第34話:雨の夜の告白
天が底を抜けたかのような激しい雷鳴が、王都の空を切り裂いて轟いた。
官庁街の最奥、ヴァルハイト公爵邸の広大な前庭を取り囲む黒鉄の格子門には、冷たい豪雨が滝のような飛沫を上げて打ちつけられていた。街路樹の葉は無残に引き千切られて石畳を濁流となって流れ、昼下がりだというのに夜の帳が落ちたかのように視界は暗黒に閉ざされている。
――ドンドンッ! ドンドンッッ!!
豪雨の轟音の隙間を縫って、公爵邸の巨大な樫木のエントランス扉が、鈍く、悲鳴のような力で叩かれた。
普段ならば、訪れる高位貴族たちの馬車と従者で厳格に管理されているはずの玄関。
不審に思った老執事が、ランタンを掲げて覗き窓の真鍮格子を開けた瞬間――老人は息を呑み、慌てて二重の閂を跳ね上げた。
「な……何事だ!? どなたですか――っ!?」
軋む音を立てて開け放たれた大扉の向こう。
土砂降りの雨煙が立ち込める車寄せの冷たい石段の上に、泥水に足を取られ、扉の枠にすがりつくようにして立ち尽くしていたのは――。
「……あ」
全身を頭の天辺から爪先まで泥水に濡らし、亡霊のように青白い顔をした一人の少女だった。
純白だったはずのモスリンドレスは、濁った茶色の泥水と雨水をたっぷりと吸い上げて鉛のように重く垂れ下がり、裾は無残に引き裂かれていた。
艶やかだった黒髪は冷たい雨水で額や首筋にべったりと張り付き、白磁の肌は凍傷のように血の気を失って青紫色に染まっている。
手袋はどこかに落としたのか、剥き出しの細い指先は泥に塗れ、爪の隙間には赤い血が滲んでいた。
「ひっ……!? ぐ、グラナート子爵令嬢……!?」
老執事がランタンを取り落としそうになりながら叫んだ。
その悲鳴のような声を聞きつけたのか――大理石の大階段の上から、凄まじい勢いで駆け下りてくる軍靴の足音が響いた。
「どうした、何の騒ぎだ!」
現れたのは、上着のボタンを外し、書類の束を片手に持った財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵本人だった。
貴族院による監査権限停止という政治的軟禁状態に置かれながらも、自室でルチアの査問会の行方を案じ、神経をすり減らしていた若き怪物の青い双眸が――玄関口に立ち尽くす少女の姿を捉えた。
「……っ!?」
オスカーの動きが、雷に打たれたように凍りついた。
手にしていた書類が、バサバサと大理石の床へとこぼれ落ちる。
社交界の誰も見たことのない、恐怖と激震に歪む公爵の顔。
「ル、チア……!?」
オスカーは階段を跳び下りるように駆け寄り、泥水が跳ね返るエントランスの冷たい床の上へと、躊躇うことなく大股に踏み出した。
「ルチア! 一体何があった!? その格好は……馬車はどうした!? 護衛は!?」
駆け寄ってきたオスカーの逞しい両腕が、今にもその場に倒れ込みそうだったルチアの細い肩を、反射的に支えた。
男の身体から立ち上る、温かい体温。
その熱気に触れた瞬間――ルチアの虚ろだった紫紺の瞳に、微かな光が戻った。
(……あ。オスカー、様……)
頭の奥底で、前世から叩き込まれてきた詐欺師の条件反射が、悲鳴を上げながら作動した。
繕わなければならない。
取り繕わなければならない。
こんな無様で、惨めで、壊れかけた姿を他人に見せてはならない。
つけ込まれる。弱みを見せれば、値踏みされ、利用され、最後は冷たい床の上に捨てられるのだから――。
「ご……ごきげん、よう……公爵、閣下……」
ルチアは必死になって口角を持ち上げようとした。
いつもの、誰をも惑わす完璧な営業用の聖女スマイル。
困ったように眉を下げ、愛らしく、完璧に計算された可憐な微笑みを――。
「さ、査問会は……私の、完全な勝訴で……閉廷、いたしましたわ……。ユリアンも、カールも……反論の一言すら、できずに……ふふ、実に、滑稽な、茶番劇でして……」
だが。
唇が、ガチガチと激しい音を立てて痙攣し、噛み合わなかった。
凍え切った頬の筋肉は引き攣り、笑みを作るどころか、喉の奥からヒューヒューと掠れた過呼吸の音しか漏れ出てこない。
作り笑いの仮面が、冷たい泥水とともに、音を立ててボロボロと崩れ落ちていく。
「な、なのに……なぜか、少し……寒気が、いたしまして……お洋服が、汚れて……申し訳、ございま……」
「馬鹿野郎! 喋るなッ!!」
怒号のような声とともに、オスカーの腕がルチアの身体を力任せに引き寄せた。
オスカーは躊躇うことなく自らの仕立ての良い黒い上着を脱ぎ捨てると、泥水に濡れそぼるルチアの華奢な身体をすっぽりと包み込んだ。
そして、執事や侍従たちの制止を待つこともなく、泥で汚れたルチアの身体を軽々とその腕に抱き上げたのだ。
「湯を沸かせ! 乾いたタオルと、ありったけの毛布を執務室の暖炉の前に持ってこい! 専属医を叩き起こして呼べ!!」
屋敷中に響き渡る主人の絶叫。
オスカーは腕の中のルチアを抱きしめ直しながら、大階段を駆け上がった。
抱き上げられたルチアの耳元に、オスカーの荒い息遣いと、ドクドクと狂ったように早鐘を打つ激しい心臓の鼓動が、ダイレクトに伝わってくる。
男のシャツに、ルチアのドレスから染み出した冷たい泥水がべったりと移っていくというのに、オスカーは彼女を腕から離そうとは一瞬たりともしなかった。
最上階の財務卿執務室。
暖炉には、薪がこれでもかと積み上げられ、パチパチと火の粉を散らしながら猛烈な勢いで赤々とした炎を噴き上げていた。
床一面に敷かれた分厚いペルシャ絨毯の上に、何重もの毛布に包まれたルチアが、アームチェアに深く座らされていた。
泥だらけだった顔と手足は、温かい湯で絞られたタオルによって丁寧に拭い去られ、肩にはオスカーの毛皮付きのガウンが二重に掛けられている。
だが――どれほど火の粉が爆ぜようとも、ルチアの身体の芯の凍えは、一向に取れなかった。
歯の根が合わず、毛布を握りしめる両手は小刻みに震え続けている。
目の前に置かれた湯気の立つカモミールティーの銀杯すら、手に取ることすらできない。
「……ルチア」
低い、掠れた声がした。
見れば――膝をつき、絨毯の上に直接腰を落としたオスカーが、ルチアの目の前にいた。
泥で汚れたシャツの袖を捲り上げ、その大きな両手で、ルチアの氷のように冷え切った両手を、祈るように包み込んでいた。
「……何があった?」
オスカーの青い双眸は、赤く血走り、激しい焦燥と殺気に濁っていた。
手袋越しではない。
素肌と素肌。オスカーの熱い手のひらが、ルチアの強張った指先を必死に擦り、自らの体温を分け与えようとしている。
「ロベルトか。……あの老いぼれが、お前に手を出したのか?
言え、ルチア。あいつがお前に何を言った、何を強要した?
査問会で勝ったお前が、なぜこんな泥まみれになって震えているんだ……!
言え! 俺が今すぐ近衛の抜刀隊を率いて、デュラン公爵邸を包囲してやる! あの男の首を刎ねて、貴族院ごと叩き潰してやるから……ッ!!」
感情を剥き出しにした、猛獣のような咆哮。
冷静沈着な『氷の財務卿』の姿は、そこにはどこにもなかった。
あるのはただ、目の前で壊れかけている一人の少女を前にして、狂乱し、理性を焼き切らせている一人の男の剥き出しの執着。
その真摯すぎる眼差しが。
自分という存在の破滅を前にして、本気で世界中を敵に回そうとしている男の、打算の一滴すら混じっていない絶対の熱量が――。
ルチアの胸の奥底で張り詰めていた、最後の鉄の鎖を、粉々に粉砕した。
(……やめて)
喉の奥が、熱い塊で塞がれた。
(そんな目で、私を見ないで……。
そんな、綺麗な光を……私に向けないで……っ!)
ぽろり、と。
ルチアの紫紺の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
一滴。
それがオスカーの包み込む手の甲に落ち、ジュッと音を立てて弾けた。
続いて、二滴、三滴。
一度決壊した涙の堤防は、もはやいかなる理性をもってしても押し留めることはできなかった。
「あ……ぅ……っ、うわぁぁ……っ」
ルチアの喉から、子供のようなしゃくりあげる声が漏れ出た。
顔を覆おうとするが、オスカーの手がそれを許さず、彼女の震える指先を固く握りしめている。
視界が涙で滲み、暖炉の赤い炎が歪んだ光の輪となって揺らめく。
「ルチア……?」
オスカーが息を呑み、動揺に目を見張った。
出会ったあの日から、どんな危機に瀕しても、どんな悪辣な貴族を前にしても、冷ややかな嘲笑を浮かべて計算通りに切り抜けてきた女。
男の心を玩具のように弄び、決して本心を見せなかったはずのペテン師が。
今――目の前で、顔をぐしゃぐしゃにして、声を上げて泣きじゃくっている。
「ち、違うんですの……っ!」
ルチアは首を激しく横に振った。
涙が顎を伝い、オスカーのシャツの上へとボタボタと落ちていく。
「ロベルト公爵は……私に、何もしてなどいませんわ……!
暴力を振るわれたわけでも、脅されたわけでもありません……!
査問会は、私の完全な勝利でした……! ユリアンも、カールも……私が用意した契約書の前に、手も足も出ずに敗れ去りましたもの……!」
「ならば……なぜ泣く? なぜそんな、死にそうな顔をして逃げてきたんだ?」
「言われたのです……!」
ルチアはオスカーの手を強く握り返した。
爪が食い込むほどの力で、すがりつくように。
「あの男に……言われたのですわ……!
『お前がどれほど金を稼ごうと、お前の周りにいる者は皆、お前の金と才能に群がっているだけだ』と……!
『用が済めば、お前は捨てられる。薄暗い冷たい部屋の床の上で、誰からも愛されず、一人きりで野垂れ死ぬのだ』と……!!」
ヒュッ、とオスカーの息が止まった。
ルチアの瞳には、かつてない深い絶望と、底知れぬ狂気の怯えが渦巻いていた。
「……否定、できませんでしたの……っ!」
決壊した魂の叫びが、暖炉の部屋に木霊する。
「だって……真実のことですもの……!
私は……怪物ですわ、オスカー様!
他人の心を値踏みして、弱みを見つけて、甘い言葉で騙して、金を巻き上げることしかできない……!
生まれた時から、人の善意なんて信じたことがない! 他人の愛なんて一滴も信じられない!
信じられるのは、金だけ……! 貸借対照表の冷たい数字だけ……!!」
ルチアは自らの胸元を、毛布越しに力任せに掻きむしった。
前世――一条玲奈として生き、そして死んでいった、あの呪われた記憶の痛みが噴出する。
前世の固有名詞こそ出さないものの、彼女が幼少期から、物心ついた時から抱え続けてきた、絶対の孤独の正体。
「お父様だって……私が金を持って帰ってくるから、私を自慢の娘と呼んで抱きしめてくれるのですわ!
もし私が、何の金も稼げない無能な貧乏娘のままだったら……我が家はとっくに崩壊して、お父様は私を恨みながら首を吊っていたはずです!
クラリスだって……私が次々と巨額の予算を引っ張ってくるから、優秀な姉として慕ってくれているだけ!
そして……オスカー様、あなただって……!!」
ルチアの紫紺の瞳が、涙で濡れたままオスカーの青い双眸を真っ直ぐに見据えた。
胸を抉るような、痛切極まる告白。
「あなただって……私が腐敗貴族を合法的に破滅させる『毒』を持っているから、私を側に置いているのでしょう!?
財務卿としてのあなたの改革のために、私の知性と手腕が役に立つから……だから、私を買い取るとおっしゃったのでしょう!?
もし……もしも私が、ただの何の力もない無力な娘だったら……!
この冷酷なペテン師の仮面を剥ぎ取った後に残る、醜くて、臆病で、誰のことも愛せない欠陥だらけの私を見たら……!
あなただって……いつか私に愛想を尽かして、私を捨てて消えてしまうに決まっていますわ……!!」
ボロボロと溢れ出る涙。
ルチアはオスカーの胸に額を押し当て、声を上げて泣き崩れた。
「怖いのです……! 死ぬほど、怖いのですわ……!
どれだけ金を積み上げても……どれだけ完璧な城塞を築いても……!
いつか化けの皮が剥がれて、みんなが私を置いて消えてしまうんじゃないかって……!
またあの、冷たい、誰もいない薄暗い部屋の床の上で……息もできずに、一人きりで死んでいくんじゃないかって……!!
私には……最初から、誰かに愛される資格なんて、どこにもないのですから……ッ!!」
――防衛機制の完全なる崩壊。
冷徹な合理主義。
感情を金勘定(ROI)に置き換える絶対のプロファイリング。
他人を見下し、支配し、手玉に取ってきた稀代の結婚詐欺師の鎧。
そのすべての下にあったのは――悪女の傲慢さなどでは断じてなかった。
傷つくのが死ぬほど怖くて、裏切られる痛みに耐え切れなくて、誰からも愛されない絶望に怯えながら、必死になって『金』という名の冷たい壁の後ろで一人きりで震えていた――あまりにも痛々しく、あまりにも脆い、一人の少女の素顔だった。
「……っ」
オスカーは、何も言わなかった。
ただ、自らの胸元に顔を埋めて震えるルチアの細い背中を見つめ、その青い瞳に、言葉にできないほどの激しい感情の波を宿していた。
ルチアの流す熱い涙が、オスカーの泥に汚れたシャツを濡らし、男の皮膚へと直接染み込んでいく。
ルチアは震える手で、オスカーの胸板を力なく押し返そうとした。
自らの醜悪な本性を晒け出してしまった恥辱と恐怖。
今すぐ逃げ出さなければならないという、最後の自衛本能。
「……離して、くださいまし……」
ルチアは涙で濡れた顔を伏せ、消え入りそうな声で懇願した。
「私を……見てはいけません……。
この仮面を剥いだら……私はただの、誰のことも信じられない……醜くて、臆病なペテン師に過ぎないのですから……」
弱者の懇願。
自らの欠陥を告白し、相手から見捨てられるのを先回りして拒絶しようとする、哀しい魂の防衛。
だが――。
オスカー・フォン・ヴァルハイトの答えは、彼女の予想を、遥か彼方の次元で粉砕するものだった。




