第6話:甘い毒の投資話
豪奢な大理石のホールから漏れ出るワルツの旋律が、冷たい夜風に溶けてかすかに揺れていた。
モルガン伯爵邸の二階、西翼に位置する円形バルコニー。
ここは喧騒を極める舞踏会場から回廊を一本隔てた場所にあり、庭園の噴水と王都の夜景を一望できる静かな隠れ場だった。
「くそっ……! どいつもこいつも、俺をコケにしやがって……!」
バルコニーの手すりに両手を突き、手にした銀のグラスから安くない赤ワインを一気に喉へ流し込んでいるのは、ユリアン・フォン・クラインだった。
先ほどのホールでの醜態。ルチアの儚げな涙によって会場中の貴族たちから冷たい蔑視を浴びせられ、さらには婚約者であるヴィヴィアンから公衆の面前で「甲斐性なし」「貧乏神」となじられた屈辱が、男の狭い胸の中でどす黒いマグマとなって煮えたぎっていた。
「伯爵令嬢だからって、いい気になりやがって……! 婿養子同然に引き取ってやるだと? 誰の金でドレスを買い漁っていると思っているんだ! 少し格上の家に生まれたからといって、俺を見下しおって……!」
ヴィヴィアンは現在、他の大貴族の夫人たちとのマウント合戦と、化粧直しの名目で別室へと引き籠もっている。
連れ歩くアクセサリー程度にしか思われていないユリアンは、事実上放置された状態だった。
荒い息を吐きながら、空になったグラスを手すりに乱暴に叩きつける。
その脳裏に焼き付いて離れないのは、ヴィヴィアンのヒステリックな金切り声ではなく――先ほど、涙を潤ませて自らを見上げていた、ルチアのあの姿だった。
『ユリアン様の……あふれんばかりの輝かしい才能と、大貴族として羽ばたくべき高潔なお志を、泥沼に引きずり落としてしまうところでしたわ』
かつて自分が泥水の中に放り捨てたはずの、没落した元婚約者。
その彼女が、今や社交界の誰よりも清らかで、息を呑むほど美しく成長していた。
そして何より、あの絶世の美女が――今なお、自分の「才能」を誰よりも信じ、自分のために身を引いたのだと言って泣いたのだ。
(ルチア……。そうだ、お前だけだ。お前だけが、俺の真の価値を分かってくれていた……!)
歪んだ自己愛と未練が、酒の熱とともに全身を駆け巡る。
だが、今の自分には何もない。クライン子爵家の財力などモルガン伯爵家の足元にも及ばず、ヴィヴィアンの機嫌を損ねれば社交界での立場すら失いかねない。
金だ。圧倒的な金と、伯爵家すら平伏させる強大な権力さえあれば――ヴィヴィアンの鼻を明かし、あの美しいルチアを再びこの腕の中に抱くことができるのに。
「――ユリアン様?」
その時。
背後から、鈴の音を転がしたような、透き通った声が降ってきた。
夜風に乗ってふわりと漂ってきたのは、濃厚な香水の匂いではない。
搾りたてのベルガモットの清涼感と、洗い立ての清潔な石鹸の微香――。
「ル、ルチア……!?」
ユリアンは弾かれたように振り返った。
月光を浴びてそこに佇んでいたのは、純白の薄衣を纏ったルチア・フォン・グラナートだった。
夜風に黒髪を遊ばせ、胸元で両手をぎゅっと握りしめたその姿は、まるで夜の闇に迷い込んだ月の妖精のように儚く、美しかった。
「申し訳ございません……。お一人でいらっしゃるのが見えましたので、その……先ほどは私のせいで、ヴィヴィアン様とお諍いになってしまわれたのではないかと、心配で……」
ルチアは困ったように眉を下げ、紫紺の瞳を潤ませてユリアンを見上げた。
そして、怯えた小鳥のように半歩後ずさる。
「で、ですが、やはり私のような者が話しかけては、またヴィヴィアン様にご迷惑をおかけしてしまいますわね。……失礼いたします」
「ま、待ってくれ! 行かないでくれ、ルチア!」
ユリアンは思わず手を伸ばし、ルチアの細い手首を掴みそうになった。
寸前のところでルチアが身を引いたため空を切ったが、男の焦燥感は最高潮に達していた。
「あんな女のことなど、どうでもいいんだ! あいつは……ヴィヴィアンは、俺の本当の才能など何一つ理解していない! ルチア、君だけだ。君だけが、俺の真価を分かってくれている……!」
「まあ……そんな……」
ルチアは驚いたようにその薄い唇に指を当て、切なげに息を呑んだ。
その瞳の奥底で――冷徹極まるプロファイリングの計算機が、カタカタと獲物の解体を始めていることなど、ユリアンには知る由もなかった。
(はい、食いついた。警戒心ゼロ、自尊心への飢餓感マックス。……さあ、甘い毒を垂らして差し上げましょう)
ルチアは周囲を警戒するようにそっと視線を巡らせ、バルコニーの影へと歩み寄った。
そして、ユリアンにだけ聞こえるような、吐息交じりの囁き声で口を開いた。
「ユリアン様。……本当は、このようなこと、誰にもお話ししてはならないのです。ですが……先ほどのあなた様の悔しそうなお顔を見ておりましたら、私、どうしても胸が締め付けられてしまって……」
「え……? 誰にも話してはならないこと……?」
ユリアンの目が怪訝そうに細まる。
ルチアは、純白のドレスの隠しポケットから、丁寧に折り畳まれた上質な羊皮紙の束をそっと取り出した。
「実は……我が家が借金に苦しんでいる最中、お父様が昔、宮廷海軍の要職にいらした古いご友人から、極秘裏に託された『利権の手形』があるのです」
「利権の手形……?」
「ええ。『南方新航路の特許手形』――王室直轄で進められている、新大陸からの高級香料および希少鉱石の独占輸入権の、先行配当枠ですわ」
その言葉が出た瞬間、ユリアンの息が止まった。
南方新航路。それは、社交界でもごく一部の大貴族の間で、都市伝説のように囁かれていた国家最高機密のプロジェクトだった。
王室が巨額の予算を投じ、未知の南方海域から莫大な富を持ち帰るという巨大貿易船団。成功すれば、関わった者は一夜にして国家予算レベルの富を手にすると噂されていた利権である。
「な、なんだって……!? ば、馬鹿な、そんな超ド級の国家利権を、なぜグラナート家のような田舎子爵家が持っているんだ!?」
「本来であれば、公爵家や侯爵家といった、王室最側近の大貴族にしか出資枠は回ってまいりません」
ルチアはもっともらしく頷き、悔しそうに瞳を伏せた。
「ですが、お父様はその昔、海軍の高官の命の恩人だったのです。そのご縁で、手違い……いえ、特別なご配慮として、非公式に『一口だけ』、先行枠を回してくださったのです。……王立為替座を通さない、完全な非公開のプライベート・プレイスメント(縁故募集)として」
(――希少性の原理、発動)
ルチアはあえて声を落とし、情報の「秘匿性」と「限定性」を強調した。
人間は、「誰でも手に入るもの」には慎重になるが、「自分たちだけに特別に許された、二度と手に入らない限定枠」と聞かされた瞬間、リスクを精査する脳のブレーキが完全に焼き切れるのだ。
「し、しかし……それほどの利権があるなら、なぜグラナート家は借金まみれで没落しかけているんだ?」
ユリアンがわずかに残った理性で疑念を口にした。
当然の疑問だ。だが、ルチアはその問いへの回答を、最初から完璧に用意していた。
「……資金が、足りないのです」
ぽろり、と。
ルチアの目尻から、悔恨に満ちた涙が零れ落ちた。
「この手形は、権利を行使するために、期日までに『金貨千枚』の一括出資を行わなければならない条件がついております。ですが……我が家には、そんな大金を工面する余力などございません。高利貸しに相談すれば、足元を見られて権利そのものを奪われてしまう……。あと数週間で期日が切れてしまえば、この手形はただの紙屑になってしまうのです」
ルチアは両手で顔を覆い、か細い肩を震わせた。
「悔しくてたまりません……! この手形に出資さえできれば……船団が王都港へ帰還する半年後には、元手の五倍――『金貨五千枚』の純利益となって還元されるというのに……!」
「ご、五千枚……!?」
ユリアンの喉が、ヒュッと甲高い音を立てて鳴った。
金貨五千枚。
それは、中規模の伯爵領の年間総税収に匹敵する、天文学的な数字だった。
平民の家なら千軒以上、広大な領地と城が丸ごと買えてしまう額。
もし、それほどの現金を自分が手にしたらどうなる?
モルガン伯爵家などに頭を下げる必要など微塵もなくなる。ヴィヴィアンを顎で使い、自分を見下してきた貴族たちを全員足元に平伏させることができる。
そして――何より、クライン子爵家は一躍、王国屈指の豪商貴族へと成り上がることができるのだ!
「ほ、本当なのか、ルチア……!? 本当に、元手の五倍になるのか!?」
「ええ……。こちらをご覧くださいまし。外部には決して漏らしてはならない、為替座の極秘資料です」
ルチアはそっと羊皮紙を広げ、ユリアンの目の前に差し出した。
月光の下に浮かび上がったのは、息を呑むほど精巧な図表と数字の羅列だった。
南方航路の季節風サイクル、過去十年の香料相場の推移、王都における需要予測の数式モデル、そして船団の積載量に基づく損益分岐点のシミュレーション――。
それは、後にルチアの右腕となる天才為替ディーラー、セレーナ・ハイドが作成した、現代のヘッジファンド顔負けの「本物の市場分析レポート」だった。
もちろん、データそのものは本物の経済学に基づいている。
だが――このレポートが前提としている「王室直轄の船団」など、最初から存在しない架空の幽霊船なのだ。
「こ、これは……すごい……! 王立為替座の正規の計算式と、海軍本部の認可印まであるじゃないか……!」
もちろん、それらの印章も、下町のスラムの偽造職人を使えば金貨数枚で完璧に再現できる粗悪なイミテーションに過ぎない。
だが、数字と経済の素人であるユリアンにとって、整然と並んだ複雑な数式と権威ある印章は、絶対の真実としてその目に焼き付いた。
ハロー効果と専門性の罠。男の判断能力は、すでに完全に麻痺していた。
「ルチア……! この手形、我がクライン家で引き受けることはできないか!?」
ユリアンはルチアの両肩を掴まんばかりの勢いで身を乗り出した。
その瞳は血走り、呼吸は荒く乱れ、強欲と見栄に完全に支配されていた。
「だ、ダメです、ユリアン様……!」
ルチアは怯えたように身を縮め、首を横に振った。
「金貨千枚ですのよ!? いくらクライン子爵家といえど、それほどの大金を急ぎで用意するなど、あまりにも無茶ですわ! もし……もし何か手違いがあれば、ユリアン様にご迷惑がかかってしまいます! 私、そんなことになったら申し訳なくて死んでしまいます……!」
(――リアクタンスの罠。拒絶すればするほど、男は意地になる)
「何を言っているんだ、ルチア!」
案の定、ユリアンは自尊心を刺激されて声を荒らげた。
「俺を誰だと思っている! クライン子爵家の正統な後継者だぞ! 金貨千枚くらい、領地と屋敷を担保に入れ、提携の高利貸しから一時的に掻き集めれば、二、三日で用意できる額だ!」
「で、ですが……ヴィヴィアン様はなんと仰るでしょう……? モルガン伯爵家のお許しを得ずに、そのような大金を動かしては……」
「あいつの許可など要るものか!」
ユリアンは忌々しそうに吐き捨てた。
「あいつはいつも俺を金のない居候のように扱い、見下してきたんだ! 俺がこの投資で金貨五千枚を手に入れれば、モルガン伯爵家など足元にも及ばない大富豪になれる! そうすれば、あいつも俺の前に跪くしかないんだ! ……それに」
ユリアンは熱っぽい視線で、ルチアの白磁の横顔を見つめた。
「俺がそれだけの富を手にすれば……グラナート家の借金など、俺が一撃で肩代わりしてやれる。そうすれば、ルチア……お前を、俺の正妻として迎え入れることだってできるんだ!」
(……うわあ。本当に救いようのないクズね)
ルチアは内心で激しい悪寒と失笑を禁じ得なかった。
今まさに伯爵令嬢と婚約している身でありながら、他人の金で大富豪になる夢を見、元婚約者を都合のいい愛人か第二夫人にする皮算用を公然と口にする。
男の身勝手さと、浅ましい強欲の極致。
だが――詐欺師にとって、これほど扱いやすい獲物は存在しない。
「ユリアン様……。私、私のために、そこまで……?」
ルチアは瞳を潤ませ、感極まったように羊皮紙の手形を胸元に抱きしめた。
そして、まるで世界で最も尊い宝物を手渡すかのように、震える手でその書類をユリアンの掌の上へと重ねたのだ。
「信じておりますわ、ユリアン様。……あなた様のような素晴らしい才能をお持ちの殿方なら、必ずやこの投資を成功させ、社交界の頂点へと駆け上がられるはずです。この権利……ユリアン様に、お譲りいたします」
「ルチア……! おお、ルチア……!」
ユリアンは宝物を手に入れた子供のように、貪るような手つきで羊皮紙を握りしめた。
その顔には、勝利を確信した愚かな笑みが張り付いている。
自ら破滅の断頭台へ向かって全速力で走っていることなど、微塵も気づかずに。
「任せておけ! 明後日までに、必ず金貨千枚を用立ててみせる! お前を必ず、幸せにしてやるからな……!」
「はい……お待ちしておりますわ、ユリアン様」
ルチアは儚げに微笑み、深々と一礼してバルコニーを後にした。
背後で、ユリアンが興奮冷めやらぬ様子で書類を読み耽る気配を感じながら。
回廊の角を曲がり、完全に男の視界から外れた瞬間。
ルチアの口元から、可憐な令嬢の表情が一瞬で消え去った。
冷たい壁に背を預け、薄暗い廊下の闇の中で、彼女の唇に浮かんだのは――ぞっとするほど冷酷で、美しい三日月の笑みだった。
「欲深い男に毒を飲ませる必要はありませんわ。――『特効薬』だと嘘をついて渡せば、自分から喜んで飲み干しますから」
第一の獲物は、完全に罠の底へと飛び込んだ。
さあ――次は、あの傲慢な伯爵令嬢にも、破滅への燃料を注ぎ込んであげなくては。




