第35話:氷の公爵の融解
暖炉の中で爆ぜた薪の火の粉が、パチパチと赤い軌跡を描いて灰へと落ちていく。
豪雨が公爵邸のガラス窓を叩きつける重く低い地鳴りだけが、執務室の空気を震わせていた。
毛布にくるまり、泥に汚れたドレスのまま、オスカーの胸板を力なく押し返そうとするルチア・フォン・グラナート。
自らの最も醜い傷口――誰のことも信じられず、金しか愛せない欠陥だらけのペテン師であるという正体を泣きながら晒け出し、「私を見てはいけません」「離してください」と懇願するその指先は、氷の塊のように冷たく凍え、小刻みに痙攣していた。
だが。
彼女の冷え切った指先が、男のシャツを押し返そうとした、まさにその刹那――。
グッ――と。
退路を完全に断ち切るような力強い腕が、ルチアの細い腰と背中を、真正面から抱き寄せた。
「……あ」
押し戻すことなど、最初から許されなかった。
オスカーはルチアの弱々しい抵抗を完全に無視すると、分厚い毛布ごと、泥水に濡れて重くなったドレスごと、そして冷たい雨水でぐっしょりと濡れた黒髪ごと――彼女の華奢な全身を、自らの逞しい胸元へと力任せに押し包み込んだのだ。
ドサリと、オスカーの膝がペルシャ絨毯に沈み込む。
彼は床に膝をついたまま、ルチアを座席から自らの腕の中へと引きずり下ろすようにして抱き留め、逃げ場を完全に塞いでいた。
オスカーの着ていた白いシャツに、ルチアの濡れた髪とドレスから茶色い泥水がじわりと染み渡り、無残な汚れを広げていく。
だが、王国の頂点に立つ公爵は、自らの服が泥まみれになることなど、爪の先ほども気にしてはいなかった。
ただ、腕の中の少女が壊れてしまわぬよう、骨が軋むほどの圧倒的な力で、強く、強く、胸に抱きしめ続けていた。
「な……なぜ……?」
ルチアの掠れた喉から、困惑の吐息がこぼれた。
顔を上げようとするが、オスカーの大きな手のひらが、ルチアの後頭部を優しく、だが断固として押さえつけ、彼の鎖骨の窪みへと深く沈めさせて離さない。
押し付けられた耳の奥に、直接響いてくるものがあった。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――。
激しく、力強く、激流のように熱い生命を刻み続ける、オスカーの心臓の鼓動。
そして、男の皮膚から立ち上る、焼けるような生々しい体温の熱気。
「な、ぜ……抱きしめるのです……? 聞こえなかったのですか……!?
私は……私は、あなたを利用していたと言ったのですわ!
お父様も、クラリスも、あなたすらも……都合のいい金蔓としてしか見ていない、醜悪な化け物なのだと……!」
ルチアはオスカーの胸の中で、必死に声を張り上げた。
こんな温もりを受け取る資格など、自分にはない。
優しくされればされるほど、後から訪れる裏切りの痛みに耐えられなくなる。
だから早く軽蔑してくれ、早く罵倒してくれ、冷たい目で睨みつけて自分を突き放してくれと――魂が悲鳴を上げていた。
しかし。
頭上から降ってきたのは、怒声でも、嘲笑でも、軽蔑の溜息でもなかった。
「……それがどうした」
低く、掠れた、だが岩盤のように揺るぎないオスカーの声だった。
「え……?」
「それがどうしたと、言っているんだ」
オスカーはルチアの濡れた後頭部を撫でながら、自らの顎を彼女の冷えた頭の頂にそっと乗せた。
吐き出される熱い吐息が、ルチアの濡れた髪を温かく揺らす。
「他人の心を値踏みし、弱みに付け込み、甘い言葉で金を巻き上げる……? フッ、上等じゃないか。相手はどいつもこいつも、己の強欲と見栄に塗れた豚どもばかりだ。そんな害虫どもの懐に手を突っ込んで何が悪い?
お前がペテン師だというのなら、俺はその共犯者だ。
お前が世界中から嫌われる怪物だというのなら……俺が、その怪物の唯一の飼い主になってやるまでのことだ」
「な……何を、言って……」
ルチアの思考が、激しく火花を散らした。
理解できない。
法を司る最高責任者が、国家の財務を統括する冷酷な男が、なぜ自らを犯罪者の共犯者だと肯定するのか。
なぜ、この世で最も唾棄すべき詐欺師の女を、怪物ごと受け入れると言い放つのか。
「お前は、自分を偽物だと責めるな」
オスカーの腕に、さらに一段と熱い力がこもった。
男の胸板を通して、その魂の熱量がルチアの凍てついた胸部へと怒涛の勢いで流れ込んでくる。
「お前は、すべては自分の保身のため、安全保障のための打算だったと嘯いたな。
……ならば聞くが、お前が救ったあのグラナート領の現実を、お前自身が偽物だと切り捨てる気か?」
「……っ」
「俺は見たぞ。為替座の記録も、現地の調査報告も、すべて目を通した。
お前が巻き上げた金で建った紡績工場。そこで温かい麦飯を食べ、冬を越せるようになった四百五十人の工員たち。
舗装された物流街道。泥水をすすっていたあぜ道は消え、今や王都と領地を結ぶ大動脈となった。
飢えから救われ、笑いながらパンを食べる子供たち。
お前の父親が泥まみれの作業着を着て、涙を流しながら大工たちと木材を運んでいる姿。
……あそこに息づく何千人もの命の救済が、すべて偽物だとでも言うのか!?」
オスカーの低い声が、執務室の空気を震わせた。
「動機が打算であろうと、保身であろうと、構うものか!
お前が成し遂げたのは、私腹を肥やす貴族どもが何百年かかっても成し得なかった、圧倒的な富の再分配と民の救済という『厳然たる現実』だ!
お前が手に入れた金は、一銅貨の無駄もなく、人々の命を繋ぐパンとなり、工場を動かす薪となった!
お前の父親もお前の妹も、金があるからお前を愛しているのではない。お前が命を削って王都の嵐の中に飛び込み、家族と領民のために戦い続けているその背中を見ているからこそ、心からお前を誇りに思っているのだ!
それを……ただの打算だの、金目当てだのと、誰にも言わせはしない。他ならぬお前自身にすら、偽物などと侮辱させるものか!!」
胸を打つ、圧倒的な肯定。
ロジャーズの受容理論――『無条件の肯定的関心』。
相手が社会的に繕っている善行や道徳を褒めるのではない。
相手が最も恥じ、最も恐れ、最も隠したがっている「ドロドロとした打算とエゴイズム」のすべてをそのまま認識した上で、その存在そのものを全肯定し、抱きしめるという奇跡。
「あ……ぅ……っ」
ルチアの瞳から、再び熱い涙がボロボロと溢れ出た。
前世の一条玲奈の記憶が、激しく揺さぶられていた。
そうだ。自分はいつだって、「役に立つ人間」「金を持ってくる人間」でいなければ愛されないと信じ込んできた。
能力を失えば捨てられる。
金を失えば見捨てられる。
だからこそ、感情を殺し、数字という冷たい鎧を何重にも身に纏って、誰にも素顔を見せないように生きてきたのだ。
その鎧の隙間を、この男は――土足で踏み越え、力ずくで引き裂き、その奥底で震えていた醜く臆病な魂を、まるごと両腕で包み込んでみせた。
「そして――俺だ」
オスカーは腕をわずかに緩めると、ルチアの肩を掴んで、自らの至近距離へと引き戻した。
濡れそぼる黒髪をかき分け、涙と泥で汚れたルチアの白磁の頬を、自らの大きな両手で優しく包み込む。
至近距離で見つめ合う、二つの瞳。
赤く腫らしたルチアの紫紺の瞳を、オスカーの氷河のような青い双眸が、逃げ場を完全に塞ぐように見据えていた。
その瞳の奥には、打算など微塵もなかった。
あるのは、己の人生のすべてを焼き尽くしても構わないという――純粋で、狂気じみた絶対の光。
「お前は言ったな。俺がお前を利用しているだけだと。用が済めば、邪魔な汚点としてお前を捨てるのだろうと」
「……っ」
「馬鹿を言うな」
オスカーの薄い唇が、自嘲するように、だが獰猛に歪んだ。
「お前は俺を利用しているつもりかもしれないが……俺の方こそ、お前の才能と、お前の美しさと、その冷徹な孤独に、とっくに狂わされているんだよ」
オスカーの親指が、ルチアの目尻から零れ落ちる涙を、愛おしそうにそっと拭い去った。
「初めてバルコニーでお前の手口を見破ったあの日から。
カシアンとイザベラを解体し、大金を手に入れながら、ドレスの一着も買わずに領地へ全額を送金したお前の冷めた横顔を見たあの夜から。
俺の頭の中からは、お前の存在が一秒たりとも消え去ったことはない。
社交界の有象無象の豚どもがお前に群がった時、俺の理性は完全に焼き切れた。
お前を誰にも渡したくない。お前の毒も、お前の涙も、お前の弱さも、俺以外の誰の目にも触れさせたくない……!
利用しているのは俺の方だ。国の財政改革という大義名分を盾にして、お前を俺の側に縛り付け、手放さないように必死になっているのは……この俺の方なのだぞ、ルチア」
男の告白は、重く、甘美な毒のようにルチアの胸を貫いた。
冷徹無比な『氷の財務卿』が。
国家の命運を一手に握る若き怪物が。
一人の少女の前で、完全に膝を屈し、己の敗北と狂乱を赤裸々に曝け出している。
「……金しか、信じられないのだろう?」
オスカーはルチアの顎をそっと持ち上げ、その濡れた瞳をじっと見つめた。
その声は、耳朶を震わせるほどに低く、そして熱かった。
「お前が求めているのが、何者にも脅かされない自由と安全だというのなら。
お前が『愛』などという不確かな言葉を信じられないというのなら……いいだろう。打算で結構だ。損得勘定で結構だ。
――ならば、俺のすべてを、金庫ごとお前にくれてやる」
「……え?」
ルチアの喉が、息を詰まらせた。
「ヴァルハイト公爵家の全領地、全財産、王室債券、徴税権……俺の持つすべての富をお前の名義にしてやる。
お前が俺を捨てられないように、お前の手腕で俺を一生飼い殺しにしろ。
一生かけて、俺の全財産を搾り取り続けろ。
俺が無一文になり、お前の足元に縋り付くしかなくなるまで、俺のすべてを搾取し尽くしてみせろ」
狂気。
それは、常識的な求婚の言葉などでは断じてなかった。
相手が金しか信じないというのなら、己の持つすべての富を不可逆な担保として差し出し、自らを人質にして相手に差し押さえさせるという――前代未聞の逆搾取の要求。
「そして――それでも足りないと言うのなら」
オスカーは自らの左胸、激しく脈打つ心臓の上へと、ルチアの震える手を力強く押し当てた。
シャツの布地を通して伝わる、圧倒的な鼓動の熱気。
「俺の命を、担保にしろ」
「……っ!?」
「お前が裏切られるのを恐れるなら、俺の命をお前に預けてやる。
もし俺がお前を裏切り、お前を捨てようとしたその時は……お前の手で、俺の息の根を止めろ。俺の心臓に刃を突き立て、殺してしまえばいい。
俺の全財産とお前の安全を天秤にかけ、お前の計算機が納得するまで、俺を弄び尽くせ。
……薄暗い冷たい部屋の床の上で、お前が一人きりで野垂れ死ぬなど……この俺が、天地がひっくり返ろうと絶対に許さん。
お前を一人で死なせはしない。お前が死ぬ時は、俺の腕の中だ。俺の全存在を賭けて、お前の孤独ごと、俺が買い取ってやる」
――ドォンッ。
ルチアの脳内で、世界が反転した。
計算機が、完全に粉々に砕け散った。
ROI? 投資対効果? リスクヘッジ?
そんなチンケな数式が、一体何の役に立つというのか。
目の前にいるこの男は、自らの地位も、名誉も、全財産も、そして自らの命すらも担保にして――自分という欠陥だらけの存在を繋ぎ止めるためだけに、奈落の底へ飛び込もうとしているのだ。
(狂っている……。
本当に……この男は、狂っているわ……!)
だが――その狂気こそが。
言葉による愛の誓いを一切信じられなかったルチアの魂にとって、唯一、信じることのできる「絶対的な誠意」だった。
命を担保にする男。
全財産を差し出して「搾取しろ」と命じる男。
これ以上の回復不能なコストを支払って自分を愛そうとする人間が、この世界のどこに存在するというのか。
「……あ」
ルチアの胸の奥底で、何かが音を立てて崩壊した。
前世のあの冷たい雨の夜。
裏切られたタワーマンション。
誰もいない狭いアパートの冷たいフローリングの床。
息ができず、心臓を掻きむしり、孤独の恐怖の中で死んでいった「一条玲奈」の亡霊。
三十年近くにわたって彼女の魂を縛り付け、氷の檻の中に閉じ込めていたあの呪われた記憶が――。
オスカーの胸板から伝わる圧倒的な熱気と、激しい心臓の鼓動によって、ジュッと音を立てて蒸発し、跡形もなく消え去っていったのだ。
「う……あぁぁぁっ……!」
ルチアの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出た。
今度の涙は、恐怖の涙ではなかった。
悔しさと、安堵と、そして生まれて初めて味わう――愛されることの圧倒的な熱量に呑み込まれた、魂の産声。
ルチアは自らの両腕を伸ばした。
泥に汚れた手で、オスカーの濡れたシャツの背中を、強く、強く抱きしめ返した。
そして、男の広い胸の中に顔を埋め、子供のように声を上げて、しゃくりあげながら泣きじゃくったのだ。
「うわあああぁぁぁっ……! うっ、うぅぅ……っ!」
オスカーは何も言わず、その背中を優しく、力強く抱き留め続けた。
ルチアの流す涙が、オスカーのシャツを濡らし、男の肌へと染み込んでいく。
どれほどの時間が流れただろうか。
窓の外の豪雨の音が、いつの間にか遠のいていた。
暖炉の火の温もりが部屋を満たし、二人の重なり合った鼓動だけが、静寂の執務室に心地よいリズムを刻んでいた。
やがて――。
ルチアの激しいしゃくりあげが収まり、静かな吐息へと変わっていった。
彼女はオスカーの胸からゆっくりと顔を離した。
赤く腫らした目元。泥と涙で汚れた顔。
だが――その紫紺の瞳からは、先ほどまでの怯えと混濁は完全に消え去っていた。
そこに宿っていたのは、前世の孤独を完全に脱ぎ捨て、生まれ変わった稀代の天才の、凛とした輝き。
ルチアはぐしゃぐしゃになった顔を袖口で乱暴に拭うと、オスカーの胸板を指先でツンと小突いた。
そして――呆れたように、だがどこか愛おしそうに、薄い唇を歪めてみせたのだ。
「……本当に、救いようのない大馬鹿者ですわね、オスカー様」
「何だと?」
オスカーが微かに目を見張る。
ルチアは鼻をすすりながら、いつもの不敵で、蠱惑的な笑みをその唇に蘇らせた。
「全財産をくれてやる? 命を担保にしろ?
……ふふ。国家の財政を統括する財務卿ともあろう殿方が、そんな大赤字の契約条項を平然と口になさるなんて。
損失率百パーセント。回収不能リスク極大。
……お前の全財産を担保にするだなんて、本当に、割に合わない大馬鹿者ですわね」
痛烈な毒舌。
打算の言葉で彩られた、至高の受容。
オスカーは一瞬、呆気にとられたように瞬きをし――。
次の瞬間、その彫刻のような端正な顔立ちを、心底から愛おしそうに綻ばせた。
「……フッ」
低い、男らしい笑い声が、暖炉の前に響く。
「大馬鹿者で結構だ。破滅的な投資だと最初から言っているだろう。……お前に騙し取られるなら、本望だと言ったはずだぞ」
「騙し取るだなんて、人聞きの悪い」
ルチアは立ち上がり、肩に掛けられた毛皮のガウンを羽織り直した。
その背筋は、再び一本の糸で天から吊り上げられたかのように、寸分の狂いもなく凛と伸びていた。
前世の亡霊は、もういない。
孤独死の恐怖に怯える少女は、もうどこにも存在しない。
ここにあるのは――世界でたった一人の、自らのすべてを賭けて愛してくれる共犯者を手に入れた、最強の逆搾取令嬢の姿だった。
「泣き言の時間は、これでおしまいですわ」
ルチアは紫紺の瞳を細め、執務室の窓の外――雨雲の切れ間から差し込み始めた、一筋の鋭い夕暮れの光を見据えた。
その光の先には、王都の空に黒々とそびえ立つ、ロベルト・デュラン公爵の邸宅があった。
「ロベルト公爵。……あの方には、私の心を土足で踏み躙り、無駄な涙を流させた代償を、きっちりと支払っていただかなくてはなりませんわね」
ルチアの唇が、妖艶極まる三日月の弧を描いた。
宿っていたのは、前世の修羅場を遥かに凌駕する、絶対零度の復讐の炎。
「一銅貨の端数に至るまで……あの方の金庫から、黄金を根こそぎ搾り取って差し上げますわ」
完全復活。
二人の怪物が、真の魂の契りを交わした今――。
腐敗した貴族院の巨頭を完全に葬り去るための、国家規模の大規模信用詐欺の幕が、いま切って落とされようとしていた。




