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第41話:運河債券の暴落

午前八時四十五分。

王都中央為替座を取り囲む円形広場は、夜明け前から押し寄せた群衆の放つ生々しい熱気と、立ち込める冬の白銀の霧が混ざり合い、異様な蒸気を吹き上げていた。

大理石の重厚な列柱が立ち並ぶ為替座の正面大階段の前には、普段の十倍を超える警備兵が配置され、長槍を交差させて入場規制を行っている。だが、その制止を突き破らんばかりに押し寄せていたのは、身なりの良い大商会の筆頭番頭たち、貴族院予算委員会のバッジを胸元に光らせた代理人たち、そして先祖伝来の屋敷を抵当に入れてまで現金を掻き集めてきた守旧派貴族の使者たちだった。


「開けろ! 早く扉を開けろ!」

「本日の買い枠を真っ先に押さえねばならんのだ! 我がデュラン派の商会連合を待たせる気か!」

「金貨ならいくらでもある! 追加の信用手形も用意してきた! 三百枚だろうが四百枚だろうが、出ている分はすべて我が派閥で買い占める!」


飛び交う怒号。振り回される為替小切手と認印の束。

彼らの眼球は充血し、口元には不眠不休の興奮による泡が浮かんでいた。

昨夜、デュラン公爵邸で開かれた大祝宴の熱気は、今や王都中の投機家たちへと伝波していた。

『大陸横断・南部大運河先行開発債券』。

昨日、金貨三百枚の最高値を記録したその紙切れは、今朝の市場が開くと同時に王室からの正式発表がなされ、一気に金貨五百枚、あるいは千枚へと跳ね上がると信じ込まれていた。

乗り遅れてはならない。買い占めなければならない。他人に先を越されれば、生涯最大の富を奪われてしまう――。

自己増殖する強欲と、他人に富を奪われる恐怖(FOMO)が、彼らの理性を完全に焼き尽くしていた。


その熱狂の渦を見下ろすように、為替座の二階、重厚な鉄格子で守られた貴賓席の奥深く――。

冷え切った空気の中、漆黒のモスリンドレスを纏ったルチア・フォン・グラナートは、真鍮の手すりにそっと指先を添えて佇んでいた。

その隣には、計算尺を指先で器用に回転させながら、冷ややかに地上を見下ろす天才ディーラー、セレーナ・ハイド。

そして背後には、分厚い登記完了書類の束を胸に抱きしめた妹クラリスが、寸分の狂いもない姿勢で待機していた。


「……集まりに集まったわね、欲深い豚どもが」


セレーナが銀髪をかき上げ、手元の懐中時計をパチンと開いた。

針は、午前八時五十八分を指している。


「ロベルト公爵本人の私財、派閥貴族たちの全資産、そして奴が手を付けた国家非常時秘密積立金……そのすべてが、昨日のうちにあの金貨三百枚の天井で買い切られた。

今、あのフロアに殺到している連中が持っているのは、かき集めた端た金と、根拠のない万能感だけよ。……買い余力は、事実上ゼロ」


「ええ。豚が限界まで太り切るのを待つのは、実に忍耐のいる仕事でしたわ」


ルチアは冷笑を浮かべ、手すり越しに広間の大時計を見上げた。

その紫紺の瞳は、夜明け前の湖面のように静まり返っていた。

前夜、オスカーと交わした誓い。

手袋を外し、素肌と素肌で結び合った指先の熱気。

「お前の孤独ごと、俺が買い取ってやる」と言い放ち、自らの命すら担保に差し出した男の覚悟が、ルチアの魂の迷いを完全に消し去っていた。

ここにあるのは、哀れみでも、復讐の狂気でもない。

市場の歪みを正し、腐敗した寄生虫どもをその自業自得の法則によって切除する――絶対零度の外科手術。


「セレーナ」


「いつでもいけるわよ、ルチア様」


セレーナの双眸が、獲物の喉笛を裂く鷹のように鋭く研ぎ澄まされた。

彼女は手元の伝声管を取り上げ、為替座の地下密室、そしてフロアの要所に配置された二十名のダミーブローカーたちへと繋がる回線へと、低く、透き通った声を吹き込んだ。


「全回線、スタンバイ。……合図と同時に、第一弾から第五弾まで、一切の間隙を置かずに叩き込みなさい」


――ゴォォォォンッ!!


午前九時整。

為替座の天井に吊るされた巨大な真鍮の大鐘が、腹の底を震わせるような重々しい音を立てて鳴り響いた。

取引開始の合図。

重厚な真鍮の大扉が一斉に解き放たれ、フロア(ピット)へと群衆が雪崩れ込む。


「運河債券を買うぞ! 出ている売り板をすべて寄越せぇぇッ!!」


先頭の商人たちが叫び、黒板へと殺到した。

彼らは信じて疑っていなかった。今日も昨日と同じく、売り惜しまれた希少な証書を高値で奪い合うのだと。


――しかし。

彼らが手元の買い注文伝票を掲げた、まさにそのコンマ一秒後。


「――撃ち方、始め」


セレーナが冷酷に指を鳴らした。


ドォッ――!!


フロアの四方、異なるブローカーブースから、同時に二十名を超える黒衣の仲買人たちが立ち上がった。

彼らが両手に掲げたのは――赤インクで極太に殴り書きされた、信じがたい注文伝票の束だった。


「『サザン・トラスト』より、運河債券・五千口、無制限売り!!」

「『東方為替組合』より、八千口、成り行き売り!!」

「『港湾投資ファンド』より、一万口、売り!!」

「『グラナート第二信託』より――無制限売りだァァッッ!!」


「……は?」


最前列にいたロベルト派の商人たちの動きが、間抜けに凍りついた。

売り?

誰が?

なぜ?

今日、王室から正式発表がなされ、価格が倍に跳ね上がるはずの至高のプラチナチケットを――なぜ、市場の全員が欲しがっているこの瞬間に、これほどの天文学的な数量で投げ捨ててくるのか?


「う、売りだと……? ば、馬鹿め、安く手放す気か! 全額買い取ってやる、三百枚で――」


一人の商人が叫びかけた。

だが、その声は、次なる数字の暴力によって喉の奥へと叩き込まれた。


「売り気配、金貨二百八十枚!」

「二百六十枚!」

「二百四十枚!」

「二百二十枚! 売り注文、累計三万口を突破ァァッ!!」


「な……な、何が起きているんだァァッ!?」


黒板係の書記官たちのチョークが、凄まじい勢いで擦り減っていく。

消しては書き、消しては書き直される価格。

だが、そこに買い手の歓声はなかった。

セレーナが放ったのは、単なる売却ではない。

これまで買い集めてきた現物債券の売却に加え、為替座の信用枠を極限まで使った――『無制限の空売り(ショート・セリング)』の絨毯爆撃だった。


買い板――すなわち、ロベルト派の商人たちが用意していた手持ちの買い注文など、金貨数千枚程度に過ぎなかった。

セレーナが市場に叩きつけたのは、その数十倍、金貨十万枚規模に匹敵する無尽蔵の売り浴びせ。

買い板は、津波に呑まれた砂の城のように、一瞬にして消滅した。

市場から『買い手』が、完全に蒸発したのだ。


「買い手が……いない!? 注文が約定(やくじょう)しないぞ!」

「二百枚でも売れない! 百八十枚でも誰も買ってくれないんだ!!」

「どうなっているんだ!? 王室の発表はどうなったんだァァッ!!」


悲鳴が上がり始めた。

価格が下がるからパニックになるのではない。

売りたいのに、買いたい人間がこの世から一人もいなくなるという『流動性の完全蒸発』――市場関係者が最も恐れる、底なしの悪夢。


そして――時計の針が、午前九時五分を指した、まさにその瞬間だった。


ドォォォォンッ!!


為替座の分厚い正面玄関の扉が、再び蹴破られるようにして開け放たれた。

冷たい突風とともに雪崩れ込んできたのは、青銀の甲冑を纏った三十名を超える財務省直属の武装近衛兵部隊だった。

抜刀した兵士たちがフロアの出入り口を瞬時に封鎖し、群衆の退路を断つ。


そして、その中央を割って、大理石のフロアへと冷徹な足取りで進み出てきたのは――。

濃紺の官給礼服に身を包み、胸元に財務卿の黄金の鷲の記章を佩用した男。

財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵本人だった。


「ひっ……!? ざ、財務卿閣下……!?」

「なぜだ! 公爵閣下は貴族院の決議によって、職務権限を停止されていたはずでは……!」


商人たちが怯えて後ずさる。

オスカーの背後には、傷の手当てを終え、銀縁眼鏡を冷たく光らせる副官レオンハルトが控えていた。

レオンハルトの手には、真紅の王室封蝋が施された、巨大な羊皮紙の公文書が握られていた。


「全市場関係者に告ぐ!」


レオンハルトの鋭利な怒号が、すり鉢状の取引所ドームの隅々まで響き渡った。


「貴族院予算委員会による財務卿の職務停止動議は、先ほど開催されたアデレード皇太后陛下主宰の『王室最高評議会』において、職権乱用および不当干渉と認定され、全会一致で即時破棄された!

財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵の全決済権限、ならびに監査指揮権は、たった今を以て完全に原状復帰した!」


「な……何だと……!?」


商人たちの顔から、血の気が引いていく。

だが、それは単なる前座に過ぎなかった。

オスカーは一歩前へ進み出ると、自らの手でレオンハルトからその公文書を受け取り、フロア中央の巨大な公的掲示板の真ん中へと、短剣の切っ先を突き立てて力任せに縫い止めたのだ。


バツンッ!!


「王室勅命、ならびに財務省特務令・第零号の布告である!」


オスカーの氷河のような青い双眸が、フロアを埋める群衆を絶対零度の冷徹さで射抜いた。


「現在、市場において投機の対象となっている『大陸横断・南部大運河開削計画』に関し、王立地質調査局の公式確定報告書を緊急開示する!」


掲示板に広げられた文書。

そこに刻印されていたのは、三十年前に前王の直筆で封印され、今朝アデレード皇太后の手によって正式に封印が解かれた、動かぬ真実の記録。


「――予定地中央、百キロメートルに及ぶ全工区の地下深層において、現代のいかなる技術を以ても掘削不可能な『古代玄武岩層』の巨大盤根が存在することが確認された!

これにより、大運河の開削工事は物理的に遂行不可能と断定!

王室ならびに財務省は、大陸横断大運河事業の『永久凍結』を、本日付で正式に再確認・布告する!!」


シン……と。

世界から、すべての音が消え去った。


誰一人として、息をすることすらできない。

心臓の鼓動すら止まったかのような、絶対的な静寂。

掲示板の文字を見つめる商人たちの瞳が、丸く、信じられないものを見るように見開かれていく。


古代玄武岩層。

掘削不可能。

事業計画の――永久凍結。


「え……?」


誰かの間抜けな声が漏れた。

永久、凍結?

工事は、始まらない?

運河は、開通しない?

関税も、通行料も、配当も……一銅貨たりとも、入ってこない……?


「う……そ……だろ……?」


一人の商人が、手にした債券の証書を取り落とした。

ヒラヒラと舞い落ちる、金泥の施された美しい羊皮紙。

それは今や、未来の巨万の富を約束する黄金のチケットなどではなかった。

ただの、掘削できない硬い岩盤の上に描かれた、インクの染みに過ぎない――『紙屑』。


次の瞬間。


「うわあああああああああああああああああっっっ!!!!」


ドガァァァァァンッッッ!!!!


為替座の天井が吹き飛ぶかと思われるほどの、耳を劈く阿鼻叫喚の絶叫が、数百人の喉から一斉に爆発した。


「嘘だァァァッ!! 何かの間違いだァッ!!」

「永久凍結だと!? 掘削できないだと!? ふざけるなァァッ!!」

「売れ! 金貨百枚でもいい、五十枚でもいいから買い取ってくれェェッ!!」


パニック。

狂乱。

地獄の釜の底が抜けたかのような大暴動。

商人たちが黒板へと殺到し、手すりを乗り越え、互いを踏み躙りながら売り注文を叫んだ。

だが――。


「……買い手、なし」


二階の貴賓席から、セレーナ・ハイドの冷酷無比な宣告が落ちた。


「価格、金貨五十枚。……買い手なし。

価格、金貨二十枚。……買い手なし。

価格、金貨五枚。……買い手なし。

……価格、金貨一銅貨。――成約、ゼロ」


垂直落下。

百枚から三百枚へと吊り上がった債券の価格は、わずか十分の間に、名目上どころか物理的に『ゼロ』へと叩き落とされた。

買いたい人間など、この世に一人も存在しないのだ。

手元に残ったのは、額面金貨五万枚――日本円にして数百億円に及ぶ、ただの巨大なゴミの山。


「ああああああっ! 破産だ! 我が商会は破産だァッ!!」

「領地を担保に入れたんだぞ! 先祖代々の屋敷を抵当に入れたんだ! どうやって借金を返せばいいんだァァッ!!」


大の男たちが床に突っ伏し、髪を掻きむしり、大理石に頭を打ち付けて血を流しながら号泣している。

失禁し、泡を吹いて気絶する者、胸を掻きむしって倒れ込む者。

為替座のフロアは、一瞬にして、己の強欲に溺れて自滅した亡者たちが蠢く、修羅の処刑場へと成り果てていた。


ほぼ同時刻。王都貴族街、デュラン公爵邸。


降り注ぐ朝の柔らかな光の中、ロベルト・デュラン公爵は、優雅なシルクの部屋着を纏い、私設庭園を望む豪奢なテラスで朝食のテーブルについていた。

銀の食器に盛られた焼きたてのクロワッサンと、仔牛のロースト。

手にしたクリスタルグラスには、朝摘みの果実で作られた最高級の発泡ワインが黄金の泡を立てている。


「……ふふ、実に爽やかな朝だ」


ロベルト卿はワインを一口含み、満足げに目を細めた。

時計は九時十五分を回ったところ。

今頃、為替座では大運河計画の正式発表を待ちわびた愚民どもが群がり、自らが買い占めた五万枚の債券が、金貨四百枚、五百枚へと跳ね上がっている頃合いのはずだった。


「オスカーの奴め、今頃は悔しさに血の涙を流しているだろうよ。……あの小僧の失脚が決まり次第、次はグラナート領の紡績工場を我が直轄にしてやる。あのルチアという小娘も、私の前で泣いて許しを請うなら、愛人の末席にでも加えてやってもよいな」


自らの完璧な勝利を確信し、老獪な政治家が優雅にフォークを伸ばした――まさにその瞬間。


ドガァァァァンッッ!!


テラスへと通じるガラス扉が、蝶番ごと吹き飛ぶような勢いで叩き開けられた。


「な、何事だ! 無礼な――」


ロベルト卿が不快そうに眉をひそめて振り返った。

そこに転がり込んできたのは――仕立ての良すぎる礼服を汗と泥でぐっしょりと濡らし、ネクタイを引き千切り、靴すら片方脱げ落ちた、派閥の筆頭幹部たる老伯爵だった。

その顔面は、死人のように青白く、唇は紫に変色し、目は今にも頭蓋骨から飛び出さんばかりに見開かれていた。


「か、閣下ァァァッ!! ロベルト閣下ァァァッッ!!」


「騒々しいぞ、伯爵! 朝の優雅な時間に、一体何の真似だ!」


「お、終わりです……! 終わりですぞ、閣下ァッ!!」


老伯爵はテラスの大理石の床に転がるように這いつくばり、ロベルト卿のガウンの裾に縋り付いて泡を吹いた。


「暴落です……! 大暴落です!! 債券価格が……ゼロになりましたァァッ!!」


「……は?」


ロベルト卿の手が止まった。

フォークの切っ先が、銀の皿の上でカチリと音を立てる。


「何を……言っているのだ、貴様は? 暴落? ゼロ? 莫迦を言うな。今朝は王室からの正式発表があるはずだぞ。債券は五百枚に跳ね上がるはず――」


「地質調査報告書が出たのですッ!!」


老伯爵は血を吐くような絶叫を上げた。


「財務卿オスカーが……職務停止を解除されたオスカー公爵自らが、王室の公式調査書を為替座に貼り出したのです!

予定地全域が……古代玄武岩層! 現代の技術では絶対に掘削不可能な死の岩盤地帯だったのです!

王室と財務省は……大運河計画の『永久凍結』を布告いたしましたァッ!!」


「な……」


「買い手が消滅しました! 一銅貨でも誰も買いません!

我々の買い占めた金貨五万枚の債券は……一瞬にして、ただの紙屑になりましたァァァッ!!」


ドォンッ。


ロベルト・デュランの頭の中で、巨大な鐘が乱打された。

持っていたクリスタルグラスが、指先から滑り落ちる。

パリンッ! と甲高い音を立てて砕け散り、深紅のワインが、純白の大理石の床の上に、生々しい血飛沫のように広がっていった。


「ば……馬鹿な……」


ロベルト卿の唇が、小刻みに震え始めた。

視界が、真っ白に明滅する。


「馬鹿な……嘘だ……! 見積書があったはずだ! 財務省の屑籠から拾い集めた、あの計画書があったはずだ! 愛人のカミラも、皇太后が極秘に債券を配っていると言っていたではないか! インサイダー情報だったのだぞ! 確実な、絶対に儲かる秘密だったはずだァッ!!」


「罠だったのです……!!」


老伯爵が床に頭を打ち付けて号泣した。


「最初から……最初から仕組まれていたのです!

我々に債券を天井で買い占めさせるための……あのグラナートの小娘と、オスカーの仕掛けた、巨大な罠だったのですぞォォッ!!」


「あ……あ、あ……」


ロベルト・デュランの喉から、空気の抜けるような情けない音が漏れた。

脳内の計算機が、狂ったように数字を叩き出す。

金貨五万枚。

自らの全私財。

派閥貴族たちの領地と鉱山を担保にした巨額の借入金。

そして――金庫から無断で引き出した、貴族院予算委員会の国家秘密積立金『金貨二万枚』。


返せない。

補填できない。

債券が紙屑になった今、今日の日没までに積立金を金庫に戻さなければ――。

自分を待っているのは、破産などではない。

国家反逆罪。公金横領罪。

貴族院予算委員長としての権勢の失脚、爵位剥奪、そして――断頭台。


「う……うわあぁぁぁっ……!」


ロベルト卿は自らの白髪を両手で力任せに掻きむしり、朝食のテーブルを蹴り倒した。

銀の食器が、焼きたてのパンが、果実が、無残に床へと散らばっていく。

かつて王国の頂点で傲慢にふんぞり返っていた老公爵の顔は、今や、死の恐怖に怯えて失禁しかけた、ただの一匹の老いた豚の姿に成り果てていた。


同刻。王都中央為替座、二階の貴賓席。


吹き抜けの手すりから、眼下で繰り広げられる阿鼻叫喚の地獄絵図を見下ろしながら――。

ルチア・フォン・グラナートは、静かに手にしたアイスティーのグラスを傾けていた。

その隣には、腕を組み、冷徹な青い瞳で秩序の崩壊を見届ける財務卿オスカー。

そして背後には、優良資産の差押え手続きの最終確認を淡々と進める妹クラリスと、満足げに羽ペンをしまうセレーナの姿があった。


泣き叫ぶ商人たち。

紙屑となった債券の山を抱えて発狂する貴族たち。

彼らが流す涙に、ルチアの心は一ミリたりとも揺らぐことはなかった。

彼らが失ったのは、他人の命を削り、民から搾り取ってきた汚れた欲望の泡に過ぎないのだから。


ルチアは手すりに寄りかかり、遠く、王都の青空の下にそびえ立つデュラン公爵邸の方角を見据えた。

その紫紺の瞳の奥底で、かつてないほど美しく、冷徹な勝者の笑みが静かに瞬く。


薄い唇が、三日月の弧を描いて開かれた。

散りゆく愚者たちへ手向ける、至高のキラーフレーズ。


「紙切れに黄金の夢を見るのは人間の勝手ですが――冷たい岩盤は、決して嘘を吐きませんわ」


大暴落の嵐が、王都社交界の全域を飲み込もうとしていた。

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