第37話:偽の国家事業計画
朝霧が白く立ち込める王宮の最深部、一般の廷臣や衛兵の立ち入りすら固く禁じられた『翡翠の離宮』。
豪奢な大理石のテラスからは、朝露に濡れた広大な王室私設庭園が見渡せ、咲き誇る白薔薇の香りが冷涼な朝気とともに漂っていた。
テラスの中央、彫刻が施された円卓に座る老貴婦人――社交界の絶対的頂点に君臨するアデレード皇太后は、白磁の茶杯を指先で弄びながら、向かいに並んで座る二人の男女を、鷲のように鋭利な灰色の双眸で見据えていた。
「……ふん。見違えたね、グラナートの娘」
皇太后は低く唸るように呟き、口元に獰猛な笑みを浮かべた。
アデレードの視線の先――深い紫紺のシルクドレスを纏い、背筋を寸分の狂いもなく凛と伸ばしたルチア・フォン・グラナートの佇まい。
昨日の午後、貴族院の査問会で勝利しながらも泥まみれになって打ちのめされていたという報告をオスカーから耳にしていた女帝は、目の前に現れた少女の劇的な変貌に、舌を巻く思いだった。
怯えも、迷いも、孤独の影すらも完全に脱ぎ捨て、己の持つすべての知性を研ぎ澄ませた狩人の眼光。
そして、その隣に座る財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイトの横顔にもまた、かつての「冷血な孤高」ではなく、己の半身を完全に得た覇王の覚悟が宿っていた。
「お褒めに預かり光栄に存じます、皇太后陛下」
ルチアは流麗なカーテシーを返し、紫紺の瞳を静かに細めた。
「昨日は少々、過去の亡霊に足を掬われかけましたが……おかげさまで、完全に目が覚めましたわ。奪われた涙の分だけ、敵の金庫から黄金を根こそぎ浚い上げる準備は、すでに整っております」
「くく……よく言ったよ。女が涙を拭った後の復讐ほど、恐ろしく美しい見世物はないからね」
アデレードは満足げに頷くと、傍らに控える老練な筆頭侍女に顎をしゃくった。
侍女が恭しく捧げ持ってきたのは、黒檀の細長い小箱だった。
真鍮の留め金が外され、中から取り出されたのは――経年劣化によって黄ばみ、端がわずかに擦り切れた、異様な重みを放つ一巻の羊皮紙だった。
羊皮紙の留め紐を封印しているのは、前国王の正妃にして国家の守護者たるアデレード自身の、真紅の『王室直轄極秘印章』。
「そなたたちの計画、オスカーからすべて聞いたよ。……これがお前たちの求める、幻の鍵だ」
皇太后の手によって、その古い巻物が円卓の上へと滑り出された。
ルチアとオスカーの視線が、巻物の表題へと注がれる。
金泥で記されたその公的名称は――。
『大陸横断・南部大運河開削基本計画書(前王勅命版)』。
「三十年前……私の亡き夫が、国の威信をかけて議会を通過させた巨大国家プロジェクトだ」
アデレードは茶杯を置き、遠い過去を追憶するように目を細めた。
「王国の東西を隔てる峻険な山脈を迂回し、南部平原を貫く大運河を開削する。内陸部の肥沃な穀倉地帯と鉄鉱山を海へと直結させ、帝国の物流を一新するはずだった歴史的大利権。……だが、莫大な予算を計上し、測量を開始した直後、ある『致命的な理由』によって計画は永久凍結された」
オスカーが身を乗り出し、青い瞳を光らせた。
「……その『致命的な理由』こそが、今回の作戦の最大の爆弾ですね、皇太后陛下」
「ああ、そうだとも」
アデレードは冷笑を浮かべ、巻物の末尾に添付された、分厚い地質調査記録の綴りを指先で叩いた。
「予定地の中央、百キロメートルに及ぶ地帯の地下に――現代の土木技術や火薬の力をもってしても、絶対に掘削不可能な『古代玄武岩層』の巨大な岩盤脈が横たわっていたのだよ。
どれほど黄金を注ぎ込もうと、どれほど労働者を動員しようと、スプーンで山を削るようなもの。運河を開削することなど、物理的に不可能な死の土地だったのだ。
先代の王はこの調査結果を国家最高機密として封印し、計画そのものを闇へと葬った。……この真実を知る者は、王室でも私一人。そして貴族院の古狸どもは、『王室の資金難で頓挫した巨大利権』としか記憶しておらん」
ルチアの口元に、冷酷無比な笑みが広がった。
完璧なピース。
嘘の計画をでっち上げる必要など、最初からなかったのだ。
国家の最高機密として眠っていた「実在する公的計画」、そしてその裏に隠された「物理的に実現不可能な死の岩盤」。
この計画書そのものは完全なる本物であり、偽造の罪など一ミリたりとも発生しない。
「十分でございますわ、陛下」
ルチアは巻物へとそっと手を伸ばし、その冷たい羊皮紙の感触を指先で確かめた。
「ロベルト公爵は今、私に対する査問会での敗北、そして傘下商会の手形決済の危機により、精神的に極度の飢餓状態にあります。
喉が渇いて死にそうな人間に、極上の美酒を目の前で見せつければ……毒が入っているかどうかの確認すら忘れ、自ら喜んで飲み干すことでしょう」
「ふん、やっておいで」
アデレード皇太后は扇子をパチンと鳴らし、冷徹な女帝の眼差しで二人を見送った。
「ロベルトの狸親父め、先代の時代から貴族院に巣食い、国の血税を散々私腹に肥やしてきた害虫だ。……あの男の息の根を、跡形もなく止めておやり」
同日午後。王都官庁街、財務省本庁舎。
貴族院の決議によってオスカーの決済権限が一時停止されているとはいえ、財務卿の執務室周辺は、依然として張り詰めた緊張感に包まれていた。
廊下を行き交う官僚たちが息を潜める中、副官レオンハルトは、執務室のデスクで眉根を寄せ、鬼気迫る表情で書類の整理に没頭していた。
そのデスクの周囲には、何十枚もの不要書類が丸められ、足元の真鍮製屑籠へと無造作に投げ捨てられている。
――コトッ。
廊下の曲がり角から、清掃用のモップとバケツを持った初老の清掃員が、音もなく姿を現した。
青白い顔に、落ち着きのない濁った瞳。
レオンハルトは銀縁眼鏡の奥から、その男の動きを視界の隅で完璧に捕捉していた。
トーマス。財務省に二十年勤めるベテラン清掃員だが、半年前に裏カジノで背負った多額の借金を、ロベルト・デュラン公爵の息のかかった情報屋に肩代わりされ、今や公爵派閥の『買収された密偵』へと成り果てている男。
「……ふう」
レオンハルトはこれ見よがしに大きな溜息を吐くと、手元の書類をペーパーナイフでざっくりと真っ二つに引き裂き、丸めて屑籠へと放り込んだ。
そして、時計をチラリと確認すると、席を立ち上がった。
「トーマス。私はこれより、司法省との連絡会議に出席する。一時間ほど部屋を空ける故、執務室内の清掃を済ませておけ。……机の上の重要書類には、絶対に触れるなよ」
「は、はっ……! 畏まりました、レオンハルト監査官様……」
清掃員は深々と頭を下げた。
レオンハルトは重々しい足音を響かせ、執務室の扉を閉めて廊下の彼方へと去っていった。
ガチャリ。
扉が閉まった瞬間――清掃員の腰が跳ね上がった。
男はモップを壁に立てかけると、足音を忍ばせてレオンハルトのデスクへと駆け寄った。
言いつけ通り、机の上の書類には触れない。監査官が警戒しているのは机の上だと知っているからだ。
男の獲物は、足元の屑籠だった。
「……あった、これだ……!」
男は震える手で、先ほどレオンハルトが投げ捨てたばかりの、丸められた羊皮紙の破片を素早く拾い上げた。
ポケットから取り出した接着用のテープで、裂かれた紙片を慎重に繋ぎ合わせる。
ランタンの光にかざされたその紙片に印字されていたのは――。
『財務省極秘・南部開発特別会計・土地収用見積概算書』。
『対象:大陸横断・南部大運河計画予定ルート沿線(全四十二工区)』。
『先行債券発行予定総額:金貨十万枚』。
『主幹事:王室直轄投資信託、ならびに財務省特務会計』。
紙片の隅には、オスカー・フォン・ヴァルハイトの直筆による走り書きのメモが、生々しく残されていた。
――『貴族院の査問停止が決着し次第、即日、王室主導にて先行債券の引き受けを開始する。予算委員会の介入を許すな』。
「ひっ……!? な、南部大運河……先行債券、金貨十万枚……!?」
清掃員の呼吸が、狂ったように荒くなった。
財務卿が貴族院に内密で、王室と結託して進めている天文学的な巨大利権の存在。
男は震える手で書類を懐にねじ込むと、バケツを放り出し、脱兎の勢いで裏階段へと駆け出していった。
ほぼ同時刻。王都目抜き通りの一角、上流階級の貴婦人たちだけが入会を許される最高級美容サロン『ヴィーナスの園』。
薔薇の香油の甘い薫香が漂うプライベート・エステ個室の薄暗がりの中、豪奢なシルクのガウンを羽織り、泥パックを顔に塗った美女が長椅子に横たわっていた。
カミラ・フォン・シュタイン男爵未亡人。
社交界きっての浪費家であり、そして何より――貴族院予算委員長ロベルト・デュラン公爵が最も寵愛し、毎週のように自邸の離れへ呼び出している『一番の愛人』。
「……ふう、退屈ね。最近の社交界は、あのグラナートの小娘の噂ばかりでうんざりするわ」
カミラが長椅子の背もたれに気だるげに頭を預けて呟いた。
その背後で、熱い蒸しタオルを用意しながら、手際よくカミラの肩を揉みほぐしていたのは――下町風の控えめなエプロンを身に纏い、前髪を深く下ろした若い施術師だった。
エミリアだった。
「本当におっしゃる通りでございますわ、男爵夫人」
エミリアは声のトーンをワントーン高くし、世間知らずで噂話が大好きな下町の娘の声音を完璧に演じてみせた。
「ですが夫人、ご存知でした? グラナート商会の騒ぎの裏で、王宮の奥底では……もっと途方もない、とんでもないお話が動いているんですって」
「……とんでもないお話? 何よそれ」
カミラがピクリと眉を動かした。
エミリアは周囲を怯えたように見回す芝居を打つと、カミラの耳元へと顔を寄せ、密やかな吐息で囁いた。
「ここだけの秘密ですよ、奥様? 私、昨夜、王宮の温室宮へ出入りしている高級仕立て屋の番頭さんから、直接聞いちゃったんです。
アデレード皇太后陛下が、ごく親しい大貴族の方だけに……『大陸横断・南部大運河』の先行開発債券の購入枠を、内々に配り始めているらしいんです!」
「な……なんですって!? 南部大運河!?」
カミラがガウンを乱しながら飛び起きた。泥パックのひび割れも構わず、エミリアの腕を掴む。
「あの大運河が開通するっていうの!? 一口いくらなの!? どれくらい儲かるのよ!?」
「一口、金貨百枚だそうですわ。……ですが、公表された瞬間に価格は二倍、三倍に跳ね上がるのは確実で、持っているだけで子々孫々まで関税収入が転がり込んでくるんですって。
でも……皇太后陛下は、貴族院予算委員会の重鎮の方々には、一切この枠を回さないおつもりらしいんです。財務卿のオスカー様が『あんな強欲な古狸どもに利権を渡してなるものか』って、頑なに反対なさっているとかで……」
「オスカー公爵が……!? あの生意気な若造が、貴族院を仲間外れにして利権を独り占めしようとしているのね!?」
カミラの釣り上がった瞳に、強烈な欲望と怒りの炎が燃え盛った。
貴族院予算委員長であるロベルト公爵を差し置いて、王室と財務省だけで歴史的大利権を山分けしようとしている。
もしこの情報を、いち早く公爵の耳に入れれば――公爵は自分をどれほど高く評価し、どれほど莫大な宝石を買い与えてくれるだろうか。
「……今日の施術はもういいわ! 馬車を回しなさい! 今すぐデュラン公爵邸へ行くわよ!!」
カミラはガウンを脱ぎ捨て、狂ったように部屋を飛び出していった。
誰もいなくなった個室の中。
エミリアは蒸しタオルをトレイに戻すと、前髪をかき上げ、鏡に映る自らの姿に向かって、いたずらっぽくペロリと舌を出してみせたのだった。
同日夜。王都の一等地にそびえ立つ、重厚な要塞のようなデュラン公爵邸。
厳重な二重扉で閉ざされた最奥の執務室には、ロベルト・デュラン公爵と、その腹心たる貴族院予算委員会の幹部貴族たち五名が集結していた。
執務机の上には、二つの「成果物」が並べられていた。
一つは、清掃員トーマスが命懸けで財務省の屑籠から拾い集め、繋ぎ合わせた『南部大運河土地収用見積概算書』の原本断片。
そしてもう一つは、愛人カミラが息を切らしながら持ち込んできた、王宮内部における『皇太后の極秘債券枠配分』の生々しい証言。
「……間違いない。裏は取れた」
ロベルト公爵は机に両肘をつき、震える指先で書類の文字をなぞった。
その窪んだ灰色の双眸には、長年見たことのないような狂気じみた興奮の光が爛々と渦巻いていた。
「財務省の内部文書、そして王宮の奥からの情報……二つの独立した情報源が、寸分の狂いもなく一致している。
オスカーの奴め……! 監査権限を停止され、手足を縛られたと見せかけて、裏で皇太后と結託し、あの大陸横断大運河の巨大利権を貴族院に内密で独占しようとしていたのだ!!」
「お、恐るべき若造ですな……!」
幹部の一人である老伯爵が、唾を飛ばして憤慨した。
「金貨十万枚規模の先行債券……! もしあのような歴史的利権を王室と財務省に完全に握られれば、我が貴族院予算委員会の権威など地に堕ち、国家財政の生殺与奪を永遠に奴らに奪われてしまいますぞ!」
「ああ、そうだ。だが――」
ロベルト卿は立ち上がり、背後の壁に掲げられた王国全土の巨大な地図へと歩み寄った。
南部の広大な平原を、自らの老いた指先で力強く縦断するように撫で下ろす。
「奴らの企みは、ここで完全に水泡に帰す。……天は、このロベルト・デュランを見捨ててはおらんかったのだ!」
老獪な政治家の口から、低く、濁った笑い声が漏れ出た。
「心理学における『インサイダー情報の特権意識』。
人間というものは、正面から与えられた公的な発表よりも、『己の権力と情報網を使って、裏から盗み見した秘密』ほど、盲信し、疑うことを忘れてしまう生き物なのだ。
ロベルト卿の脳内では、もはや大運河計画の真偽を疑うプロセスなど完全に消滅していた。
財務省のゴミ箱から拾った書類であり、己の愛人が王宮から仕入れてきた極秘情報であるという事実そのものが、彼にとって「絶対の真実」の証明書となっていたのだ。
「閣下、いかがなさいますか!? 議会でオスカーを追及し、計画を差し止めさせますか!?」
「莫迦者が!」
ロベルト卿は幹部を一喝した。
「公に追及などしてみろ、計画が公表され、有象無象の貴族や商人どもが群がって債券の奪い合いになるだけだ!
奴らの裏をかくのだ。……オスカーが正式発表を行う前に、市場に出回る先行債券、そして運河予定地の土地と倉庫の利権を、我が派閥が裏から根こそぎ買い占めるのだ!!」
ロベルト卿は机を拳で激しく叩いた。
「債券を我が派閥が過半数握れば、大運河の運営権は完全に我が貴族院のものとなる!
オスカーも皇太后も、我が足元に跪いて通行料を乞うしかなくなるのだ!
先日のグラナート商会への敗北など、この巨大利権の前には蟻の一噛みにも満たん! この国の財布を、真の意味で支配するのは――この私だ!!」
歓声が上がった。
幹部貴族たちの目が、強欲と万能感の炎に染まり上がる。
「号令をかけろ!」
ロベルト・デュラン公爵の傲慢な怒号が、密室に轟き渡った。
「派閥の全貴族に通達せよ! 隠し金庫の裏金をすべて吐き出させろ! 貴族院予算委員会の秘密積立金も全額流用しろ!
足りぬ分は、手持ちの領地や鉱山を担保に入れてでも王立銀行から借り入れろ!
為替座に極秘債券が流出し次第、一銅貨の容赦もなく、すべて我が派閥で買い占めるのだァァッ!!」
――破滅へのアクセルが、ベタ踏みされた瞬間だった。
同刻。夜の帳が降りたヴァルハイト公爵邸の最上階バルコニー。
冷たい夜風が吹き抜ける中、ルチア・フォン・グラナートは、手にしたクリスタルグラスの深紅のワインを静かに揺らしていた。
その隣には、漆黒の上着を羽織り、穏やかな笑みをたたえて寄り添うオスカーの姿があった。
「……食いついたわね」
ルチアは王都の夜景の彼方、黄金の灯火で煌々と照らされたデュラン公爵邸のシルエットを見下ろしながら、妖艶に微笑んだ。
「レオンハルト様が撒いた書類の断片、そしてエミリアが愛人の耳に落とした毒。……ロベルト公爵は今頃、自分が世界で最も有利なインサイダー取引の勝者になったと錯覚して、全財産をかき集めている頃ですわ」
「ああ。奴の使者たちが、今夜のうちに派閥の貴族たちへ密使を飛ばしまくっていると、監査部隊から報告が入った」
オスカーはルチアの肩を抱き寄せ、その冷えた横顔に自らの温かい吐息を落とした。
「疑うことすら忘れた愚か者だ。……盗み見した秘密ほど、人間を盲目にする毒はないな」
「ええ、そうですわ」
ルチアはグラスを掲げ、夜空に浮かぶ冷たい月へと傾けた。
その紫紺の瞳の奥底で、かつてないほど美しく、残酷な狩人の光が静かに瞬いていた。
「秘密の扉を覗き見させた時――人間は自ら、その扉の奥の落とし穴へと飛び込むのです」
舞台は、完全に整った。
欲に狂った豚たちが、自らの全財産を抱えて集まる狂乱の市場。
次なる舞台は――王都中央為替座を揺るがす、歴史的な『運河バブル』の点火だった。




