第32話:査問委員会の招集
石造りのドーム天井から落ちる蝋燭の光は、まるで冷たい地下墓地のように青白く濁っていた。
王都貴族院の最深部に位置する『特別査問法廷』。
通常の民事裁判や刑事裁判とは異なり、王国の特権階級の秩序を乱した重罪人を非公開で審問し、社会的抹殺を宣告するために設けられた私刑の密室。
すり鉢状にせり上がる傍聴席を埋め尽くしていたのは、ロベルト・デュラン公爵の息のかかった守旧派貴族やその取り巻きたちだった。彼らは手にした扇子や杖を弄びながら、獲物を待ち受ける闘技場の観客のように、嗜虐的な笑みを浮かべて法廷の中央を見下ろしていた。
「……ふん、いよいよあの小娘の年貢の納め時だな」
「身の程知らずにも王室御用達を鼻にかけ、我ら貴族院の権威に泥を塗った報いよ」
「オスカー公爵の監査権限も停止された今、あの娘を庇う盾など社交界のどこにも存在せん。今宵のうちに全財産を没収し、地下牢へ叩き込んでくれるわ」
嘲笑と囁きが、冷たい石壁に反響する。
壇上に並ぶ五名の査問官たちは、皆一様に白髪を厳格に撫で付けた老貴族たちであり、その胸元にはロベルト公爵派閥の結束を示す真紅の薔薇の記章が誇らしげに留められていた。彼らにとって、この査問会は真実を明らかにする場などではない。最初から「有罪」という結論を押し付け、グラナート家の利権を根こそぎ奪い取るための形式的な儀式に過ぎなかったのだ。
「――被告、グラナート子爵令嬢ルチア・フォン・グラナート、入廷!」
廷吏の厳めしい怒号が、重々しい鉄の扉の軋みとともに響き渡った。
傍聴席の貴族たちが一斉に身を乗り出す。
怯え、震え、衛兵に両脇を抱えられて引きずり出されてくる無様な没落令嬢の姿を誰もが期待していた。
――しかし。
カツン、カツン、カツン。
静まり返った法廷に響いたのは、あまりにも規則正しく、軽やかな靴音だった。
扉の向こうから歩み出てきたのは、衛兵の付き添いすら連れていない、たった一人の少女だった。
「……っ!?」
傍聴席から、小さく息を呑む音が漏れた。
ルチアが身に纏っていたのは、罪人の着るべき粗末な服などでは断じてなかった。
汚れ一つない、眩いばかりの純白のモスリンドレス。胸元には一切の宝石を排し、ただ凛とした白磁の首筋と、夜空を切り取ったかのような濡れ羽色の黒髪だけが際立っている。
背筋は天に向かって一本の糸で吊り上げられているかのように垂直に伸び、顎を引き、薄い唇には微かな余裕の笑みすら湛えている。
その佇まいは、裁きを受ける罪人などではなかった。自らの領地を視察に訪れた若き女王そのものだった。
(……相変わらず、趣味の悪い法廷ですこと)
ルチアは内心で冷ややかに毒づきながら、法廷の中央、証言台の前に立ち止まった。
壇上の主席査問官――ロベルト卿の腹心である老伯爵が、不快そうに眉をひそめ、木槌を激しく打ち鳴らす。
カーン――ッ!
「被告ルチア! 貴族院の神聖なる査問の場において、その不遜な態度は何事か! 自らの立場が分かっているのか!? 貴女は今、詐欺、恐喝、相場操縦、ならびに国家反逆の重大な容疑をかけられているのだぞ!」
「立場なら、重々弁えておりますわ、査問官閣下」
ルチアは涼やかな美声を響かせ、優雅に頭を下げた。
「神聖なる法の場であるなればこそ、一分の瑕疵もない無垢なる白を纏い、真実を証言するために参上いたしました。……どうぞ、審問をお始めになって?」
「……ええい、口の減らない小娘め!」
査問官は顔を真っ赤にして書類を乱暴に捲り、傍聴席の脇の証人控室へと鋭い視線を投げた。
「これより、被告ルチアの犯した悪辣なる詐術の数々を、被害者たちの生々しい証言によって白日の下に晒す! ――第一の証人、ユリアン・フォン・クライン前子爵令息、前へ!」
鉄格子の奥から、足を引きずるようにして現れたユリアンの姿に、法廷がざわめいた。
かつての軽薄な美男子の面影は微塵もなく、頬はこけ、目は血走り、憎悪と被害妄想に狂った獣のような形相でルチアを睨みつけている。
ユリアンは証人席の柵を両手で鷲掴みにし、唾を飛ばしながら叫び始めた。
「査問官閣下! 聞いてください! すべてはこの悪女の仕組んだ罠だったのです!」
「証人ユリアン、落ち着いて証言したまえ。貴公が被った被害の全貌を、余さず語るのだ」
査問官が満足げに頷く。ユリアンは勝ち誇ったようにルチアを指差した。
「あの日……モルガン伯爵邸の夜会で、この女は一人になった私に近づいてきました! 『ヴィヴィアン様と釣り合う大貴族になるための、王室直轄の南方新航路の特許手形がある』と甘い毒を耳打ちしてきたのです!
この女は、精巧に偽造された市場予測図表を見せつけ、『短期間で元手が五倍になる、一口だけ権利を譲ってあげる』と私を唆しました!
私は……元婚約者であったこの女の無邪気な笑顔を信じてしまった! その結果、クライン家の全資産と借入金、金貨千枚をあの手形に注ぎ込んでしまったのです!
直後に船団が座礁して手形が紙屑になったのも、すべてはこの女が裏で仕組んだ空売りによる相場操縦! 私は騙されたのです! この希代のペテン師に、我が一族のすべてを強奪されたのですッ!!」
ユリアンの悲痛な叫びに、傍聴席の守旧派貴族たちから「なんと卑劣な!」「死刑に処せ!」と怒号が飛ぶ。
査問官が冷笑を浮かべ、ルチアを見下ろした。
「被告ルチア、証人の証言に相違はあるか? 弁明があるなら聞いてやろう」
有罪を確信した査問官の嘲り。
だが――ルチアは小さく息を吐くと、手元に持っていた黒革の書類鞄を開けた。
そして、一枚の退色した羊皮紙を取り出し、高く掲げたのだ。
「弁明など必要ございませんわ。……客観的証拠が、すでにすべてを語っておりますもの」
「な……何だと?」
ルチアは凛とした声で、法廷の全員に聞こえるように朗々と読み上げ始めた。
「王都公証役場・登録番号四八二二号。『南方航路香料貿易出資持分譲渡契約書』の原本でございます。公証人の正規刻印、ならびに王立為替座の認証印が押された、完全なる公的文書ですわ」
ルチアの紫紺の瞳が、証人席で青ざめ始めたユリアンを冷酷に射抜いた。
「ユリアン様。あなたが『騙されて買わされた』と主張するこの契約書ですが……第一に、購入者名義をご覧くださいまし。ここにはあなたの個人名など一文字もございません。――『クライン子爵家・特別秘密運用口座』。あなたが実家の当主印を勝手に持ち出し、父親に無断で開設した裏口座から決済されておりますわね?」
「な……っ!? そ、それは……!」
「親の金を無断で持ち出した横領の事実はさておくとしても、問題は次ですわ」
ルチアは契約書の第4条を指先でトントンと叩いた。
「契約書第4条。『本取引は、外洋航海に伴う海難事故、天候異変、ならびに市場価格の変動リスクを内包する投機的契約であり、売主はいかなる元本保証も行わない。買主はすべての投資判断を自己の責任において行うものとする』。
そして、その直下にあるのは――ユリアン・フォン・クライン、あなた自身の流麗な直筆署名と、拇印による血判ですわ」
ルチアは冷笑を浮かべ、首を傾げてみせた。
「……ユリアン様? 名門貴族の跡取り息子ともあろう殿方が、ご自身の直筆でサインした契約書の条項も読めないほど、文字がお不自由でいらっしゃったのかしら?」
「ぐ……っ! う、うわあああっ!」
ユリアンの顔面が、恥辱と恐怖で真っ赤に沸騰した。
「だ、騙したんだ! お前が『絶対に損はさせない』と口頭で言ったんだ! 詐欺だ! 詐欺に決まっている!!」
「口頭ですって?」
ルチアの声が、氷点下へと叩き落とされた。
「王国民法第12条第3項。『公証人の認証を受けた書面契約が存在する場合、口頭による事前のやり取りはいかなる法的拘束力も持たず、書面条項が絶対優先される』。
法学を修めた貴族であれば誰でも知っている基礎中の基礎ですわ。
さらに言えば――香料船団が座礁したのは、南方沖合で発生した季節外れの巨大台風による不可抗力。天候を私が意図して操ったとでもおっしゃるおつもり? 私を魔女裁判にでもかける気かしら?」
「あ……あ、あ……」
ユリアンの喉から、引き攣った空気の音が漏れた。
反論できない。
契約書には一分の隙もなく「自己責任の投機」と明記されており、ルチア自身は手形の売主ですらなく単なる「仲介の紹介者」として署名されている。
すべては、自らの見栄と強欲に目が眩み、親の金を無断で持ち出して破滅的なギャンブルに全財産を突っ込んだ男の、完全なる自滅。
「み、見苦しいぞ、ユリアン! 下がれ!」
査問官が慌てて木槌を叩き、泡を吹いてへたり込んだユリアンを衛兵に引きずり出させた。
傍聴席の貴族たちから、ヒソヒソと冷ややかな失笑が漏れ始める。
第一の弾丸は、ルチアの鉄壁の法的防壁の前に、触れた瞬間粉々に砕け散ったのだ。
「……ええい、静粛に! 次だ! 第二の証人、カール・バルツァー前へ!」
査問官が焦りを隠せずに怒鳴った。
証人席に進み出た高利貸しのカールは、先ほどのユリアンの無様な自爆を目の当たりにして激しく動揺していたが、ロベルト卿への恐れから、必死になって被害者の仮面を張り直した。
「さ、査問官様……! ユリアン様の件はともかく、私の件は明白な強迫行為でございます!
私は正当な借金の取り立てのため、グラナート邸を訪れました。
しかし被告ルチアは、屈強な私兵を背後に潜ませ、『返済を免除しなければ、貴族院のパトロンを使ってお前の商会を焼き払ってやる』と私を密室で脅迫したのです!
命の危険を感じた私は、やむを得ず金貨三百枚の借用書を暖炉で焼かされ、さらに金貨二百枚の手形を無理やり書かされました! 刑法第88条における『脅迫による財物交付』そのものでございます!!」
涙ながらの熱演。
密室での会話であれば、言った言わないの水掛け論に持ち込める――それがカールの、そしてロベルト卿の計算だった。
だが――ルチア・フォン・グラナートの唇に浮かんだのは、心底から哀れむような嘲笑だった。
「脅迫、ですか。……バルツァーさん、嘘を吐くにしても、もう少し頭をお使いになればよろしいのに」
「な、何だと!? 嘘など吐いていない! 私は脅された被害者だ!」
「では、お尋ねいたしますわ」
ルチアは鞄から、もう一束の分厚い書類を取り出した。
王立中央為替座の公式取引ログ、ならびに王都警邏隊の公的な業務日誌の写しだった。
「あなたが我が家で金貨二百枚の投資手形にサインなさったのは、先月七日の午後二時。……そして、その手形が王都中央為替座で現金化されたのは、同日午後四時十五分でしたわね?」
「そ、それがどうした! 脅されて書かされた手形が決済されただけの話だ!」
「ええ。不可解なのは、その直後のあなたの行動ですわ」
ルチアは警邏隊の日誌の一節を、指先で弾いた。
「同日午後五時三十分。王都歓楽街の裏路地、地下非合法カジノ『黄金の蠍亭』。
そこに、手形を現金化したばかりのカール・バルツァー氏が、満面の笑みで現れ、シャンパンのボトルを三本抜き、ルーレットの特等席で金貨百枚を一晩で溶かしたという記録がございます。……さらに、同席していた愛人に『近々、貴族院の御用商人になって大儲けできるから、借金など端した金だ』と自慢していたという、複数の証言ログ付きでね」
「ひっ……!?」
カールの顔から、潮が引くように血の気が引いていった。
額から噴き出した脂汗が、ボタボタと床を濡らす。
「おかしな話ですわね、バルツァーさん」
ルチアは一歩、証人席へと歩み寄った。
その瞳は、逃げ惑うネズミを追い詰める毒蛇のように冷徹だった。
「命の危険を感じるほどの恐ろしい脅迫を受け、全財産を奪われて怯えていたはずの哀れな被害者が……なぜ、そのわずか一時間後に、鼻の下を伸ばして非合法カジノで豪遊し、高級酒を煽って女に大盤振る舞いできるのかしら?
脅迫された人間が取る行動としては、あまりにもアグレッシブで、あまりにも享楽的すぎると思いませんこと?」
「あ……あ、あれは……その、気を紛らわせるために……!」
「往生際が悪いこと」
ルチアは手元の投資契約書を突きつけた。
「あなたがサインしたのは、脅迫による借用書の破棄ではありませんわ。『グラナート家が王都社交界に進出するにあたり、将来の優先取引権を獲得するための合意出資契約』。
民法第8条における『正当な投資契約および対価を伴う合意解約』です。
出資によって貴族院へのパイプを得ようと自ら欲をかき、浮かれて裏カジノで金を使い果たした挙句、今になって『脅迫された』と泣きつく……。
バルツァーさん。虚偽告訴罪、ならびに法廷侮辱罪の法定刑が何年か、ご存知かしら?」
「う……うわああああっ! 違う、私は公爵閣下に頼まれて……閣下が借金を帳消しにしてやると言ったからァッ!!」
パニックに陥ったカールが、叫んではならない禁句を口走った。
ドォンッ!!
法廷が、静まり返った。
ロベルト公爵の名を叫びかけたカールの口を、慌てて衛兵が力任せに塞ぎ、法廷の外へと引きずり出していく。
傍聴席の貴族たちは完全に言葉を失い、顔を見合わせ、やがて噴き出すような嘲笑の波が法廷を満たしていった。
「なんだ、あれは……」
「公爵に頼まれただと? 偽証を仕組んだのは貴族院の方ではないか」
「完全な狂言告発だな。証拠も契約書も、グラナート令嬢の言っていることの方が完全に筋が通っている」
風向きは、完全に変わっていた。
リーガル・ハラスメントという名の巨大な津波は、ルチアが用意した「完璧な合法契約書」と「客観的データ」という防波堤の前に、一滴の飛沫すら届かずに弾き返されたのだ。
「査問官閣下」
ルチアは書類を鞄へと仕舞い、壇上の主席査問官へと視線を戻した。
その声は、静かで、凛としており、法廷の隅々にまで染み渡るような絶対の威厳を放っていた。
「私のすべての取引は、現行民法に完全に準拠した『正当な契約に基づく投資と合法的な贈与』でございます。
相手が自らの見栄で契約書にサインし、相手が自らの強欲で破滅した結果を、私の罪に着せ替えることなど、王国のいかなる法を以ても不可能ですわ。
……いかがかしら? これ以上、この茶番劇を続ける理由がおありですの?」
壇上の査問官たちは、顔面を蒼白にして震えていた。
反論の余地など、一文字たりとも残されていなかった。
ここで無理やり有罪の判決を下せば、王立為替座の公的記録や民法の条文を貴族院が公然と無視したことになり、王室や司法省から貴族院の権威そのものを問われかねない。
ロベルト公爵の命令とはいえ、自らの首を賭けてまでルチアを有罪にすることは、保身に塗れた老貴族たちには不可能だった。
ガタガタと震える手で、主席査問官が木槌を握り直す。
そして――敗北の宣告が、法廷に響き渡った。
「……こ、告発状に記載された嫌疑は、証拠不十分につき……すべて、却下とする! 被告ルチア・フォン・グラナートの無罪を宣言し……本査問会を、即刻閉廷とする!!」
カーン――ッ!
木槌が鳴り響いた瞬間、傍聴席から割れんばかりのざわめきが爆発した。
完全無欠の合法性の証明。
国家権力が仕掛けた最大の罠を、たった一人の十八歳の令嬢が、その圧倒的な知性と論理の力だけで完膚なきまでに叩き潰した瞬間だった。
退廷の扉が開かれる。
ルチアは誰に促されることもなく、優雅に背筋を伸ばして歩み出した。
その背中に、悔しさに顔を歪める査問官たちの視線が突き刺さる。
ルチアは扉の前でふと立ち止まり、振り返ることなく、法廷の全員に向けて、氷のように冷徹な一言を投げかけた。
「愚かさを他人の罪に着せ替える前に、ご自身の署名の重さを学び直してはいかが?」
完璧な勝利。
だが――法廷の外、冷たい大理石の回廊へと足を踏み出したルチアを待ち受けていたのは、さらなる暗雲だった。
薄暗い回廊の柱の影から、静かに姿を現した一人の老貴族――ロベルト・デュラン公爵の濁った瞳が、獲物を屠る毒の牙を光らせて、ルチアの行く手を阻んでいたのだから。




