第5話:元婚約者の値踏み
周囲を取り巻く貴族たちの冷ややかな視線と、小声で囁かれる痛烈な非難。
先ほどまで勝ち誇った笑みを浮かべていたユリアン・フォン・クラインの顔面は、急速に赤黒く鬱血し、脂汗がその広い額を濡らしていた。
婚約破棄された側の没落令嬢が、公衆の面前で涙を零しながら非を認めて頭を下げる――そのあまりにも儚く健気な姿は、会場にいた紳士たちの正義感と庇護欲を激しく刺激し、ユリアンを「か弱い令嬢をいたぶる無作法な悪漢」の立場へと完全に叩き落としていた。
「ち、違う、私は……! ルチア、お前、わざとこんな真似を……っ!」
狼狽し、取り巻きの令息たちに助けを求めるように視線を泳がせるユリアン。
だが、冷たい沈黙を破ったのは、その取り巻きたちではなかった。
人混みの奥から、まるで自らが世界の中心であると信じて疑わない傲慢な足音とともに、耳障りな衣擦れの音が近づいてきたのだ。
「――あらあら。ユリアン様、こんな掃き溜めのような場所で、一体何を油を売っていらっしゃいますの?」
氷の刃のように甲高い、嘲笑を含んだ女の声。
群衆が波のように割れ、そこへ一人の令嬢が姿を現した。
ヴィヴィアン・ド・モルガン。十八歳。
この豪奢な夜会を主催するモルガン伯爵家の息女であり、ルチアが実家の没落とともにユリアンを奪われた相手――当代きっての跳ねっ返り令嬢だった。
(……来たわね。社交界の『歩く宝石店』)
ルチアは伏し目がちに涙を拭う仕草を続けながら、視界の端でその姿を冷徹にスキャンした。
ヴィヴィアンが身に纏っているのは、夜会の照明を暴力的に反射する、目の醒めるような真紅のシルクドレスだった。幾重にも重ねられた豪奢なレースのフリルに、裾には金糸の波模様。胸元には、鳩の卵ほどもある巨大なエメラルドを中心にしたダイヤモンドのネックレスが重々しく輝き、耳たぶにも同じ細工の豪奢なイヤリングがぶら下がっている。
両手首にはダイヤモンドのブレスレットが幾重にも巻かれ、扇子を開閉するたびに、カチカチと宝石同士がぶつかり合う鈍い金属音が鳴り響いていた。
華やかではある。だが、あまりにも過剰で、息が詰まるほどの装飾の暴力。
己の容姿や気品に自信がない人間ほど、ブランド品と宝石の物量で己の輪郭を補強しようとする――前世の港区や銀座の夜の街にも腐るほどいた、典型的な「承認欲求の亡者」の姿だった。
「まあ、ヴィヴィアン……! 戻ってきてくれたのか!」
ユリアンは地獄で仏に出会ったかのように相好を崩し、縋り付くようにヴィヴィアンの元へと擦り寄った。
しかし、ヴィヴィアンはユリアンを一瞥しただけで、その冷酷な視線をすぐさまルチアへと向けた。
手にした白鳥の羽毛の扇子で口元を隠し、細い釣り目を三日月のように歪めて、これ見よがしに甲高い笑い声を立てる。
「オホホホホ! 何かと思えば、グラナート家のみすぼらしい小鳥ではありませんの! 噂には聞いておりましたけれど、本当に招待状をどこかから盗み出して潜り込んできたのかしら? よくもまあ、そんな粗末な布切れ一枚で、我がモルガン伯爵邸の敷居を跨げましたこと」
ヴィヴィアンの侮蔑の視線が、ルチアの純白のドレスを頭から爪先まで舐め回すように走る。
「お気の毒に。首元にも手首にも、宝石の一つすら買えない身分だなんて。いくら家が没落したからといって、恥という概念すらお忘れになってしまったのかしら? ユリアン様、こんなみすぼらしい女を相手になさるなんて、あなたのお優しい心根も考えものですわ。みっともない貧乏神が移ってしまいますもの」
浴びせられる容赦のない罵倒。
ヴィヴィアンは己の優越感に浸りきり、周囲の貴族たちへ向けて「さあ、私と一緒にこの貧乏令嬢を笑いなさい」と言わんばかりに視線を配った。
しかし――ルチア・フォン・グラナートは、微塵も取り乱さなかった。
侮辱に顔を歪めることも、怒りに任せて言い返すこともない。
ルチアは静かに、両手を胸元から下ろし、まるで王族の御前に控える筆頭女官のように、流麗極まる所作でドレスの裾をわずかに引いた。
スッ――と、息を呑むような静寂が広がる。
背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、顎をわずかに引き、膝を滑らかに折る。
首筋の白さと鎖骨の優美なラインが、シャンデリアの光を浴びて神々しいまでの陰影を描き出す。
頭を下げる角度、指先の揃え方、スカートの波打つドレープの制御に至るまで――王立典礼局の最高指南役ですら非の打ち所を見出せない、完璧無比な宮廷儀礼。
「な……っ!?」
ヴィヴィアンが扇子の奥で言葉を失った。
嘲笑おうとした相手が、社交界のどんな大貴族の令嬢よりも洗練された、圧倒的な『気品』の塊としてそこに君臨したからだ。
そして、ルチアはゆっくりと顔を上げた。
その紫紺の瞳には、怒りでも屈辱でもなく――まるで聖母のように慈愛に満ちた、そして今にも壊れてしまいそうなほど儚い微笑みが浮かんでいた。
「ヴィヴィアン様。……お初にお目にかかります。グラナート子爵が娘、ルチアと申します」
澄み切った鐘の音のような声が、静まり返ったホールに染み渡る。
「我が家の困窮ゆえ、不快な思いをおかけしてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます。……ですが、ヴィヴィアン様。私は今宵、どうしてもあなた様にお礼を申し上げたかったのです」
「……は? お、お礼ですって……?」
ヴィヴィアンが毒気を抜かれたように眉をひそめた。
ルチアは、隣に立つユリアンへと、そっと視線を移した。
潤んだ瞳で、まるで触れれば消えてしまう幻を慈しむかのように、切なげにユリアンを見つめる。
「ユリアン様を……あのような素晴らしい殿方を、私のような身の上の者から救い出し、温かくお支えくださっていることへの、心からの感謝でございます」
「な……んだと……?」
ユリアンが息を詰まらせた。
「我がグラナート家は、愚かにも多額の負債を抱えてしまいました。私のような無力で貧しい女の隣にいては、ユリアン様の……あふれんばかりの輝かしい才能と、大貴族として羽ばたくべき高潔なお志を、泥沼に引きずり落としてしまうところでしたわ」
ルチアは胸元に手を当て、小さく首を横に振った。
「ユリアン様の将来を思えば、私のような者が身を引くのは、あまりにも当然のことでございました。ヴィヴィアン様のような、美しく、名門の富と権威をお持ちの素晴らしい令嬢の隣に立ってこそ、ユリアン様の真価は発揮されますもの。……ユリアン様。どうか、私との過去などお忘れになって、ヴィヴィアン様とともに、眩い栄光の道を歩んでくださいましね」
そう語り終えたルチアの目尻から、きらりと一筋の涙が零れ落ち、白磁の頬を伝って床へと消えた。
自らの身の貧しさを呪いながらも、相手の幸福と将来を心から祈り、身を引いた悲劇の聖女。
そのあまりにも完璧な演技に、周囲の貴族たちは息を呑み、感嘆と切なさの混じった溜息を漏らした。
(――はい、エゴ・ストローキング、完璧に命中)
伏し目がちに涙を拭いながら、ルチアの脳内では冷徹極まる心理分析の計算機が、カタカタと音を立てて回っていた。
エゴ・ストローキング――相手の傷つきやすい自尊心、特に「無能であるにもかかわらず肥大化したプライド」を、全肯定の言葉で徹底的に愛撫する技術。
ユリアンという男の本質は、実家の権威にぶら下がり、己の実力では何一つ成し遂げられない小心者だ。
モルガン伯爵家という格上の大貴族の令嬢であるヴィヴィアンに拾われ、表向きは得意満面になっていたが、その実、ヴィヴィアンの傲慢な態度と財力の前に、男としてのプライドは日々すり減らされ、去勢された子犬のように縮こまっていたはずなのだ。
そこへ、かつて捨てたはずの元婚約者から、公衆の面前で投げかけられた言葉。
『あふれんばかりの輝かしい才能』。
『大貴族として羽ばたくべき高潔なお志』。
『あなたの才能を開花させるために、身を引いた』。
男にとって、これほど脳髄を溶かす甘美な毒が存在するだろうか?
「あ……あ、あ……」
ユリアンの喉から、掠れた声が漏れ出していた。
その瞳孔は大きく開き、心臓の鼓動が早鐘を打っているのが、薄い燕尾服の胸元の揺れからでも見て取れた。
(ルチアは……俺を、そんな風に見てくれていたのか……!?)
ユリアンの脳内で、猛烈な勢いで自己愛が膨張していく。
そうだ、俺には才能があるのだ。俺は大貴族として栄光を掴む器なのだ。
ルチアは俺を恨んでなどいない。むしろ、俺の才能を愛し、俺の輝かしい未来の邪魔にならないように、身を引き裂かれる思いで身を引いてくれたのだ!
そして――何より、ユリアンの理性を狂わせたのは、目の前に立つルチアの圧倒的な『女としての価値』だった。
かつての地味でおとなしかった子爵令嬢の面影はどこにもない。
無駄な宝石を一切排した純白のドレスから覗く、透き通るような白肌と優美な肉体の曲線。
憂いを帯びた紫紺の瞳。
自分を一心に想い、涙を流して微笑む、社交界の誰よりも気品に満ちた絶世の美女。
(あ、あんな極上の女が……今でも、俺に惚れている……!?)
ゴクリ、と。
周囲にも聞こえるほどの音を立てて、ユリアンは喉を鳴らした。
その目は完全にルチアに奪われ、熱っぽい執着と後悔、そして猛烈な独占欲の炎がメラメラと燃え上がっていた。
金さえあれば。
クライン子爵家がモルガン伯爵家にも劣らない財力さえ手に入れれば――あのルチアは、再び俺の腕の中に飛び込んでくるのではないか?
ヴィヴィアンのようなヒステリックで傲慢な女の機嫌を取る毎日から抜け出し、あの至高の花を手に入れることができるのではないか――!?
だが、その男のあからさまな変貌に、気づかない女はいなかった。
「……ユリアン様?」
ピシリ、と空気が凍りついた。
ヴィヴィアンの声から、先ほどまでの嘲笑の色が完全に消え失せていた。
代わって満ちたのは、剥き出しの苛立ちと、信じがたいものを見たという激しい怒り。
ヴィヴィアンは見たのだ。
自らの婚約者であるはずの男が、自分を差し置いて、みすぼらしいはずの没落令嬢を――熱に浮かされたような、だらしない淫らな目つきで見つめ、見惚れている瞬間を。
「ユリアン様! 何をボケッと突っ立っていらっしゃいますの!? この泥棒猫の戯言に、聞き惚れていらっしゃるわけではありませんわよね!?」
ヴィヴィアンはヒステリックに声を荒らげ、ユリアンの腕を乱暴に引っ張った。
手首に巻かれた無数のダイヤモンドのブレスレットが、ジャラリと耳障りな音を立てて軋む。
「い、痛いっ! な、何をするんだ、ヴィヴィアン!」
「何をするかですって!? 私の前で、他の女に鼻の下を伸ばすなんてどういうおつもりですの!? 伯爵家の婿にしてあげるという私の恩義を忘れて、この貧乏女に未練がおありだとでもおっしゃるの!?」
「そ、そんなことは言っていないだろう! 公衆の面前で声を荒らげるな、恥ずかしい!」
「恥ずかしい!? 恥をかかされているのは私の方ですわ! この甲斐性なしが!」
衆人環視のホールの中で、二人は早くも醜い口論を始めようとしていた。
周囲の貴族たちは眉をひそめ、軽蔑の視線をモルガン伯爵令嬢とその婚約者へと向ける。
かつてルチアを捨てて結ばれたはずの二人の間に、取り返しのつかない「猜疑心」と「不信感」の楔が、いま深く打ち込まれたのだ。
ヴィヴィアンの強い支配欲は、ユリアンへの監視を強め、男をさらに追い詰めるだろう。
そしてユリアンは、ヴィヴィアンへの鬱屈した反発心と、ルチアへの肥大化した未練を晴らすため――喉から手が出るほど「莫大な金」と「男としての力」を欲するようになる。
(完璧。仕込みはこれで百点満点ね)
言い争う二人を前に、ルチアは深々と、もう一度優雅な一礼を捧げた。
「お二人のお邪魔をしてしまい、大変失礼いたしました。……どうぞ、素晴らしい夜をお過ごしくださいまし」
ルチアは背を向け、静かに人混みの中へと身を引いた。
その後ろ姿を、ユリアンが焦燥と未練に満ちた瞳でいつまでも追いかけているのを、ルチアは振り返ることなく肌で感じ取っていた。
ホールのテラスへと続く薄暗い回廊に足を踏み入れ、喧騒から離れた瞬間。
ルチアの口元から、可憐な聖女の微笑みがふっと消え去った。
夜風に黒髪を揺らしながら、彼女の唇に浮かんだのは、冷酷無比な詐欺師の冷笑だった。
「男の浮気心なんて、空っぽの金庫と同じ。――響きのいい言葉を投げ込めば、簡単に良い音が鳴るものですわ」
自尊心という名の燃料は、十分に注ぎ込まれた。
あとは、あの愚かな男に、甘い毒の火種を投げ込んでやるだけだ。




