第40話:網の引き絞り
夜の帳が王都をすっぽりと覆い尽くす中、高級貴族街の一角にそびえ立つデュラン公爵邸は、真昼の太陽すら霞むほどの狂乱の光と熱狂に包まれていた。
庭園を取り囲む錬鉄の格子には無数の角灯が灯され、馬車回しには王都中の名門貴族たちが乗り付けた豪奢な馬車が何十台も列をなしている。大広間のクリスタル・シャンデリアからは黄金の光が滝のように降り注ぎ、楽団が奏でる陽気で傲慢な祝祭のワルツが、夜空へと高らかに響き渡っていた。
「さあ、呑め! 今宵は我が貴族院の、真の夜明けを祝う宴だ! 遠慮はいらん、グラスを空にするのだ!!」
大広間の一段高い壇上。
真紅の毛皮付きガウンをこれ見よがしに広げ、黄金の杯を高く突き上げたのは、貴族院予算委員長ロベルト・デュラン公爵だった。
その顔は最高級の酒精によって赤く染まり、窪んだ灰色の双眸には、長年見たことのないような万能感と傲慢な笑みが張り付いていた。
周囲を取り囲むのは、貴族院予算委員会に巣食う守旧派の重鎮伯爵や子爵たち、総勢五十名を超える派閥貴族たちだ。彼らもまた、顔を紅潮させ、手にしたシャンパングラスを打ち鳴らしながら、豚のような哄笑を上げていた。
「ロベルト閣下、万歳! 貴族院の真の守護者に栄光あれ!」
「聞いたか? 為替座の『大運河先行債券』、今日の終値はついに金貨三百枚を突破したそうだぞ!」
「がはは! 額面百枚で仕込んだものが、たった数日で三倍だ! 我が伯爵家が買い占めた二千口の債券だけで、すでに金貨数十万枚の含み益が出ている!」
「明日だ! 明日、王室から大運河計画が正式発表されれば、価格は五百枚、いや千枚まで垂直跳ね上がりを見せるに違いない! 我らは一夜にして、王国の国家予算を遥かに凌駕する天文学的な富を手にするのだ!!」
飛び交うのは、剥き出しの強欲と、自らの勝利を微塵も疑わない愚者たちの祝杯だった。
大広間の壁際には、彼らが買い集めた債券の権利証書が収められた黒漆塗りの木箱が、まるで黄金の城壁のように幾重にも積み上げられている。
総額、金貨五万枚分以上。
それは、彼ら自身の私財のすべてであり、先祖伝来の領地や鉱山、屋敷を抵当に入れて掻き集めた借入金であり、そして――ロベルト卿が独断で金庫から抜き取った、国家の非常時秘密積立金のすべてだった。
「ふん、思い出しても小気味がいいわ」
ロベルト卿はワインを一口で煽り、口髭を拭いながら嘲笑した。
「あの生意気な若造、オスカー・フォン・ヴァルハイトめ。財務卿の決済権限を奪われて手足を縛られたまま、裏で皇太后と結託してこの大運河の巨大利権を独占しようとしていたようだが……貴様らの企みなど、すべて我が掌の上だったのだ!
そして、あのグラナートの小娘!
査問会では小賢しくも無罪を勝ち取って勝ち誇っていたようだが……所詮は田舎の貧乏令嬢よ。我らが手にするこの大陸規模の大利権の前には、塵芥に等しいわ!」
「おっしゃる通りです、閣下!」
「明日、大運河の利権の過半数を我が貴族院が握ったと宣言した時、奴らはどんな顔をするか!」
「オスカーもあの小娘も、我が足元に這いつくばって通行料の減免を乞うしかありませんな!」
下卑た笑い声が、天井画に描かれた神々を嘲笑うかのように反響する。
彼らは信じて疑っていなかった。
自分たちが今、人生の最大の絶頂に立っており、明日には王国の真の支配者として君臨するのだと。
自らが買い集めたその紙切れの山が――明日、ただの一陣の風によって、跡形もなく消し飛ぶ砂上の楼閣であることなど、夢にも思わずに。
一方――。
デュラン公爵邸の狂乱から馬車でわずか十分。
王都官庁街の最奥にそびえ立つヴァルハイト公爵邸は、それとは対照的な、完全なる静寂の帳に包まれていた。
北棟最上階、財務卿執務室。
照明のほとんどが落とされた広い室内には、青白い月光がステンドグラスを透過して差し込み、大理石の床の上に冷徹な幾何学模様を描き出していた。
暖炉の火だけが静かに爆ぜ、パチリと小さな音を立てている。
中央の黒檀の執務机の上。
そこには、明日という日の運命を決定づける、二つの巨大な書類の束が整然と置かれていた。
一つは――妹クラリスが、為替ディーラーのセレーナと組み、一分の隙もなく仕上げた『実物資産の差押え登記目録』。
ロベルト派の貴族たちが債券を買う現金を欲しがり、投げ売り同然で担保に差し出してきた東部の黒鉄鉱山、南部の広大な穀倉地帯、そして王都外港の巨大物流倉庫群――彼らが手形を焦げ付かせた瞬間に、合法的にグラナート商会の所有権へと移転する、完璧な法的契約書の山。
そして――もう一つ。
机の中央、真紅のビロードの敷物の上に、厳重に封印されて置かれていたのは。
アデレード皇太后の王室極秘印章、ならびに財務卿の公式印が寸分の狂いもなく押印された、一通の羊皮紙の公文書だった。
『大陸横断・南部大運河予定地・公式地質調査確定報告書』。
『――予定地中央玄武岩層、現代土木技術による開削工事不能。事業計画の永久凍結に関する王室勅令』。
明日、為替座の取引開始の鐘とともに、公衆の面前へと開示される最終宣告書。
偽造ではない。前王の時代に調査され、三十年間にわたり封印されていた真実の公的データ。
この文書が白日の下に晒された瞬間――ロベルト卿一派が金貨五万枚を注ぎ込んで買い集めた運河債券の価値は、名目上ではなく物理的に、ゼロへと蒸発する。
チェックメイト――。
ゲーム理論における完全包囲網。
ロベルト卿一派が債券を売ろうとしても、買い手はすでに市場から完全に消滅している(売却不能)。
持ち続けようとしても、事業そのものが永久凍結されるため配当は一銅貨も入らない(無価値化)。
そして、手形や借入金の追証を支払おうとしても、彼らの手元の現金はすべて債券の買い占めで枯渇しており、担保に入れた領地と鉱山はクラリスの手によって即座に差し押さえられる(資産喪失)。
どのような分岐を選ぼうとも、破滅以外の結末が存在しない。
相手自身の強欲の力を利用して、自ら退路を完全に塞がせた、冷酷無比な経済の断頭台が――ここに、百パーセントの完成度で鎮座していた。
「……夜風が、冷たくなってきたな」
低く、耳朶を震わせるような美しい声が、静寂のバルコニーに響いた。
執務室のフレンチドアから外へと続く、広大な大理石のバルコニー。
手すりの向こうには、銀色の月光を浴びて静まり返る王都の街並みと、遠くで黄金の光を放つデュラン公爵邸のシルエットが、眼下に広がっていた。
冷涼な夜風が吹き抜け、バルコニーに佇むルチア・フォン・グラナートの艶やかな黒髪を、優しく揺らしている。
ルチアの装いは、深い夜空の色を湛えた紫紺のシルクドレス。
その白磁の肩には、グラナート領の至宝たる『白銀の霧』のショールが掛けられ、月光を反射して神秘的な銀の波紋を描き出している。
その隣に、漆黒の夜会服を纏ったオスカー・フォン・ヴァルハイトが、静かに寄り添うように立っていた。
「ええ。ですが、とても心地よい冷たさですわ」
ルチアは手にしたカットグラスを傾け、琥珀色の液体を揺らした。
注がれているのは、グラナート領特産の長期熟成ウイスキー『グラナート・アンバー』。
芳醇なオーク樽の薫香と、ピートのスモーキーな香りが、冷たい夜気の中にふわりと溶けていく。
「昨日のあの泥水のような雨が、嘘のようですこと。……空が、こんなにも澄み渡っているなんて」
「……ああ」
オスカーはグラスを持ったまま、ルチアの横顔を見つめた。
昨日の午後、このバルコニーの奥の執務室で、自らの胸に顔を埋めて泣き崩れていた少女の姿。
孤独死の恐怖に怯え、誰からも愛されない欠陥だらけの自分を晒け出し、震えていたあの傷だらけの魂。
だが今、月光を浴びて佇むルチアの瞳には、一切の混濁も迷いも存在しなかった。
弱さを受け入れ、愛を受け入れ、己の知性を完全に解き放った者だけが放つ、神々しいまでの気品と自信。
「明日、すべてが終わる」
オスカーは前方の夜景を見据え、静かに言った。
「午前九時、為替座が開くと同時に、セレーナが無制限の空売り注文を投下する。
そして午前九時五分――俺自らが財務省の掲示板に、あの地質調査報告書を貼り出す。
ロベルト・デュランの失脚と同時に、三十年以上にわたり国家財政に巣食ってきた貴族院の膿が、すべて市場の底へと叩き落とされることになる」
「……恐ろしいですか、オスカー様?」
ルチアは首をわずかに傾げ、紫紺の瞳でオスカーを見上げた。
「貴族院予算委員会の派閥貴族たちが、一斉に破産するのですのよ。
市場は大混乱に陥り、為替座は取り付け騒ぎになり、社交界の秩序は根底からひっくり返ります。
国の経済を預かる財務卿として……この未曾有の大暴落の引き金を引くことに、一瞬の躊躇いもございませんの?」
試すような、だが誰よりも相手を案じるような問いかけ。
かつてのルチアであれば、「あなたの覚悟をROIで計算して差し上げますわ」と皮肉めいた言葉で煙に巻いていたはずの場面。
だが今、彼女の瞳にあるのは、ただ一人の男としてのオスカーへの、真摯な視線だった。
オスカーは薄い唇を微かに綻ばせると、手にしたグラスをバルコニーの手すりへと置いた。
そして――ルチアの正面へと向き直ったのだ。
「躊躇いなど、あるはずがない」
男の青い双眸が、月光の下で深く、濃密な光を湛えてルチアを射抜く。
「腐った肉を切り落とさねば、国家という身体は壊死するだけだ。一時的な混乱など、新しき血を通わせるための外科手術に過ぎん。
……それに、ルチア」
オスカーは一歩、踏み込んだ。
二人の影が、バルコニーの大理石の上に重なり合う。
夜風を遮るようにルチアを包み込む男の長身。至近距離で見つめてくるその瞳には、かつて社交界の誰も見たことのない、狂おしいまでの熱情が満ち溢れていた。
「俺は言ったはずだ。
お前が隣にいるなら……世界がひっくり返ろうと、構わないと」
「……っ」
「お前が俺の側にいてくれるなら、貴族院が崩壊しようが、社交界が火の海になろうが、恐れるものなど何一つない。
俺の全財産もお前のものであり、俺の命もお前の担保だ。
この国の未来も、俺自身の存在も……すべてはお前と共に進むためにある」
息を呑むような、絶対の告白。
打算でも、政治的な建前でもない。
世界中のすべてを敵に回してでも、目の前の女の魂を絶対に離さないという、覇王の誓い。
オスカーはゆっくりと、自らの右手を差し出した。
黒い革手袋は、嵌められていなかった。
素肌のままの、大きく、温かい男の手。
第26話のダンスフロアにおいて、手袋越しにしか触れ合えなかった二人の境界線。
第34話の雨の夜、泥と涙の中で必死に温め合ったあの手。
オスカーの逞しい指先が、ルチアの白磁の指先へと――躊躇うことなく、滑らかに重ねられた。
「……あ」
逃げる気など、最初からなかった。
ルチアは自らの指をすっと滑らせ、オスカーの長い指の隙間へと、絡め合わせたのだ。
ギュッ――と。
互いの指先が、隙間なく強く結び合わされる。
伝わってきたのは、皮膚と皮膚が直接触れ合う、吸い付くような生々しい体温。
そして――指の関節を通して、互いの心臓の鼓動が、寸分の狂いもなく同じリズムで脈打っているという、奇跡のような一体感。
(ああ……暖かい)
ルチアの胸の奥で、甘美な吐息が漏れた。
前世の一条玲奈の記憶。
誰の手も握れず、誰の手も信じられず、冷たい金の盾の後ろで一人きりで凍えていたあの孤独な詐欺師は、もうどこにもいない。
目の前にいるこの男が、自分のすべてを受け入れ、命を賭けてその温もりを差し出してくれている。
打算百パーセントで始まった悪魔の契約は、いま――損得勘定を遥かに超越し、魂の最深部で結ばれた唯一無二の絆へと、完全に昇華していた。
「……ふふ」
ルチアはオスカーの顔を見上げ、その薄い唇に、息を呑むほど妖艶で、蠱惑的な笑みを浮かべた。
絡め合わされた指先に、キュッと力を込める。
「頼もしい共犯者ですこと、オスカー様。
国家の財務卿をここまで狂わせてしまうなんて……私、結婚詐欺師として、少々腕を上げすぎてしまいましたかしら?」
「狂わされたのは俺の方だと言っているだろう」
オスカーもまた、低く喉を鳴らして笑い、ルチアの引き寄せられた腰へと左手を回した。
二人の吐息が、触れ合うほどの至近距離で交錯する。
「お前を手に入れるためなら、いくらでも狂ってやる。……一生かけて、俺を搾取し続けると誓ったのだからな」
「ええ、もちろんよ。一銅貨の端数に至るまで、美味しくいただいて差し上げますわ」
二人が見つめ合う、まさにその時――。
ゴォォォォン……ッ。
王都の中心、大聖堂の巨大な時計塔から、重々しく、腹に響く鐘の音が響き渡った。
一つ、二つ、三つ――。
鳴り響く鐘の音は、夜の闇を切り裂き、王都全域へと染み渡っていく。
十二回目の鐘が鳴り響いた瞬間。
深夜零時。
日付が、変わった。
第4幕の終わり。
そして――第5幕、世紀の空売りと国家救済の幕開けを告げる、運命の日の到来。
遠くのデュラン公爵邸では、今なお愚かな豚たちが美酒に酔いしれ、明日の栄光を信じて高笑いを上げていることだろう。
だが、その夜が明けた瞬間――彼らが目にするのは、栄光の玉座などではない。
自らの強欲によって築き上げた、底なしの破滅の奈落だ。
「……時間ですわね」
ルチアは絡め合っていたオスカーの手を、名残惜しそうに、だが力強く解いた。
そして、手すりに置いていたグラスを手に取り、月光の下で高く掲げたのだ。
その紫紺の瞳に宿っていたのは、前世から受け継がれたあらゆる知性と、今世で手に入れた愛の力を融合させた、絶対の勝者の輝き。
「あなたの誠意(全財産)、残らず美味しくいただく準備が整いましたわ」
ルチアの唇が、三日月の弧を描いて妖艶に微笑む。
そして、隣に立つ最愛の共犯者へと、誇らしげに顎を引いてみせた。
「――行きましょう、オスカー様。
夜が明ければ、傲慢な豚たちの金庫は空っぽ。
さあ――華やかな断頭台の幕開けですわ」
チィン、と。
二つのクリスタルグラスが触れ合い、高く澄んだ硬質な音が、静寂の夜空へと響き渡った。
網は、完全に引き絞られた。
狩りの時間が、いま――始まったのだ。




