第42話:パニック売りの社交界
冬の乾いた北風が吹き抜ける王都の空に、絶え間なく鳴り響いていたのは、警邏隊の放つけたたましい警笛と、教会の鐘の乱打だった。
だが、その鐘の音は礼拝を告げる神聖な響きではない。
それは、王国の経済秩序が根底から叩き折られ、百年に一度の金融崩壊の津波が押し寄せてきたことを告げる、死の弔鐘だった。
「金を返せ! 我が家の預金を今すぐ全額引き出せ!!」
「為替座の窓口を開けろ! なぜ手形が決済できんのだ!!」
「押し通せ! 財産を奪われてたまるかァッ!!」
大通りを埋め尽くしていたのは、理性をかなぐり捨てて暴徒と化した群衆だった。
王都中央為替座の正面大階段、そして隣接する王立銀行本店の石造りのアーチ門の前には、数千人もの人々が怒涛の勢いで押し寄せ、重装歩兵の掲げる大盾の列へと体当たりを繰り返していた。
手にした紙幣、金泥の施された債券の証書、担保契約書が、無残に踏み躙られて泥水の中に舞い散る。
わずか一時間前まで、一口金貨三百枚の最高値を誇り、持っているだけで子々孫々の富が約束されると信じ込まれていた『大陸横断・南部大運河先行開発債券』。
その価値は、オスカーの突きつけた「永久凍結」の布告、そしてセレーナによる冷酷無比な無制限の空売り砲によって、額面比で実に九九・八パーセント下落――実質的に「完全なる無価値」へと垂直落下していた。
だが――この凄惨極まる取り付け騒ぎの渦中にあって、奇妙なほどに平穏を保っている一角が存在していた。
為替座の西側、平民街へと通じる小口預金窓口。
そこには、怯える一般市民たちが身を寄せるように並んでいたが、窓口の行員たちは取り乱すことなく、手際よく銅貨や銀貨の払い戻しに応じていた。
「市民の皆様、落ち着いてください! 皆様の生活貯蓄口座は、特務令に基づき、今回の投機的債券取引の決済口座とは法的に完全に隔離・保全されております! 預金は一銅貨たりとも毀損しておりません!!」
行員たちの拡声器による呼びかけに、パン屋や鍛冶屋の親方たちが胸を撫で下ろして列を崩していく。
そう――これこそが、セレーナ・ハイドが事前に仕掛けていた「防壁」だった。
大暴落の引き金を引く前夜、セレーナはルチアの指示のもと、為替座の電信システムを操作し、「平民向けの小口貯蓄口座」と「貴族・大豪商専用の投機口座」を法的な分別管理のもとに完全に遮断していたのだ。
暴落の業火に焼かれるのは、強欲に目を眩ませて他人の富を貪ろうとした特権階級の豚どもだけ。
無辜の民の生活基盤には一滴の泥水も浴びせないという、冷徹かつ精密なセーフティネット。
その結果、阿鼻叫喚の地獄へと突き落とされたのは――逃げ場を完全に塞がれた、王都の貴族たちだった。
「……追証だ。今すぐ、耳を揃えて追加担保を差し出してもらおうか」
王都屈指の高級住宅街、石造りの豪邸が立ち並ぶ西区の回廊。
普段ならば鳥のさえずりと馬車の優雅な車輪の音しか聞こえないはずのその静寂を、冷酷な怒号と鉄靴の足音が無慈悲に踏み荒らしていた。
貴族院予算委員会の重鎮、ブランドン伯爵邸の豪奢な鉄製門扉。
そこに雪崩れ込んできたのは、民間の高利貸しや民間銀行が雇った数十名もの屈強な取り立て屋たちだった。
「ひっ……!? ぶ、無礼な! 我が家をどなたの屋敷と心得るか! 貴族院の重鎮、ブランドン伯爵家の領館であるぞ!!」
青ざめた家令が胸の紋章をかざして威嚇するが、先頭に立つ貸金業者の男は、冷笑を浮かべて一枚の羊皮紙を突きつけた。
「家格など知ったことか! 伯爵閣下が今朝までに買い占めた運河債券二千口――その購入資金として、うちの商会から融資した金貨五千枚の担保評価額が、債券の紙屑化に伴ってゼロになったんだよ!
融資契約書第18条! 担保価値が維持基準を下回った場合、債権者は即日、不足分の現金もしくは代物弁済を要求できる!
今日の夕刻までに金貨五千枚の現金を耳を揃えて用意するか……さもなくば、この屋敷の調度品、美術品、そして伯爵領の全収穫権を、今この場で差し押さえる!!」
「そ、そんな無茶な……! 今日中に金貨五千枚など、どこを探してもあるはずが……!」
絶叫する家令を押し退け、取り立て屋たちが土足で邸内へと踏み込んでいく。
先祖伝来の銀食器がトレイごと奪われ、壁に掲げられていた歴代当主の肖像画の額縁が引き剥がされ、豪華な天鵞絨のカーテンが無造作に引き裂かれる。
二階の窓からは、伯爵夫人の狂乱した悲鳴と、令嬢たちの泣き叫ぶ声が響き渡った。
――マージンコールの嵐。
運河債券の暴落は、単に紙切れの価値を奪っただけでは終わらなかった。
債券を買うための現金を欲しがり、先祖代々の土地や屋敷を担保に入れて多重債務を抱え込んでいた貴族たちに対し、すべての金融機関と債権者が一斉に「追加担保(追証)」の即時支払いを要求したのだ。
だが、彼らの手元には、昨夜の狂乱で使い果たした金貨の一枚すら残されていない。
担保価値の下落がさらなる資産の投げ売りを呼び、投げ売りが市場全体の価格を底なし沼へと引きずり落とす――流動性スパイラルの猛毒が、王都の貴族街全域を骨の髄まで侵食していた。
そして――。
その怒りと絶望の濁流が、最終的にどこへ向かうのか。
ルチア・フォン・グラナートのプロファイリングは、寸分の狂いもなくその行き先を予見していた。
「開けろォッ!! ロベルト・デュラン、出てこいッ!!」
「貴様が『絶対に儲かる』と言ったのではないか! この詐欺師めがァッ!!」
ドガァンッ! ドガガガァンッ!!
王都の一等地にそびえ立つ、重厚な要塞のようなデュラン公爵邸の巨大な門扉。
そこに群がっていたのは、平民の暴徒などではなかった。
豪奢な礼服を泥と汗で汚し、ネクタイを引き千切り、髪を振り乱した五十名を超える貴族たち――昨夜、公爵邸の大広間でワイングラスを打ち鳴らし、「ロベルト閣下万歳!」と歓声を上げていた、貴族院予算委員会の派閥貴族その人たちだった。
彼らは手にしたステッキや角材で門扉を狂ったように打ち叩き、護衛の私兵たちに掴みかかっていた。
門扉の内側では、公爵邸の私兵たちが抜刀し、盾を構えて必死に押し返しているが、全財産を失って発狂した貴族たちの殺気は、軍隊の制止すら突き破らんばかりだった。
「静粛にせいッ! 公爵邸の敷地内であるぞ!!」
私兵隊長が怒鳴るが、貴族たちの怒号にかき消される。
「ふざけるな! 公爵だと!? 盗人猛々しいペテン師めが!」
「我が家は先祖伝来の黒鉄鉱山を担保に入れて金貨三千枚を注ぎ込んだのだ! 今日中に追証を払わねば、鉱山を差し押さえられて破滅するのだぞ!」
「ロベルト卿の言葉を信じて、一族の全財産を債券に替えたのだ! 金を返せ! 今すぐ我が家の金を全額吐き出せェェッ!!」
その怒号が庭園を突き抜け、最上階の執務室へと届いた瞬間。
バルコニーのフレンチドアが、内側から激しい勢いで蹴破られた。
「やかましいわ、無能どもがァッ!!」
姿を現したのは、部屋着の胸元をはだけさせ、目を血走らせたロベルト・デュラン公爵本人だった。
白髪は乱れ、頬は引き攣り、手にした象牙のステッキをバルコニーの手すりへと力任せに叩きつける。
その顔には、かつて社交界を牛耳っていた威厳など欠片も残っていなかった。
露わになっていたのは、追い詰められた老いた獣の、醜悪極まる逆上。
「誰が貴様らに債券を買えと命じたのだ!? ええい、言ってみろ!」
ロベルト卿は唾を飛ばし、階下に群がるかつての同胞たちを見下ろして怒鳴り散らした。
「相場のリスクは自己責任! 利益が出た時は我が世の春と浮かれ騒いでおきながら、暴落した途端に他人のせいにするか、この恥知らずの豚どもが!
欲に目が眩んで全財産を突っ込んだのは、貴様ら自身の強欲であろうが! 私に責任を擦り付けるな! 一銅貨たりとも返す金などあるものかァッ!!」
痛烈な、そして決定的な裏切り。
階下の貴族たちの間に、一瞬の静寂が落ちた。
そして――次の瞬間、それを遥かに上回る、殺意に満ちた絶叫が爆発した。
「な……何だと貴様ァッ!?」
「『絶対に損はさせない、正式発表前に買い占めろ』と煽ったのは貴様自身ではないか!」
「自分だけは安全圏に逃げ込む気か! 許さん、絶対に許さんぞ!!」
「門を破れ! 公爵の金庫を叩き壊して、我らの金を取り戻すのだァァッ!!」
ドガシャァァァンッ!!
ついに、鉄製の門扉の閂がへし折られた。
貴族たちが私兵の包囲を突き破り、雪崩を打って前庭へと突入していく。
取っ組み合いの喧嘩。ステッキが私兵の頭を叩き割り、貴族の鼻柱に拳が叩き込まれ、鮮血と泥水が薔薇の植え込みを汚していく。
醜悪な共食い。
昨日まで「派閥の結束」を誓い合い、互いの利益を分け合っていた一枚岩の支配階級が――金銭の焦げ付き、ただそれだけをトリガーにして、わずか半日のうちに、互いの喉笛を噛み千切り合う野獣の群れへと自滅していった。
ロベルト卿は青ざめ、バルコニーの手すりから後ずさった。
部屋の中へ逃げ込み、震える手で重い樫木の扉に鍵をかける。
だが、扉の向こうからは、前庭を突破した貴族たちの怒号と足音が、階段を駆け上がってくるのが聞こえていた。
「く……くそっ、くそっ、くそがあぁぁっ……!」
ロベルト卿は自らの頭を抱え、床を転げ回るようにして机の奥の隠し金庫へと這いつくばった。
だが、金庫の中は――空っぽだった。
自らの私財も、派閥から吸い上げた資金も、そして――国家非常時秘密積立金から横領した金貨二万枚も、すべて、すべて、あの紙屑となった運河債券の買い占めへと消え去っていたのだから。
「助けてくれ……誰か、誰か私を助けてくれ……!」
かつて王国の最高権力を誇った老貴族の口から漏れ出たのは、惨めで、情けない、命乞いの呻き声だけだった。
同刻。王都中央為替座、二階の貴賓席。
吹き抜けの手すりの下、地上フロアでは今なお、泣き叫ぶ商人たちと、呆然と立ち尽くすブローカーたちが蠢いていた。
だが、その狂乱の頭上――厚いビロードのカーテンで隔てられた特等席の空気は、まるで深海の底のように静まり返っていた。
円卓を囲むように、五つの影が佇んでいた。
漆黒のイブニングドレスを纏い、手にした冷めかけた紅茶を静かに味わうルチア・フォン・グラナート。
その隣で、腕を組み、冷徹な青い双眸で眼下の地獄絵図を見据える財務卿オスカー。
机の上に最新の為替ログを並べ、優雅に髪をかき上げるセレーナ。
そして、分厚い法的手続き書類の束を抱え、眼鏡の奥の瞳を研ぎ澄ませるクラリスと、街中の情報網から次々と速報を持ち帰ってくるメイドのエミリア。
「……エミリア、デュラン公爵邸の様子はどう?」
ルチアが静かに問いかけた。
「はい、お嬢様!」
エミリアは小走りで駆け寄り、息を整えながら報告した。
「公爵邸の前庭は、完全に戦場と化しておりますわ!
ブランドン伯爵をはじめとする派閥貴族たちが門を破り、公爵邸の私兵たちと大乱闘を繰り広げています。
ロベルト公爵は自室に立てこもって『自己責任だ』と怒鳴り散らし、貴族たちは『金庫を叩き割って金を奪う』と叫んで大階段へ突入しかけております。……もはや、派閥の統制など完全に崩壊いたしました!」
「ふふ……プロファイリング通りね」
ルチアの薄い唇に、冷酷無比な三日月の弧が浮かんだ。
人間という生き物は、共通の利益がある時は容易く群れを成すが――一度、生存を脅かす巨額の損失を被った瞬間、最も身近にいる「味方」こそを最大の敵として攻撃し始める。
囚人のジレンマの極限的崩壊。
ロベルト派の貴族たちには、団結してオスカーやグラナート商会に対抗する知性など、端から残されていなかったのだ。
「市場の流動性は、完全に死んだわ」
セレーナが手元の計算板を置き、淡々と現状を総括した。
「債券価格は実質ゼロ。市場のブローカーたちは全員が破産手続きに追われ、王都の銀行はどこも貸し出しを完全停止。
今、この王都において『即日決済可能な現金』を動かせる存在は……私たち以外、誰一人として存在しないわ」
「ええ。そして、その現金不足に首を絞められているのが、あの愚かな貴族たちですわね」
クラリスが眼鏡を押し上げ、机の上に広げられた膨大な『担保目録』を指先で叩いた。
「姉様。ブランドン伯爵の黒鉄鉱山、東部貴族連合の直轄農地四万エーカー、南運河河口の巨大物流倉庫群……。
これらを担保にしていた金融機関や債権者たちに対し、貴族たちは今日の日没までに追証を支払うことが法的に義務付けられております。
ですが、彼らに支払える現金など一銅貨もありません。
このままでは、日没と同時に彼らは一斉に債務不履行に陥り、担保に入れた優良資産はすべて競売にかけられることになりますわ」
「競売になど、かけさせはしないわよ」
ルチアは立ち上がり、手すりの前へと歩み出た。
その背中に、オスカーが静かに寄り添う。
男の温かい手が、ルチアの肩へと優しく置かれた。
「ルチア。お前の言う通り、市場は十分に血を流した。……貴族院の古狸どもの息の根は、経済的に完全に止まったぞ」
「ええ、オスカー様」
ルチアは振り返り、最愛の共犯者へと、息を呑むほど美しい微笑みを投げかけた。
紫紺の瞳の奥底で、次なるステージ――『果実の収穫』を見据える狩人の炎が、静かに、だが灼熱の勢いで燃え盛っていた。
「血を流し、息も絶え絶えになった獲物を前にして、手をこまねいている趣味はありませんわ。
彼らが泣き叫び、投げ捨てようとしているその優良な実物資産のすべて……。
底値で、残らず、美味しく買い取って差し上げましょう」
ルチアはクラリスへ向けて、凛とした声で号令を下した。
「クラリス。王都のグラナート商会支店へ使いを飛ばしなさい。
店頭の看板を、今すぐ掛け替えさせるのよ。
――『即日現金決済・資産買入窓口』の開設を宣言しなさい」
「かしこまりました、姉様!」
クラリスが瞳を輝かせて一礼した。
眼下を見下ろせば、かつて社交界の頂点でルチアを嘲笑い、見下し、貧乏子爵令嬢と蔑んでいた者たちが、今や泥まみれになって互いの服を引き裂き、絶望の叫びを上げている。
その滑稽で、哀れな喜劇を見つめながら――ルチアの唇から紡ぎ出されたのは、社交界の真理を射抜く至高のキラーフレーズ。
「昨日まで友と呼び合っていた者たちが、今日には互いの肉を貪り合う。――社交界とは、実に美しい生態系ですこと」




