第36話:反撃のシナリオ
窓を叩きつけていた暴風雨はいつしか去り、鉛色の雲の切れ間から、夜空に冴え渡る冷たい月光がヴァルハイト公爵邸のステンドグラスを青く照らし出していた。
北棟の地下深く、国家最高機密の作戦立案にのみ使用される『円卓の作戦会議室』。
頑丈な石壁に囲まれた部屋の中央には、巨大な木製の円卓と、壁一面を覆う巨大な黒板が備え付けられていた。卓上に灯された真鍮の三連燭台が揺らめき、張り詰めた緊張感の中で、五つの影が沈黙を守っていた。
腕を組み、鋭い眼光を黒板へと注ぐ財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵。
肩の負傷に包帯を巻きながらも、背筋を正して直立不動で控える副官レオンハルト。
主人の安否を気遣い、胸元で両手をぎゅっと握りしめている専属メイドのエミリア。
分厚い帳簿と計算尺を膝の上に揃え、銀縁眼鏡を押し上げる妹クラリス。
そして、退屈そうに羽ペンを指先で回しながら、不敵な薄笑いを浮かべる天才為替ディーラー、セレーナ・ハイド。
彼らは全員、知っていた。
ほんの数時間前、ルチアが貴族院の査問会から泥まみれになって逃げ帰り、過呼吸を起こしてオスカーの胸の中で泣き崩れていた事実を。
冷徹無比だった彼女の仮面が砕け散り、再起不能の絶望に沈んだのではないかと――誰もが息を詰まらせ、重苦しい沈黙に耐えていたのだ。
カツン、カツン、カツン。
静寂を破り、重厚なオーク材の扉の向こうから、凛とした靴音が近づいてきた。
躊躇いも、迷いも、怯えの震えすらも微塵も感じさせない、寸分の狂いもない規則正しいリズム。
扉が両開きに開け放たれた。
「……っ!」
室内の全員が、一斉に息を呑んだ。
そこに立っていたのは、涙に濡れた哀れな少女の姿などでは断じてなかった。
ルチア・フォン・グラナート。
泥にまみれていた純白のモスリンドレスは脱ぎ捨てられ、代わりに彼女が身に纏っていたのは――夜空の深淵を織り上げたような、光沢のある深い紫紺のシルク・イブニングドレスだった。
首元には、グラナート領の至宝たる『白銀の霧』のショールが優雅に掛けられ、真珠色の柔らかな光を放っている。
乱れていた黒髪は完璧な夜会巻きに結い上げられ、後頭部には星屑のようなダイヤのピンが冷たく輝く。
何より――その紫紺の瞳だった。
前世の亡霊に怯え、孤独死のトラウマに震えていた光は、完全に消え去っていた。
そこに宿っていたのは、己の弱さも、醜い強欲も、世界で唯一の理解者である男の愛もすべて受け入れ、前世の伝説的知性を遥かに凌駕する次元へと脱皮を果たした――真の女王の光。
「皆様、お待たせいたしました」
ルチアは優雅に裾を捌き、円卓の正面、黒板の前に歩み出た。
その唇に浮かんだのは、見る者すべての魂を射竦めるような、息を呑むほど美しい不敵な笑みだった。
「泣き言の時間は、これでおしまいですわ」
「……お姉様!」
「お嬢様……!」
クラリスが顔を輝かせ、エミリアが安堵に瞳を潤ませて拳を握りしめた。
レオンハルトは感嘆の息を漏らして敬礼し、セレーナは「待ってました」と言わんばかりにニヤリと口角を吊り上げる。
そして、円卓の主席に座るオスカーは――自らの命と全財産を差し出すと誓った最愛の女の完全復活を目の当たりにし、その青い双眸に、熱烈な覇王の光を宿して静かに頷いた。
「さあ、始めましょう」
ルチアは白く滑らかなチョークを指先でつまみ上げると、黒板の中央へと向き直った。
カツン、と硬質な音が響き、チョークが走る。
書かれたのは、たった一つの名。
『ロベルト・デュラン公爵』
「敵の現状を分析しますわ」
ルチアは振り返り、淀みない声で語り始めた。
「第32話における貴族院特別査問会。ロベルト公爵が用意した偽証者、ユリアンとカールの証言は、契約書の客観的証拠によって完全に粉砕されました。
これにより、貴族院が我がグラナート商会にかけていた『五十パーセントの特別通行税』、ならびに為替座への『手形決済停止勧告』は、法的に即刻失効いたします。……ですが、これで勝ったと思ってはなりません」
「当然だな」
オスカーが腕を組み、低く同意した。
「ロベルトは手負いの古狸だ。査問会での敗北により、奴は貴族院内部での求心力を著しく低下させている。さらに、第29話でお前たちが水面下で買い集めた奴の傘下商会の手形……あれらの期日も迫っている。
追い詰められた奴が、ただ座して死を待つはずがない。自己保身のためなら、傘下の商会など平気で破産させて切り捨て、国家の別の利権を暴力的に強奪しにかかるはずだ」
「その通りですわ、オスカー様」
ルチアは黒板のロベルトの名を、赤いチョークで囲んだ。
「人間という生き物はね、追い詰められ、焦燥感を募らせた時ほど――自らの破滅を決定づける致命的な心理の罠に落ちるものなのです。
行動経済学における『エスカレーション・オブ・コミットメント(泥沼化の心理)』、そして『損失回避バイアス』。
ロベルト公爵は今、失いかけた権威と資金を取り戻すため、短期間で莫大な富と名声を取り戻せる『巨大な成功』に、飢えに飢えておりますの」
ルチアの紫紺の瞳が、獲物の喉笛を見定めた鷹のように細められた。
「第29話で計画した『手形の一括請求による兵糧攻め』……あれだけでは生ぬるいわ。
そんなことをすれば、トカゲの尻尾切りのように部下を切り捨てられ、本体であるロベルト公爵自身は、のうのうと生き延びてしまう。
私が望むのは、そんな中途半端な決着ではありません。
ロベルト公爵本人、そして彼に群がる汚職貴族どもの全財産、裏金のすべてを、自らの意志でテーブルの上に賭け金として差し出させ――一撃で、根こそぎ、合法的に奪い取ることです」
「……全財産を、自ら差し出させる?」
レオンハルトが眼鏡の縁を直しながら、息を呑んだ。
「相手は百戦錬磨の老獪な貴族院の重鎮ですぞ。いかに焦っているとはいえ、そんな怪しい投資話に飛びつくはずが……」
「飛びつきますわ、レオンハルト様」
ルチアは薄い唇を妖艶に歪め、チョークを走らせた。
黒板の上に、大きく書き殴られた新たな文字列。
『大陸横断・南部大運河開削プロジェクト』
「……なっ!?」
レオンハルトが絶句し、セレーナが目を見張った。
「大運河計画……!? まさか、前王の時代に計画され、莫大な工費と地質調査の難航によって凍結された、あの幻の国家事業のことか!?」
「ご名答ですわ」
ルチアはパチンと指を鳴らした。
「詐欺の最高峰――『グランド・コン(大掛かりな信用詐欺)』の神髄。
それはね、相手を騙すために偽りの罠を仕掛けることではありません。
『相手自身が、心の底から喉から手が出るほど欲しがっている巨大な幻影』を目の前にぶら下げ、相手自らの強欲の足で、奈落の落とし穴へと全力疾走させることなのです」
ルチアは円卓の仲間たちを見渡し、その冷徹無比な青写真を提示した。
「王国の南部を東西に貫く大運河が開通すれば、内陸部の鉱山から港湾への輸送コストは十分の一に激減し、関税と通行料だけで年間数十万枚の黄金が転がり込む。……国家予算の数倍に匹敵する、歴史上最大の利権です。
ロベルト公爵にとって、これ以上の獲物はありません。
この利権さえ手中に収めれば、グラナート家への敗北など一瞬で覆し、王国の真の支配者として君臨できる……そう確信させれば、あの男は自らの金庫の底をさらい、派閥貴族たちから金を掻き集め、全財産を注ぎ込んで飛びついてきますわ」
「……だが、ルチア」
クラリスが真剣な面持ちで口を挟んだ。
「大運河計画をゼロからでっち上げるとなれば、公文書偽造の重罪になりますわ。いくらロベルト公爵をハメるためとはいえ、私たちが法を犯してしまっては、後で足元を掬われます!」
「当然よ、クラリス。私の辞書に『違法行為』の文字はありませんわ」
ルチアは微笑み、オスカーへと視線を送った。
オスカーが頷き、懐から真紅の王室封蝋が施された、黄ばんだ一冊の公的記録綴りを取り出して卓上に置いた。
「この計画は、捏造ではない。……三十年前、前王の時代に実際に国家事業として議会を通過し、地質調査の段階で無期限凍結された、実在する王立公文書だ」
オスカーの青い瞳が、冷徹な光を放つ。
「法的な手続きに一分の瑕疵もない。我々は、過去に眠っていた公的計画を『財務省と王室の主導により、極秘裏に再始動させる検討に入った』という事実を作るだけだ。
一切の嘘の書類は作成しない。ただ、厳然たる事実の断片を、敵の目の前に転がしてやるだけだ」
「……完璧な法的防壁ね」
セレーナが興奮に頬を染め、羽ペンを机に突き立てた。
「実在する国家計画の再浮上。しかも王室と財務省が動いているとなれば、ロベルト卿のような権力者ほど、その『真実味』を疑うことすらできなくなる。……最高にエグい筋書きだわ」
「ええ。そして、ここからが皆様の出番ですわ」
ルチアはチョークを置き、円卓の全員へ向けて、明確かつ絶対的な役割分担を言い渡した。
「第一班――オスカー様、そしてアデレード皇太后陛下」
「俺たちの役目は?」
「『国家機密のリアリティ』の演出ですわ。
オスカー様は、財務省の極秘執務室において、大運河計画に伴う『先行開発債券の発行準備書』、ならびに『土地収用の試算見積書』を公式に起案してください。
そして皇太后陛下には、王宮の茶会において、親しい重鎮貴族たちに『近々、国家を揺るがす巨大な事業が王室主導で動き出す』と、微かな匂わせを落としていただきます。
最高権力者二人の動きが一致した時、ロベルト公爵はインサイダー情報の真実性を百パーセント確信いたしますわ」
「了解した。皇太后宮へは、明朝一番で俺自ら足を運ぼう」
オスカーが迷いなく頷く。
「第二班――エミリア、そしてレオンハルト様」
「は、はいっ!」
「仰せのままに!」
エミリアとレオンハルトが、息を揃えて背筋を伸ばした。
「お二人の役目は、『情報の意図的漏洩』です。
ロベルト公爵のような猜疑心の強い男は、正面から与えられた情報など決して信じません。
『自らの手で、苦労して盗み見した極秘情報』だからこそ、命を賭けて盲信してしまうのです。
レオンハルト様は、財務省の執務室のゴミ箱やシュレッダーの廃棄書類の中に、わざと破棄された『運河計画の収支シミュレーションの断片』を紛れ込ませてください。ロベルト卿の放った間諜たちに、それを拾わせるのです」
「お任せを。奴らの潜入ルートと買収されている清掃係は、すでに特定しております」
レオンハルトが冷徹に眼鏡を光らせる。
「そしてエミリア。あなたは下町と社交界の裏ネットワークを使い、ロベルト公爵が最も寵愛している愛人が通う高級サロンへ潜入しなさい。
そこで『王宮の奥で、南部運河の極秘債券が内々に発行されるらしい』という噂を、雑談に紛れて落とすのよ」
「心得ましたわ、お嬢様! あのお馬鹿な愛人さん、見栄っ張りですから、絶対に公爵様へ自慢げに耳打ちしますわ!」
エミリアが自信満々に胸を張る。
「第三班――セレーナ」
「待ってました、私の主戦場ね」
セレーナが獰猛な笑みを浮かべた。
「あなたの役目は、『市場の狂乱の演出』よ。
ロベルト公爵が食いつき、裏で動き始めた瞬間……王都中央為替座において、極秘裏に『運河開発債券』の先行取引枠を市場に供給しなさい。
価格は一口金貨百枚。
あなたが複数のダミーブローカーを操り、意図的に買い支えて価格を吊り上げ、市場に『買いが買いを呼ぶバブル』を作り出すのよ」
「お安い御用よ。奴らに『乗り遅れたら一生の不覚』という猛烈な焦燥感(FOMO)を植え付けて、全財産を突っ込ませてみせるわ」
「そして、第四班――クラリス」
「はい、姉様!」
クラリスが眼鏡の奥の瞳を鋭利に研ぎ澄ませた。
「あなたがやるべきは、後方における『資産スワップの回収』よ。
ロベルト公爵とその派閥貴族たちは、運河債券を買い占めるための莫大な現金を欲しがり、先祖伝来の領地、肥沃な農地、鉄鉱山、物流倉庫を、担保として次々と市場へ投げ売りしてくるわ。
あなたはグラナート商会の資金を使い、それらの優良な実物資産の抵当権を、市場価格の四割引き、五割引きで水面下から根こそぎ買い叩いて取得しなさい」
「……実体のない紙切れの債券を掴ませる代わりに、王国の真の富たる実物インフラを、私たちの掌へと移転させるのですわね」
クラリスの口元に、冷徹な財務番頭の笑みが浮かんだ。
「完璧ですわ、姉様。ロベルト派が破滅したその瞬間――彼らが失ったすべての鉱山と土地は、そのまま我がグラナート領を支える強固な基盤インフラへと生まれ変わります!」
息を呑むような、完璧な包囲網。
法、政治、情報、金融、実物経済。
五つの歯車が、寸分の狂いもなく噛み合い、一人の傲慢な権力者を解体するための巨大な処刑台を組み上げていく。
「……見事だ、ルチア」
オスカーが立ち上がり、円卓を挟んでルチアの正面へと歩み寄った。
その青い瞳には、底知れぬ敬意と、狂おしいまでの愛おしさが満ち溢れていた。
「かつてこれほどまでに美しく、冷酷で、完全無欠な作戦図を見たことがない。……お前のその頭脳こそが、この国の最大の至宝だ」
「お褒めに預かり光栄ですわ、オスカー様」
ルチアは微笑み、黒板のロベルトの名を見つめた。
窓の外、夜明け前の静寂が王都を包み込んでいる。
数時間前、あの冷たい雨の回廊で、老貴族が自分に投げつけた毒の言葉。
――『お前は誰からも愛されず、薄暗い冷たい部屋の床の上で、一人きりで野垂れ死ぬのだ』。
胸の奥で、かつてないほど澄み切った、絶対の闘志が紅蓮の炎となって燃え上がった。
(ええ、見ていらっしゃい、ロベルト公爵。
私が前世から抱え続けてきた魂の傷を、土足で踏みにじり、嘲笑った代償がどれほどのものか……。
あなたのその肥え太った金庫の底を、徹底的に浚って教えて差し上げますわ)
ルチアは振り返り、自らの背後に控える頼もしい仲間たち、そして何より、命を担保にして自分を守ると誓った最愛の男へと、至高の笑みを向けた。
その唇から紡ぎ出されたのは――傲慢な巨悪への、冷酷極まる宣戦布告。
「奪われた涙の分だけ、あの方の金庫から黄金を搾り取って差し上げますわ。――一滴残らずね」
部屋を支配したのは、決戦を前にした戦士たちの静かな熱狂だった。
国家を揺るがす世紀の大規模信用詐欺。
いま、反撃の引き金が――音もなく、確実に引かれたのだった。




