第33話:精神的動揺(トラウマのフラッシュバック)
石造りの重厚な扉が背後で重く閉ざされ、法廷内の喧騒が遮断された。
貴族院の地下深く、冷気が淀む北回廊。
蝋燭の炎が微かに揺れる薄暗い通路を、ルチア・フォン・グラナートは静かな足取りで歩いていた。
純白のモスリンドレスの裾が、大理石の床を撫でるように擦れ合う。
ユリアンとカールの愚劣極まりない偽証を、客観的証拠と契約書の文言だけで完膚なきまでに叩き潰した。査問官たちを論理の檻に閉じ込め、無罪を勝ち取り、貴族院が仕掛けてきたリーガル・ハラスメントを灰燼に帰した――その完全勝利の余韻が、回廊の冷気の中に微かに漂っていた。
(……これで、法的な包囲網は完全に粉砕したわ)
ルチアは歩みを緩めることなく、脳内で冷静に次の手を弾き出していた。
査問会での敗訴により、貴族院がグラナート商会に課していた不当な特別通行税と手形決済停止勧告は、即刻無効となる。
市場のパニック売りも収束し、セレーナによるデュラン派手形の買い集めは、今夜のうちに完了するはずだ。
あとは明日、手形の一括請求を突きつけ、ロベルト・デュラン公爵の資金繰りを破綻させるだけ。
盤面は、完全にこちらの手中にあった。
――コツン。
その時、前方の薄暗がりから、硬質な音が響いた。
象牙の握り手を持つ黒檀のステッキが、大理石の床を規則正しく叩く音。
回廊の曲がり角から、ゆっくりと影が伸びてきた。
深紅の毛皮付きガウンを羽織り、白銀の髪を厳格に撫で付けた老貴族――貴族院予算委員長、ロベルト・デュラン公爵本人が、腕を組んで佇んでいたのだ。
ルチアの足が止まった。
二人の距離は、わずか十歩。
冷え切った回廊の空気の中で、二つの視線が正面から衝突した。
「……ごきげんよう、ロベルト公爵閣下」
ルチアは完璧な淑女の笑みを唇に張り付け、優雅にカーテシーを執った。
先ほど法廷で手先どもを返り討ちにされたばかりの巨頭に対し、微塵の怯えも見せない挑発的な礼節。
「査問会の傍聴席でお見かけいたしませんでしたので、てっきりご体調でも崩されたのかと心配いたしておりましたわ。……残念でしたわね。あなたの息のかかった査問官の方々は、私の提示した完璧な契約書の前で、ただの一言も反論できずに閉廷を宣言なさいましたけれど」
痛烈な皮肉。
並の貴族であれば激昂し、杖を振り上げて怒鳴り散らす場面だった。
だが――ロベルト卿の濁った灰色の双眸は、怒りに燃え上がってなどいなかった。
老獪な政治家は、ただ静かに、口の端を歪めて薄気味悪い笑みを浮かべていたのだ。
「……見事な手際だったな、ルチア・フォン・グラナート」
低く、掠れた、だが骨の髄まで染み渡るような毒を含んだ声。
「ユリアンとカールの無能どもを、契約書の文言だけで切り刻んでみせたか。なるほど、民法の条文をあれほど完璧に盾に仕立て上げるとは、我が貴族院の法学者どもでも思いつくまいよ。……お前の勝ちだ。法の上ではな」
「あら、ご納得いただけて光栄ですわ。では、これにて失礼――」
「だがな、小娘」
ルチアがすれ違おうと足を踏み出した瞬間、ロベルト卿のステッキが横に伸ばされ、彼女の行く手を遮った。
老貴族の冷たい視線が、至近距離からルチアの紫紺の瞳を覗き込んでくる。
「勝った気でいるのか?」
「……何がおっしゃりたいのです?」
「法で勝ったところで、お前という人間は何一つ救われぬと言っているのだ」
ロベルト卿はステッキを引き戻し、自らの胸元で両手を組んだ。
その顔に浮かんでいたのは、敗北した者の屈辱ではなく――相手の魂の最深部にある傷口を正確に見定め、そこに塩を擦り込もうとする、残酷な捕食者の笑みだった。
「お前は他人の欲望を値踏みし、弱みを見抜き、金勘定で手玉に取ることにかけては天才的だ。だが……なぜそれほどまでに金に執着する? なぜそれほどまでに他人を疑い、自分以外の誰も信用しようとしない?」
「……」
「お前のその瞳だ。……私は長年、権力と金に狂った数多の人間を見てきた。だが、お前のような目は見たことがない。まるで、とっくの昔に世界中のすべてに裏切られ、絶望の底で一度死んだ人間のような……冷え切った、死人の目をしている」
ドクン、と。
ルチアの胸の奥で、小さな不協和音が鳴った。
だが、彼女は表情一つ変えず、冷ややかな視線を返した。
「私の目をどのように解釈なさろうと、公爵閣下の勝手ですわ。ですが、私の内面を詮索したところで、明日満期を迎えるあなたの傘下商会の手形が決済されるわけではございませんけれど?」
「手形のことなど、どうでもよいわ」
ロベルト卿は鼻で笑い、一歩、ルチアへと踏み込んだ。
その影が、ルチアの純白のドレスを覆い隠す。
「いいか、小娘。お前がどれほど金を稼ごうと、お前がどれほど強固な城塞を築こうと……お前の周りにいる者たちは皆、お前の『金』とお前の『才能』に群がっているだけだ」
ぞっとするほど甘く、冷たい呪詛の囁き。
「お前のお人好しの父親はどうだ? お前が金を持って帰ってくるから、お前を自慢の娘と持て囃しているだけだ。もしお前が無能な貧乏娘のままだったら、あの男は今頃、お前を恨みながら首を吊っていただろうよ。
あの生意気な妹はどうだ? お前が巨額の予算を引っ張ってくるから、都合のいい金蔓として崇めているだけだ。
そして――あのオスカー・フォン・ヴァルハイト公爵はどうだ?」
「……オスカー様を、巻き込まないでくださる?」
ルチアの声に、わずかに硬さが混じった。
ロベルト卿はその微かな動揺を逃さなかった。老獪な瞳が、歓喜に細められる。
「あの氷の男が、お前を心から愛しているとでも錯覚しているのか? 笑わせるな! あいつはお前の持つ『腐敗貴族を解体する毒』を利用しているだけだ! 財務卿としての自らの野望と改革のために、お前の知性を便利な道具として飼い慣らしているに過ぎん!」
ロベルト卿の顔が、ルチアの耳元へと迫った。
吐き出される息が、氷水のように冷たい。
「用が済めば、捨てられるぞ。
貴族院が片付き、国の財政が整った時……犯罪者すれすれの詐欺師のお前など、あいつにとって最も邪魔な汚点となる。
お前はまた、誰からも愛されず、誰のことも信じられず……薄暗い冷たい部屋の床の上で、一人きりで野垂れ死ぬのだ。
お前が必死に積み上げた黄金など、お前の孤独を一秒たりとも埋めはせん。……お前は最初から、誰からも愛される資格のない、ただの哀れな化け物なのだからな」
「……っ!」
ロベルト卿はそれだけを言い残すと、嘲笑を回廊に響かせながら、ステッキを鳴らして去っていった。
静寂。
立ち去る老貴族の足音が遠ざかり、回廊には再び、冷たい静寂だけが戻ってきた。
ルチアは、立ち尽くしていた。
反論は、喉まで出かかっていたはずだった。
そんな陳腐な心理攻撃、前世で腐るほど浴びてきた三流の捨て台詞だと、鼻で笑い飛ばしてやればよかったはずだった。
ロベルト卿自身は、ルチアの前世のことなど何一つ知るはずがない。ただ、彼女の徹底的な人間不信と冷徹な金勘定の態度から、当てずっぽうに痛そうな急所を突いただけに過ぎないのだ。
――だというのに。
「……あ」
息が、吸えなかった。
ヒュッ、と喉の奥が引き攣るような音が鳴った。
胸の中央が、万力で締め上げられたかのように激しく軋む。
心臓が、耳元で鐘を連打するように早鐘を打ち始めた。
(……な、に……? どうして……?)
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
大理石の回廊の輪郭が溶け崩れ、色彩が急速に失われていく。
ロベルト卿の言葉。
――『薄暗い冷たい部屋の床の上で、一人きりで野垂れ死ぬのだ』。
その言葉が、強烈な鍵となって、ルチアが心の最深部に幾重もの鉄鎖で封印していたはずの『前世の記憶の蓋』を、暴力的にこじ開けてしまったのだ。
――ザザッ……ザザザッ……。
脳内で、激しいノイズが走る。
目の前に広がっていた貴族院の回廊が消え去り、かつて生きた前世の光景が、網膜の裏側に鮮烈な極彩色でフラッシュバックした。
激しい雨の夜だった。
警視庁捜査二課の包囲網が、すぐそこまで迫っていたあの夜。
タワーマンションの一室。
自分が唯一、心を許していたはずのビジネスパートナー。
数年間、背中を預け合い、数々の大富豪から巨額の富を巻き上げてきた、世界でたった一人信じていたはずの男。
その男が――自分に何の予告もなく、すべての海外裏口座の暗号キーを書き換え、逃走資金の全額を持ち逃げして消え去った、あの絶望の夜。
『悪く思うなよ、玲奈。お前といると息が詰まるんだよ。……お前は誰も愛さない。金しか見ていない化け物だ』
留守番電話に残されていた、男の冷え切った最後の声。
すべての口座が凍結され、手元に残されたのは、わずかな偽造パスポートと、警察のサイレンの音だけ。
そして――逃げ込んだ、場末の狭いアパートの一室。
薄暗い六畳間。
暖房もつかない冷え切った冬の夜。
連日の激務と逃走の極度のストレスにより、心臓が悲鳴を上げた。
胸を掻きむしり、息ができず、床を転げ回った。
救急車を呼ぶこともできない。呼べば即座に逮捕される。
誰かに助けを求めることもできない。自分には、助けを呼べる人間など、世界にただの一人も存在しなかった。
冷たい。
フローリングの床が、死ぬほど冷たかった。
爪が剥がれるほど床を掻きむしり、涙と涎で顔を濡らしながら、薄暗い天井を見つめていた。
あんなに稼いだのに。
数億円、数十億円の金を動かし、男たちを手玉に取って勝ち誇っていたのに。
死ぬ時は、こんな埃まみれの床の上で、誰にも看取られず、誰からも名前を呼ばれず、たった一人で、ゴミのように死んでいく。
『……寒い……誰か……助けて……』
声にならなかった最期の呟き。
心臓が止まり、永遠の暗闇へと沈んでいった、あの絶対の孤独の冷たさ――。
「――っ、ひ、ぃっ……!!」
ルチアの唇から、引き裂かれるような悲鳴が漏れた。
現実の感覚が戻ってきた瞬間、彼女の膝は耐え切れずに崩れ落ちていた。
ドサリ、と大理石の床に両膝を打ち付ける。
激しい過呼吸。
酸素を求めて口を大きく開けても、肺に空気が全く入ってこない。
喉が張り付き、気道が塞がれているかのように、ヒューヒューと掠れた音だけが漏れ出る。
「はっ……ぁっ……げほっ……!」
胸が痛い。
前世で心不全を起こした時と、寸分違わぬ激痛が胸部を締め上げる。
ルチアは純白のモスリンドレスの胸元を、自らの爪で引き裂かんばかりの力で掻きむしった。
手足の先から、急速に血の気が引いていく。
氷のように冷たくなった指先が、ガタガタと痙攣して止まらない。
(息が……できない……っ!
いや……嫌だ……! また、あの部屋だ……!
誰もいない……誰も助けてくれない……!
父も……クラリスも……オスカー様も……みんな、私の金と才能しか見ていない……!
私が化け物だと知ったら……用が済んだら……また私を捨てて消えてしまう……!!)
恐怖。
論理も、理性も、前世の知性も、すべてがパニック発作の暗黒の津波に飲み込まれていく。
どれほど金を積み上げても、どれほど完璧な契約書を書いても、あの冷たい床の感触だけが、永遠に自分を追いかけてくる。
逃げなければならない。
ここにいてはならない。
ルチアは震える手で冷たい壁にすがりつき、よろめく足取りで立ち上がった。
視界は白く明滅し、平衡感覚は完全に崩壊していた。
壁に肩を何度も打ち付け、純白のドレスの裾を踏み躙りながら、彼女は逃げるように貴族院の回廊を駆け出した。
貴族院の巨大な車寄せの扉を突き破るようにして外へ飛び出した瞬間――。
ザァァァァァァッッッ!!
空を切り裂くような轟音とともに、氷のような豪雨がルチアの頭上へと叩きつけられた。
いつの間にか、王都の空は真昼だというのに夜のように暗転し、鉛色の雲が猛烈な土砂降りを降らせていたのだ。
「あっ……!」
傘など、持っているはずもなかった。
一歩踏み出した瞬間、冷たい大粒の雨が、ルチアの艶やかな黒髪を無慈悲に濡らし、顔を打ち据えた。
純白のモスリンドレスが、瞬く間に雨水を吸い上げて鉛のように重くなる。
足元は泥水で溢れ返っていた。
靴が泥濘に足を取られ、ルチアは無様に石畳へと倒れ込んだ。
ビシャッ、と跳ね上がった茶色い泥水が、彼女の顔と、胸元の清らかな白を無残に汚していく。
「う……あ、あぁ……っ」
泥水の中に手をつき、ルチアは荒い息を吐いた。
雨水が睫毛を濡らし、視界を塞ぐ。
通りを行き交う辻馬車や歩行者たちが、泥まみれで倒れ伏す令嬢の姿を怪訝そうに見つめて通り過ぎていく。
誰も、傘を差し伸べてなどくれない。
誰も、声をかけてなどくれない。
(ほら……見てごらんよ、玲奈。
お前は結局、一人なんだ。
誰も、お前なんかのことを見ちゃいない。
お前が泥水をすすって死んだって、世界は何事もなかったかのように回っていくだけだ――)
脳裏に響く、前世の亡霊の嘲笑。
ルチアは泥に爪を立て、震える膝に力を込めて、再び立ち上がった。
どこへ行くのか。
どこへ逃げればいいのか。
グラナート商会の本店か? ――嫌だ、あそこには妹がいる。クラリスに、こんな無様で壊れかけた自分を見せるわけにはいかない。
下町の安宿か? ――嫌だ、あんな薄暗い一人きりの部屋に入ったら、今度こそ二度と息ができなくなって死んでしまう。
思考は完全に混濁していた。
だというのに――泥水に足を取られ、ずぶ濡れになりながら、ルチアの震える足は、迷うことなく一定の方角へと向かって進んでいた。
冷たい雨が体温を容赦なく奪っていく。
唇は紫色に凍りつき、胸の激痛は治まらない。
視界の端が暗くなり、意識が朦朧としていく中で――彼女の魂が、無意識のうちに求めていた唯一の場所。
手袋越しに伝わってきた、あの狂おしいほど熱い鼓動。
「俺の全財産でお前を買い取ってやる」と、自らの破滅すら厭わずに抱きしめてくれた、あの理不尽で狂気じみた温もり――。
豪雨のカーテンの向こう。
王都の官庁街の奥深くにそびえ立つ、漆黒の公爵邸の門扉が、霞む視界の先に微かに見え始めていた。
泥水に足をとられ、壁にすがりつきながら、ルチアの紫紺の瞳から、雨水に混じって熱い涙がとめどなく零れ落ちていた。
その震える唇から漏れ出たのは――前世から抱え続けてきた、魂の底からの悲鳴。
「息が、できない……。どれだけ金を積み上げても、私はまた……あの冷たい床の上で一人で死ぬの……?」
土砂降りの雨の音が、少女の掠れた呟きを無慈悲にかき消していった。




