第7話:完璧な二重罠(ダブル・バインド)
濃厚な薔薇油と粉白粉の甘ったるい香気が、閉ざされた豪奢な空間に澱のように沈殿していた。
モルガン伯爵邸の二階奥、貴婦人専用の化粧室。
壁一面には金箔で縁取られたヴェネツィアングラスの三面鏡が据えられ、銀の燭台が柔らかな蝋燭の炎を揺らしている。豪奢なソファに腰掛け、苛立たしげに象牙のブラシで自らの金髪を梳かさせていたのは、伯爵令嬢ヴィヴィアン・ド・モルガンその人だった。
「もういいわ、下がりなさい! どいつもこいつも、気の利かない間抜けばかり!」
ヴィヴィアンが扇子を床に叩きつけると、取り巻きの令嬢たちや専属の小間使いたちは怯えたように息を呑み、逃げるように化粧室から退室していった。
重厚な樫の扉が閉ざされ、部屋に残されたのはヴィヴィアン一人。
真紅のシルクドレスの胸元を激しく上下させ、彼女は鏡に映る自らの歪んだ顔を睨みつけていた。
「何なのよ、あの男……! あの貧乏女の涙を見た途端、鼻の下を伸ばして……! この私が、モルガン伯爵家の私が婚約者にしてあげた恩を忘れて、あんなみすぼらしい雑草に未練を見せるなんて、万死に値するわ!」
手首に巻かれた幾重ものダイヤモンドのブレスレットが、怒りの震えとともにジャラジャラと耳障りな金属音を立てる。
ヴィヴィアンにとって、ユリアンという男は愛の対象などではない。
自らの美貌と財力を誇示し、意のままに操るための「都合のいいアクセサリー」に過ぎなかった。だからこそ、その所有物が自分の支配を離れ、他所の女――それも自分が徹底的に見下している没落令嬢に心を奪われかけたという事実が、狂おしいほどに自尊心を苛んでいたのだ。
トントン。
その時、化粧室の扉が控えめに、躊躇いがちにノックされた。
「誰よ!? 今は一人にしておきなさいと言ったでしょう!」
「……あ、あの……ヴィヴィアン様、いらっしゃいますでしょうか……?」
扉の隙間から漏れ聞こえてきたのは、鈴の音のように澄んだ、しかし今にも消え入りそうなほどか細い声だった。
ヴィヴィアンの眉が吊り上がる。
「……その声、まさか」
ギイと音を立てて扉が半開きになり、そこから滑り込んできたのは――純白の薄絹のドレスを纏った、ルチア・フォン・グラナートだった。
ルチアは両手でショールを固く握りしめ、青ざめた顔で怯えたように室内を見回すと、ヴィヴィアンの姿を捉えた瞬間、その場に崩れ落ちるように膝を折った。
「ヴィヴィアン様……! 申し訳ございません、このような無作法をお許しください! ですが……ですが、私、どうしてもあなた様にお伝えしなければならないことがあって、ここまで追いかけてまいりましたの……!」
「な……何よ、急に。みっともない真似はおやめなさい! 私に許しでも乞いに来たわけ!?」
ヴィヴィアンは立ち上がり、扇子を胸元に構えてルチアを威圧するように見下ろした。
だが、床に伏したルチアの紫紺の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちるのを見て、わずかに毒気を抜かれたように眉をひそめる。
「違います……! 私をいくら罵っていただいても構いません! ですが……お願いです、ヴィヴィアン様! ユリアン様を……ユリアン様を、お止めになってくださいまし……!」
「はぁ? ユリアン様を止める? 一体何の話をしているのよ」
「ユリアン様が……無茶をなさろうとしているのです!」
ルチアはすがりつくように顔を上げ、切迫した面持ちで言葉を紡いだ。
前世――数多の男女の修羅場を演出し、互いを疑心暗鬼の地獄へと突き落としてきた結婚詐欺師、一条玲奈の精密な心理誘導が、一滴の淀みもなく発動していた。
「先ほど、バルコニーでお見かけした際、ユリアン様のあまりのただならぬご様子に、私、思わずお声をかけてしまいましたの。そういたしましたら……ユリアン様は、興奮したご様子で、とんでもないことを仰ったのです。『もうすぐ、王都中の誰もが息を呑むような大富豪になって、ヴィヴィアンを驚かせてやる』と……!」
「……なんですって?」
「ユリアン様は、ある危険な裏取引に手を出そうとしていらっしゃいます! 海軍関係者の極秘手形……失敗すれば全財産を失い、子爵家ごと破滅しかねない、莫大な投機取引ですわ! 私、必死でお止めしたのです! そんな無茶はおやめくださいと! ですが……ユリアン様は、耳を貸してくださらなくて……」
ルチアは両手で口元を覆い、しゃくりあげるように肩を震わせた。
そして――ヴィヴィアンの心の最深部に埋め込まれた、最も鋭利なトゲを正確に引き抜く一言を投下した。
「ユリアン様は……仰ったのです。『ヴィヴィアンに、王都のどんな大貴族の正妃よりも豪奢な、特注のエメラルドとダイヤモンドの婚約指輪を贈るのだ』と。『あいつを見返して、俺の真の甲斐性を認めさせてやるのだ』と……!」
ドクン、と。
ヴィヴィアンの心臓が、大きく跳ね上がった。
(……私への、婚約指輪……?)
ヴィヴィアンの思考が、猛烈な勢いで回転し始める。
先ほどホールで、ルチアを前にして見栄を張り、自分に「甲斐性なし」と罵倒されたユリアン。
あのプライドの高い男が、屈辱に耐えかねて、自分を喜ばせるため――そして自分を見返すために、危険な賭けに出ようとしている?
(あの男……私のために、そこまでの無茶を……?)
女としての、そしてモルガン伯爵令嬢としての歪んだ優越感が、じわりと胸を満たした。
私に相応しい、王都一の宝石を贈るために。
私の前に跪き、その愛と忠誠を証明するために、全財産を賭けようとしているのだと。
――だが。
その甘美な陶酔は、次の瞬間に湧き上がった「強烈な支配欲」と「苛立ち」によって、黒く塗り潰された。
(ふざけるな、あの能無しが……!)
ヴィヴィアンの釣り目が、怒りに細められる。
自分に相談もせず、伯爵家である自分の許可も得ず、勝手に大金を動かそうとしている?
もし失敗して破滅したらどうなる? 私の婚約者が破産したなどという醜聞が社交界に広まれば、泥を塗られるのはモルガン伯爵家と、この私ではないか!
それに――もし、万が一にもその投資とやらが成功して、ユリアンが巨万の富を手に入れたら?
あの男は私の忠実な犬ではなくなり、自分と対等、あるいはそれ以上の顔をしてふんぞり返るのではないか?
そして何より――あの男の脳裏には、いまだに目の前のこの没落令嬢の影がチラついているのだ!
「……その投資とやら、本当の話なの?」
ヴィヴィアンの声は、先ほどまでの甲高い怒声から一転、氷のように低く、冷徹なものへと変わっていた。
「え、ええ……! ユリアン様は、何やら複雑な数式や為替座の極秘資料をお持ちでいらっしゃいました……。お願いです、ヴィヴィアン様! あなた様のお言葉なら、ユリアン様もきっとお聞き入れくださるはずです! どうか、あの方の暴走をお止めくださいまし……!」
ルチアは必死の形相で懇願した。
完璧な演技だった。
これこそが、心理学における『リアクタンスの逆用』である。
「止めてください」と懇願されればされるほど、傲慢で支配的な人間は「私がその男の鼻をへし折って、真実を暴いてやらなければ気が済まない」という衝動に駆られるのだ。
「……ふん。くだらない」
ヴィヴィアンは冷たく鼻を鳴らし、扇子でルチアの手を払いのけた。
「身の程知らずな田舎娘が、私の婚約者の心配など百億年早くてよ。ユリアン様が何をなさろうと、それは我がモルガン伯爵家とクライン子爵家の問題。あなたのような部外者が口を挟むことではありませんわ」
「ヴィヴィアン様……」
「さあ、お立ちなさい! これ以上、私の視界にそのみすぼらしい顔を晒すなら、衛兵を呼んで叩き出させますわよ!」
「も、申し訳ございません……!」
ルチアは怯えたように頭を下げ、逃げるように化粧室を飛び出していった。
背後で、バタン! と乱暴に扉が閉ざされる。
廊下に一人残された瞬間。
ルチアの顔から、怯えも涙も、一切の表情が跡形もなく消え去った。
ハンカチで目元の涙を丁寧に拭い取りながら、彼女の唇に浮かんだのは、冷酷極まる計算通りの笑みだった。
(第一段階、種まき完了。
ヴィヴィアン、あなたは絶対にユリアンを問い詰めるわ。『私のために指輪を買う気なの?』という甘い自尊心と、『私に無断で勝手な真似をするな』という傲慢な支配欲の二重の刃でね)
そして、その二重の刃を突きつけられた時――ユリアンというプライドの塊のような男がどう反応するか、ルチアには手に取るように分かっていた。
三十分後。舞踏会場の片隅、人気のない彫像の陰。
「な、何を言い出すんだ、ヴィヴィアン! 声が大きい!」
ユリアンは青ざめた顔で周囲を見回しながら、詰め寄ってくる婚約者を押し留めようとしていた。
だが、真紅のドレスを揺らすヴィヴィアンの剣幕は、止まるどころか激しさを増すばかりだった。
「声が大きい!? やましいことがあるからそうやって怯えるのでしょう、ユリアン様! 白状なさい! あなた、私に内緒で、危険な怪しい投機に手を出そうとしていらっしゃいますね!?」
「なっ……!? な、なぜそれを……!?」
ユリアンが息を詰まらせた。
バルコニーでルチアから南方航路の手形を託されてから、まだ一時間も経っていない。なぜこの女が知っているのだ?
ユリアンの脳裏に、先ほどのルチアの言葉がよぎった。
『ヴィヴィアン様には、決して知られてはなりません……。あの方は誇り高きお方、あなた様が無茶な出資をしてまで指輪を用意しようとなさっていると知れば、お怒りになってしまうかもしれませんから……』
(ルチアが漏らしたのか!? いや、違う……! あいつは俺を心配していた。きっと、あいつの怯えた態度を見て、この勘の鋭い性悪女が感づいたんだ……!)
ユリアンの誤認は、ルチアの思惑通りに完全に歪んでいた。
「答えなさいよ! 私への婚約指輪を買うためだなんて、よくもまあそんな見え透いた嘘を! 本当は、私の実家の威光を笠に着て、一攫千金を狙って大貴族気取りをしたいだけなのでしょう!?」
「ち、違う! 俺は、お前に最高の贈り物を……!」
「笑わせないで!」
ヴィヴィアンは扇子でユリアンの胸元をバシッと叩いた。
その瞳には、侮蔑と嘲笑の色が満ちていた。
「金貨千枚ですって!? あなたのような、実家のスネをかじることしかできない無能な子爵令息に、そんな大金が用意できるわけがないでしょう! クライン家の年収の何倍だと思っていらっしゃるの!? 身の程を弁えなさい、この甲斐性なしが!」
「――っ!!」
甲斐性なし。
無能な子爵令息。
実家のスネかじり。
その言葉が、ユリアンの脳天を直撃した。
先ほどルチアから『あふれんばかりの才能』『大貴族として羽ばたくべき高潔な志』と全肯定されたばかりのプライドが、最も屈辱的な形で踏みにじられたのだ。
視界が真っ赤に染まり、ユリアンの全身の血液が沸騰した。
「……言わせておけば、調子に乗りやがって……!」
「なんですって?」
「俺を誰だと思っているんだ、ヴィヴィアン!!」
ユリアンは我を忘れ、ヴィヴィアンの手首を乱暴に振り払った。
その目は血走り、獣のように見開かれていた。
「俺はクライン子爵家の正統な跡取りだ! 金貨千枚だろうが二千枚だろうが、俺の器量なら朝飯前で用意できる! お前なんぞに頭を下げずとも、俺は自らの力で社交界の頂点に立ってみせる! 見ていろ……後悔させてやるぞ! 俺の足元に縋り付いて許しを請うのは、お前の方だ!!」
怒号を叩きつけると、ユリアンはヴィヴィアンの制止も聞かず、大股で夜会の会場を飛び出していった。
取り残されたヴィヴィアンは、自らの手首をさすりながら、信じがたいものを見る目でその背中を睨みつけていた。
(あいつ……本気で用意する気なの……!? あの無能が……!?)
翌日の夕暮れ。
王都の中心部、貴族や豪商たちが密談に使う会員制サロン『銀の錨亭』の最奥の個室。
重厚なカーテンが閉め切られた薄暗い部屋のテーブルの上には、山のように積まれた書類と、黒光りする二本の羽ペンが置かれていた。
「……ぜ、全部……用意したぞ……」
テーブルの前に座るユリアンの顔は、わずか一晩で幽鬼のようにやつれ果てていた。
目の下には濃い隈が刻まれ、唇は乾いてひび割れている。
だが、その濁った瞳の奥には、狂気じみた異様な熱が宿っていた。
彼がテーブルの上に叩きつけたのは、三通の分厚い為替手形だった。
クライン子爵家の王都中央銀行預金の全額解約小切手(金貨四百枚)。
先祖伝来のクライン領の肥沃な農地を担保にした、王都の有力高利貸しからの即日緊急融資手形(金貨四百枚)。
王都のタウンハウス(屋敷)と家財一切を抵当に入れた追加手形(金貨二百枚)。
合計――金貨千枚(日本円にして約十億円相当)。
クライン子爵家の過去、現在、そして未来のすべての資産を質に入れ、文字通り一族の命運をすべて賭け金として積み上げた、破滅の結晶だった。
「素晴らしい決断力ですわ、ユリアン様」
テーブルの向かい側。
純白のモスリンドレスの上に、上品な黒いレースのヴェールを被ったルチアが、静かに腰掛けていた。
その隣には、黒い仕立ての良い燕尾服を着た、厳格な面持ちの男が控えている。
王都商業ギルドの公認仲買人――表向きはそう名乗っているが、実態は為替ディーラーのセレーナが手配した、金で雇われた完璧なダミーの代理人だった。
「これで……これで、あの手形は俺のものになるんだな!?」
ユリアンは身を乗り出し、涎を垂らさんばかりの勢いで叫んだ。
ルチアは優雅に頷き、ダミーの仲買人に目配せをする。
男は無言で、豪奢な金箔押しの革表紙に包まれた契約書をテーブルの中央へと滑らせた。
『南方新航路特許・先行出資持分譲渡契約書』
その書類の形式は、一分の隙もないほど完璧なものだった。
王室海軍の紋章、南海貿易協会の刻印、そして王立為替座の登録番号。
だが――その契約条項の第4条には、極小の流麗な文字で、決定的な文言が刻まれていた。
『第4条(自己責任の原則および免責):
本取引は未確定航路における特別投機案件であり、天災、海難事故、航路変更その他一切の不可抗力による配当の遅延または元本の毀損について、仲介者および情報提供者はいかなる補償義務も負わないものとする。出資者は自らの自由意志および単独の責任において出資を行うことを約す』
元本保証ゼロ。
完全な自己責任。
そして何より――ルチア・フォン・グラナートという名前は、契約書の当事者欄にはどこにも存在しない。
彼女はあくまで「両者を引き合わせた親切な情報提供者」の欄に、証人としてサインするだけなのだ。
たとえ南方船が沈もうと、手形が紙屑になろうと、ルチアが法的に罪に問われる余地は、最初から一ミリたりとも存在しなかった。
「……さあ、ユリアン様。こちらに署名を」
ルチアは、インクを含ませた羽ペンをユリアンの震える手へと握らせた。
ユリアンは契約書の細かな免責条項など、目もくれなかった。
彼の脳裏にあるのは、「半年後に金貨五千枚が手に入る」「ヴィヴィアンを見返せる」「社交界の頂点に立てる」という、麻薬のような甘い幻想だけだった。
(サンクコストの呪縛――)
前世で何百人もの資産家を破滅させてきた一条玲奈の記憶が、冷徹に男の心理を解説する。
人間は、すでに莫大な犠牲(領地と屋敷の抵当)を払ってしまった時、「引き返す」という選択肢を脳から完全に排除する。
ここで立ち止まれば、自分はただの無一文の借金王だ。
だからこそ、前に進むしかない。破滅のアクセルを、自らの意志で全力で踏み込むしかないのだ。
カリ、カリカリ……ッ!
乾いた音が静寂の個室に響く。
ユリアン・フォン・クラインは、自らの手で、破滅への片道切符にサインを刻み込んだ。
そして、持参した金貨千枚の手形を、貪るように契約書と交換したのだ。
「終わった……! 手に入れたぞ……! 俺は、俺は勝ったんだ!!」
手形を胸に抱きしめ、狂喜の笑い声を上げるユリアン。
ルチアはその姿を冷ややかに見つめながら、ダミーの仲買人が回収した金貨千枚の手形――その行き先が、セレーナの管理する特殊為替口座を経由して、グラナート家の裏資金プールへと合法的に送金されるルートを、頭の中で完璧にトレースしていた。
「おめでとうございます、ユリアン様」
ルチアはヴェールの下から、息を呑むほど美しい、完璧な微笑みを向けた。
「あなた様はこれで、モルガン伯爵家すら平伏させる、真の大貴族ですわ。……吉報を、心より楽しみにしておりますね」
「ああ! 見ていろ、ルチア! 半年後、お前を必ず迎えに行ってやるからな!」
ユリアンは意気揚々と、夢遊病者のような足取りで個室を出て行った。
破滅へのカウントダウンが、すでにゼロ秒を指していることにも気づかずに。
男の足音が完全に消え去った個室で。
ルチアはヴェールをゆっくりと跳ね上げた。
手元のワイングラスに注がれた深紅の液体を一口含み、夜の王都の街並みを見下ろしながら、彼女の唇からこぼれ落ちたのは――残酷なまでの美しさを湛えた、冷笑だった。
「疑いと見栄。――この二つが揃った男女ほど、効率よく自爆してくれる燃料はありませんわ」
燃料は、満杯に注がれた。
あとは――その火蓋を切って落とすだけだ。




