第4話:舞踏会という名の競り市
王都の夜空を焦がすような篝火が、石造りの豪奢な大門を煌々と照らし出していた。
モルガン伯爵邸。王都でも有数の財力を誇る名門貴族の屋敷には、今宵の『晩秋の慈善舞踏会』に招かれた高位貴族たちの馬車が、途切れることなく車輪の列を連ねている。漆塗りの車体には金や銀の家紋が誇らしげに輝き、降り立つ紳士淑女たちは競い合うように豪奢な装飾をこれ見よがしに夜風に晒していた。
「……身元確認の列、かなり厳重ですわね、お嬢様」
従者として馬車の脇に控えていたエミリアが、外套のフードを目深に被ったまま、耳元で小声で囁いた。
屋敷の巨大なエントランスの前には、モルガン伯爵家の紋章をつけた武装衛兵と、厳格な面持ちの典礼官が立ち並び、来客の招待状を一通ずつ鋭い眼光で検分している。格下の貴族や素性の怪しい者が紛れ込まぬよう、目を光らせているのだ。
「心配いりませんわ、エミリア」
馬車のステップに足をかけながら、ルチア・フォン・グラナートは薄手のショール越しに、自らの胸元に収められた金縁の招待状に触れた。
この招待状は、決して偽造したものではない。
第2話で手玉に取った悪徳高利貸しカール・バルツァー。彼が「貴族院のパトロンに取り入る足がかり」として血眼になって手に入れていた『王都商業ギルド推薦枠』の正規招待状を、ルチアへの出資契約の一環として吐き出させたものだ。
格式あるグラナート子爵家の血筋と、商業ギルドの正式な推薦状。法的一分たりとも突っ込みどころのない、完全無欠の正規ルートである。
「グラナート子爵令嬢、ルチア・フォン・グラナート様とお見受けいたします。……どうぞ、中へ」
羊皮紙の刻印を虫眼鏡で確認した典礼官が、わずかに眉を動かした。没落したはずの貧乏子爵家の名前に一瞬の疑念を抱いたようだったが、印章の真正さと、ルチアの背筋の伸びた完璧な立ち居振る舞いに圧倒され、恭しく頭を下げて門を開けた。
「ありがとう存じます」
ルチアは微塵の動揺も見せず、凛とした足取りで敷居を跨いだ。
重厚な大理石の階段を上がり、二階の舞踏会場の扉が開け放たれた瞬間――。
熱気と、眩い光の奔流がルチアの全身を包み込んだ。
天井から吊り下げられた十基を超える巨大なクリスタル・シャンデリアが、何千本もの蝋燭の光を乱反射させ、黄金色の光の雨をフロアへと降らせている。楽団が奏でる華やかなストリングスの調べ。飛び交うグラスの触れ合う音。
そして何より、会場を埋め尽くす貴族令嬢たちの『色の洪水』だった。
深紅のベルベット、目の醒めるようなエメラルドグリーンのシルク、重厚な金糸で刺繍されたサテンのドレープ。針金を幾重にも重ねたパニエで巨大に膨らませたスカートが床を擦り、首元や耳元には、これでもかとばかりにダイヤモンド、ルビー、サファイアがギラギラと光を散らしている。
己の実家の財力を誇示し、少しでも高位の男を捕まえようとする女たちの、むせ返るような虚栄心の競い合い。濃厚な薔薇やジャスミンの香水が入り混じり、息が詰まるほどの欲望が渦巻いていた。
(……ええ、予想通り。完璧なレッド・オーシャン(過当競争)ですわね)
ルチアは内心で冷ややかに笑いながら、肩に羽織っていた黒い毛皮のショールを、静かにエミリアへと預けた。
その瞬間だった。
ルチアの周囲数歩の空間から、ふっと会話の音が消え失せた。
「……っ?」
「おい、見ろ……あそこにいるのは……?」
ざわざわと、波紋のように静寂が広がっていく。
広大なホールの中心へ、ゆっくりと歩みを進めるルチア。その姿を目にした男性貴族たちが、手にしていたシャンパングラスを止めて息を呑んだ。
ルチアが纏っていたのは、装飾を極限まで削ぎ落とした、上質なモスリン生地の『純白のドレス』だった。
パニエによる不自然な膨らみは一切なく、彼女が歩を進めるたびに、柔らかな白布がしなやかに波打ち、細く引き締まったウエストと、優美な腰のラインを自然に描き出す。
首元には、宝石のネックレスが一つもない。
その代わりに露わになったのは、計算されたスクエアネックから覗く、透き通るような白磁のデコルテと、華奢で折れそうな美しい鎖骨の陰影。
手首には、蜘蛛の巣のように繊細で慎ましやかな細いレースが巻かれているだけ。
そして、夜空を切り取ったような艶やかな黒髪は、華美なティアラではなく、控えめな銀のピンで無造作にハーフアップにまとめられている。
けばけばしい原色と重苦しい宝石に目を痛めていた男たちにとって、その姿は――まるで、毒々しい極彩色の花園の中に、忽然と現れた一輪の清らかな白百合だった。
「な、なんだ、あの令嬢は……?」
「美しい……。あんな透き通るような肌の娘、社交界にいたか?」
「いや、待て……あの顔立ち、グラナート家の娘ではないか? 莫大な負債を抱えて没落し、飢え死に寸前だと聞いていたが……」
「馬鹿な、没落令嬢があれほど気品に満ちているはずがないだろう! まるで、どこかの小国の王女のようだ……」
囁き声が四方から降ってくる。
男たちの視線が、まるで磁石に吸い寄せられるかのようにルチアに釘付けになっていた。
すれ違いざま、ルチアの体からふわりと漂うのは、濃厚な香水ではなく、搾りたてのベルガモットの清涼感と、洗い立ての石鹸の微香。
その清潔で無垢な香りが男たちの鼻腔をくすぐるたび、彼らの喉仏がごくりと動くのを、ルチアの冷徹なプロファイリングは見逃さなかった。
(第一フェーズ、視覚のジャック完了。コントラスト効果は覿面ね)
ルチアは伏し目がちに、わずかに憂いを帯びた表情を浮かべながらフロアを歩く。
堂々と胸を張るのではない。「身分違いの場に迷い込んでしまい、居心地悪そうに身を縮める可憐な小鳥」を完璧に演じているのだ。
男たちの独占欲と庇護欲が、じわじわと沸点を上げていくのが空気の熱で肌に伝わってくる。
だが――彼女が真に狙う獲物は、有象無象の貴族たちではない。
「――おやおや。私の見間違いでなければ、そこにいるのはルチア・フォン・グラナートではないかい?」
耳障りなほど甲高い、嘲笑を含んだ男の声が、ホールの喧騒を切り裂いて響いた。
人混みが割れ、数人の取り巻きを引き連れて歩み出てきたのは、一人の青年だった。
仕立ての良すぎる燕尾服の胸元には、これ見よがしに金糸の刺繍が施され、指にはいくつもの指輪が光っている。整った目鼻立ちをしてはいるが、薄い唇と落ち着きなく泳ぐ瞳が、その内面の軽薄さを如実に物語っていた。
ユリアン・フォン・クライン。十九歳。
クライン子爵家の跡取りであり――グラナート家の没落が決定的となった瞬間、一方的に婚約を破棄してルチアを捨て去った、元婚約者その人だった。
「本当にルチアじゃないか! 驚いたな、ここはモルガン伯爵家が主催する王都最上流の夜会だよ? 借金まみれで泥水をすすっている田舎の貧乏人が、一体どうやって潜り込んできたんだい?」
ユリアンは下卑た笑みを浮かべ、手に持ったワイングラスを揺らしながらルチアへと歩み寄ってきた。
背後の取り巻きの貴族令息たちも、同調して下品な笑い声を上げる。
「おいおいユリアン、君の元婚約者かい?」
「へえ、ずいぶんと質素な格好だな。ドレスに宝石の一つもついていないじゃないか」
「きっと、今日の夜会で金持ちのパトロンでも見つけて、恵んでもらおうと必死なんだろうさ!」
嘲笑の言葉が、容赦なくルチアへと浴びせられる。
周囲の貴族たちも、事態の成り行きを見守ろうと足を止め、遠巻きに輪を作り始めた。
ユリアンは周囲の注目を浴びてますます気を良くしたのか、尊大に胸を反らし、ルチアの顔を覗き込んできた。
「可哀想にね、ルチア。君の父親のお人好しが災いして、グラナート家はもう破産寸前なんだろう? 私と婚約していた頃は、もう少し小綺麗な格好をさせてあげていたのに……。どうだい? あまりに哀れだから、私の足元に跪いて許しを請うなら、余ったパン屑くらいは恵んであげてもいいよ?」
かつて愛を語り合い、永遠を誓い合ったはずの男の口から吐き出される、底の浅い罵倒。
常人であれば、屈辱に顔を真っ赤にして言い返すか、恥辱に耐えかねて泣きながらその場を逃げ出すところだろう。
だが――ルチア・フォン・グラナートの脳内では、感情の針など一ミリたりとも揺れていなかった。
(……はい、プロファイリング完了。相変わらず原価ゼロの口先男ね)
ルチアは瞬時にユリアンの全身をスキャンし、冷酷に採点を下していた。
上着の金糸刺繍は派手だが、肩の縫製が身体のサイズと微妙に合っていない(=ヴィヴィアンの機嫌を取るために急造で誂えたか、既製品に無理やり装飾を足した見栄っ張り)。
足元の革靴は最新の流行だが、歩き方がぎこちない(=履き慣れていない高価な靴で見栄を張り、足を痛めている)。
そして、周囲に聞こえるような大声で元婚約者を嘲笑うという行為そのものが――「自分は格上の男になったのだ」と周囲にアピールしなければ不安でたまらない、強烈な劣等感の裏返し。
(料理する価値もない粗大ゴミ。だけど――私の『品評会』を最高に盛り上げるための、最高のピエロ役にはなってくれそうね)
ルチアは、怒りの色など微塵も見せなかった。
反論も、否定も、睨みつけることすらしない。
彼女が取った行動は――ただ、静かにその場に立ち尽くし、小さく息を呑むことだった。
「……っ」
ルチアは両手を胸元でぎゅっと合わせ、細い肩をかすかに震わせた。
そして、透き通るような紫紺の瞳に、じわりと、今にも零れ落ちそうな大粒の涙を溜め――傷ついた小鳥のように、儚げにユリアンを見上げたのだ。
「ユリアン、様……」
その声は、震えていた。
しかし、ホールの静寂の中に、驚くほど澄み渡って響いた。
「申し訳、ございません……。私のような身の上の者が、このような晴れやかな場に足を踏み入れてしまい……ユリアン様のお目汚しをしてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます……」
ぽろり、と。
計算し尽くされた完璧なタイミングで、一筋の真珠のような涙が、ルチアの白磁の頬を伝って零れ落ちた。
「な……っ!?」
ユリアンが息を詰まらせた。
罵倒し、怒鳴り返されることを予想していたユリアンにとって、一切の反撃をせず、ただ自らの非を認めて涙を流すルチアの姿は、完全に想定外だった。
だが、真の破壊力は、その後に訪れた。
(――発動しなさい、アンダードッグ効果)
ルチアの内心の冷徹な号令とともに、周囲の空気が一変した。
遠巻きに見ていた紳士淑女たちの視線が、一瞬にして『ユリアンへの冷酷な軽蔑』へと塗り替えられたのだ。
「……おい、いくら何でも酷すぎないか?」
「ええ。没落したとはいえ、建国期から続くグラナート家の令嬢相手に、あんな下品な嘲笑を浴びせるなんて……」
「元婚約者なのだろう? 実家が困窮した途端に捨てておいて、公衆の面前であんな可憐な淑女をいたぶるなど、男の風上にも置けないな」
「クライン子爵家とは、あのような品性の欠片もない家柄だったのかしら。見損ないましたわ」
ヒソヒソとした非難の囁きが、鋭い針となってユリアンの背中に突き刺さる。
人間という生き物は、圧倒的な弱者が理不尽に虐げられている光景を目にした時、無意識のうちに弱者に同情し、加害者に対して強烈な嫌悪感を抱くようにプログラムされている。
ルチアは一切言い返さず、徹底的に「か弱い被害者」のポジションに自らを置くことで、会場中の男性貴族たちの庇護欲を味方につけ、ユリアンを完全な社会的孤立へと追い込んだのだ。
「な、何を言って……! ち、違う、私はただ……!」
周囲からの冷たい侮蔑の視線に気づき、ユリアンが狼狽して頬を引き攣らせる。
取り巻きの令息たちも、まずい空気を察してじりじりとユリアンから距離を取り始めていた。
そんな男のみじめな姿を見下ろしながら、ルチアは涙に濡れた長い睫毛の奥で、誰にも見えない冷徹な微笑みを浮かべていた。
(ようこそ、私の品評会へ、ユリアン。
あなたのちっぽけな自尊心という名の入札額――これからどこまで釣り上がりますかしらね?)
舞台の幕は、いま上がったばかりだった。




