泥を塗ってくれたわね! 我がモルガン伯爵邸の夜会で、破産した無一文の負け犬を婚約者として連れ歩かせるなんて! 王都中の貴族が私を笑い者にするじゃないの! 金貨千枚の借金塗れのゴミ屑が! 死になさい、今すぐここで舌を噛み切って死になさいよォッ!」


「がっ……! や、やめろ、痛い! 痛いッ!」


床に転がり、顔を覆って悲鳴を上げるユリアン。

だが、殴られ続け、公衆の面前で「ゴミ屑」「寄生虫」と罵倒され続けた瞬間――男の脳内で、何かが決定的に音を立てて千切れた。


「……ふざけるな……」


「なんですって!?」


「ふざけるなァァッ! このアマァァッ!!」


ユリアンは獣のような咆哮を上げ、床から跳ね起きた。

血まみれの顔で、真紅のドレスを着たヴィヴィアンの胸ぐらを両手で鷲掴みにしたのだ。


「ひゃっ……!?」


「誰のせいでこうなったと思っているんだ! お前だ! お前の見栄のためだぞ! お前が『婚約指輪を買う甲斐性もない』となじったから! お前を見返して、お前を喜ばせるために、俺は全財産を賭けたんだよ! この性悪の守銭奴女がァッ!」


「離しなさい、不潔よ! 誰がそんな無茶を頼んだというのよ! 身の程知らずの自業自得を私のせいにするんじゃないわよ、このクズ男ッ!」


ヴィヴィアンが爪を立ててユリアンの顔を引っ掻き、ユリアンは逆上してヴィヴィアンのドレスを力任せに引き裂いた。

ビリッ、バリバリッ! と豪奢なシルクが裂け、ダイヤモンドのブレスレットが千切れて床一面に宝石が散らばる。


「きゃあぁぁっ! ドレスが! 私の特注ドレスがぁっ!」

「死ね! お前も道連れだ! 一緒に地獄へ落ちろォッ!」


二人は取っ組み合いのまま、広間の壁際に設えられていた巨大な給仕台へと突っ込んだ。

ガッシャアァァァンッ!!

十段に積み上げられていたクリスタルのシャンパンタワーが崩壊し、何百個ものグラスが粉々に砕け散る。

銀の大皿に盛られていたローストビーフのグレービーソースと、ケーキの生クリームが二人の頭から降り注ぎ、高級ワインの海の中で、伯爵令嬢と子爵令息が泥人形のように転がり合って罵り合い、殴り合う。


「うわああああっ! 衛兵! 衛兵を呼べ!」

「逃げろ、破片が飛んでくるぞ!」


逃げ惑う貴族たち。悲鳴を上げてスカートを押さえる婦人たち。

王都で最も優雅であるはずのモルガン伯爵邸の舞踏会は、一瞬にして場末の酒場以下の、阿鼻叫喚の地獄絵図へと成り果てていた。


「そこまでにせいッ!!」


雷鳴のような怒声が響いた。

武装した数十名の私兵を引き連れ、広間の奥から姿を現したのは、夜会の主催者であるモルガン伯爵本人だった。

怒りで血管が浮き出た顔で、伯爵は床で取っ組み合う二人の豚を指差した。


「衛兵! その薄汚い狂人どもを引き離せ! 今すぐ屋敷の外へ叩き出せ!!」


「はっ!」


屈強な衛兵たちが踏み込み、生クリームとワインと血にまみれたユリアンとヴィヴィアンを力ずくで引き剥がす。

二人は床を引きずられながらも、互いに唾を吐きかけ合っていた。


「離せ! 俺は子爵家の跡取りだぞ! 金さえあれば……金さえあればお前ら全員……!」

「お父様、殺して! あの男を殺してえぇぇっ! 私のドレスが、私の誇りがぁぁっ!」


「黙れ、恥さらしどもが!」


モルガン伯爵は激昂のあまり杖を床に叩きつけた。


「クライン子爵家との婚約は、今この瞬間をもって破棄とする! 我がモルガン伯爵家は、破産した詐欺師の一族など一切関知せぬ! そしてヴィヴィアン、貴様もだ! 我が家の名をこれほどまでに汚した愚か者め、当面の間、領地の修道院へ幽閉とする! 二人とも、二度と社交界にその面を晒すなッ!!」


宣告。

全財産を失い、借金まみれの罪人となったユリアンと、自尊心を粉々に砕かれ、社交界から永久追放されることとなったヴィヴィアン。

二人は衛兵たちによって、夜の闇の中へと無残に引きずり出されていった。


壊滅した大広間の片隅。

騒然とする貴族たちから一歩引いた、人影の薄い大理石の柱の影に、ルチア・フォン・グラナートは静かに佇んでいた。

手にしたグラスの深紅のワインを、一口、優雅に口に含む。

彼女の純白のドレスには、飛び散ったワインの一滴すら触れていなかった。

最初から最後まで、ルチアは一度も嘘を吐かず、誰にも強制せず、ただ相手の見栄と強欲に燃料を注いだだけ。

自滅した愚か者たちの末路を見届けるその瞳は、秋の夜空のように澄み渡り、冷酷なまでに静まり返っていた。


(……ごちそうさまでした、ユリアン。

あなたが身を粉にして差し出してくれた金貨千枚、我がグラナート領のインフラ開発のために、美味しく使わせていただきますわ)


ふっと、残酷なまでに美しい三日月の笑みが、ルチアの唇を彩る。


――だが。

その瞬間、ルチアの全身の産毛が、ピリリと粟立った。


(……視線?)


何者かの、異常に濃密で、冷徹な視線。

ルチアは微かに視線を巡らせた。

大広間の吹き抜けを見下ろす二階の回廊、蝋燭の光も届かない深い闇の帳の中に――。


漆黒の礼装に身を包んだ、長身の男が一人、静かに佇んでいた。

闇の中で鈍く青い燐光を放つ、氷の刃のような瞳。

その男は、広間の阿鼻叫喚の修羅場など一瞥もしていなかった。

ただ一人――ワインを傾け、静かに微笑むルチアの姿だけを、獲物を狙う鷹のように、冷酷に、射抜くように凝視していたのだ。


(あの男は……まさか)


ルチアの脳内の警報が、かつてない音量で鳴り響いた。

だが、彼女は怯むことなく、その闇の視線に向けて、優雅にグラスを掲げてみせた。

自らの手を一切汚さずに成し遂げた、完全犯罪の余韻に浸りながら。


「他人の金で買ったプライドは、メッキが剥がれる瞬間が一番綺麗に燃え上がりますのね」


夜風が吹き抜け、グラスの中の深紅のワインが、静かに波紋を描いていた。

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