第31話:ロベルト卿の反撃
天を衝く石造りの円柱が立ち並ぶ、王都貴族院の大議場。
数百本の蜜蝋の蝋燭が灯る巨大なシャンデリアの下、扇形に広がる赤絨毯の議席は、二百名を超える特権階級の貴族たちで埋め尽くされていた。
普段ならば退屈そうに居眠りをし、形式的な法案審議を繰り返すだけの老貴族たちが、今宵ばかりは異様な熱気に目を血走らせ、議場全体を地鳴りのような怒号とざわめきで満たしていた。
壇上の中央、黄金の獅子の紋章が彫り込まれた演台。
そこに立っていたのは、深紅の毛皮付きガウンを羽織り、白銀の指揮杖を力強く演壇へと叩きつける一人の老公爵――貴族院予算委員長、ロベルト・デュランその人だった。
「静粛に! 静粛にせい、諸君ッ!!」
ドォン、と重々しい樫木の槌音が響き渡る。
ロベルト卿の鋭く窪んだ灰色の双眸が、議場を埋める同胞たちを薙ぎ払うように射抜いた。
五十二歳。前王の時代から三十年にわたり王国の予算配分と既得権益の頂点に君臨してきた男の顔には、一分の焦燥も浮かんでいない。
だが――その内心の裏側では、冷徹極まる危機管理の計算機が、警報を鳴り響かせていた。
(……小娘が、小賢しい真似を)
ロベルト卿は、自らの手元にある一枚の極秘報告書に爪を立てていた。
為替座の地下で、セレーナ・ハイドが複数のダミー口座を駆使して進めていた『デュラン傘下の約束手形の買い集め』。
常人であれば満期日まで気づかないはずのステルス買収だったが、長年市場の裏金を差配してきた老公爵の嗅覚は、市場のわずかな歪み――自派閥の手形が、不自然なほど静かに、一定の価格で吸い上げられている異常事態を、間一髪のところで嗅ぎ取っていたのだ。
相手の狙いは明白だ。手形を満期日に一括請求し、手元の現金を枯渇させて連鎖破綻に追い込む敵対的買収。
だが――百戦錬磨の老獪な権力者が、自ら敷かれたレールの上でおとなしくチェックメイトを受け入れるはずがなかった。
経済の土俵で包囲されかけたのなら、自らが最も得意とする『法と政治の暴力』という上位の土俵から、相手の盤面そのものを叩き潰せばよい。
防衛買収の網が完全に絞り切られる前に、先手を打って敵の息の根を止める――国家権力を総動員した、冷酷無比な奇襲攻撃だった。
「諸君! 今、この王国を揺るがしている未曾有の病巣について、私は断腸の思いで告発せねばならぬ!」
ロベルト卿は両手を広げ、悲痛と義憤に満ちた朗々たる美声を議場いっぱいに響かせた。
老練な扇動者特有の、民衆の感情を自在に操る劇場型の演説。
「我が王国の伝統と公序良俗は、今や一人の不埒な悪女の手によって、泥沼へと引きずり落とされようとしている!
東方の貧しき寒村、グラナート子爵家の長女――ルチア・フォン・グラナート!
この娘は、自らの美貌と甘言、そして悪魔のような詐術を弄し、善良なる貴族や商人を次々と罠に嵌め、破滅へと追いやった!
先日のモルガン伯爵邸の夜会におけるクライン子爵家の悲劇! そして、由緒正しきベルンハルト侯爵家の家督を奪い去ったサロンの狂乱!
これらはすべて、あの娘が背後で周到に仕組んだ、不法なる詐欺と脅迫の連鎖であったのだ!!」
ドォッ、と議場が揺れた。
守旧派の貴族たちが立ち上がり、机を叩いて同調の声を上げる。
「そうだ! 名門侯爵家を平民へ落とすなど、前代未聞の暴挙だ!」
「田舎の貧乏娘が、王室御用達の看板を笠に着て暴利を貪っているぞ!」
「国家の秩序を乱す毒蛇を野放しにしておくのか!!」
怒号の波が最高潮に達した瞬間、ロベルト卿は満足げに口元を歪め、壇上の脇へと手を差し伸べた。
「諸君、静まりたまえ! ここに、その悪魔の毒牙にかかり、すべてを奪われ、絶望の淵から命からがら逃れてきた哀れなる『被害者たち』を招いている!」
議場の重厚な扉が開かれた。
衛兵に先導され、壇上へと歩み出てきた二つの影を目にした瞬間、傍聴席の貴族たちから大きなどよめきが漏れた。
一人目は――カール・バルツァー。
かつて王都の歓楽街で弱者を食い物にしていた悪徳高利貸し「バルツァー商会」の代表。
だが、今の彼に、かつての横柄で下品な金貸しの面影はなかった。
擦り切れた地味な平民服を身に纏い、手首には痛々しい包帯を巻き、怯えた小動物のように肩を縮めて涙を拭っている。
「か、カール・バルツァーでございます……」
カールは演壇の前で膝をつき、震える声で哀願するように語り始めた。
「私は……王都で誠実に商売を営んできた、ただの市井の商人に過ぎませんでした……。あの日、グラナート邸へ正当な債権の返済猶予の相談に伺っただけなのです……。
それなのに……あのルチア様は、裏の犯罪組織との繋がりを仄めかし、『私に逆らえば王都で生きていけなくしてやる』と私を密室で脅迫いたしました……!
私は恐怖のあまり、命惜しさに……グラナート家の借用書を暖炉に放り込まされ、あまつさえ、商会の運転資金であった金貨二百枚の為替手形を……無理やり、血の涙を流しながら署名させられたのです……!
すべては脅迫による強要でございました! どうか……どうか、奪われた私の財産をお返しくださいまし……!」
ハンカチに顔を埋めて号泣するカールの姿に、議場から同情と怒りのざわめきが湧き起こる。
裏カジノで負けが込み、社交界のパイプ欲しさに自ら納得して投資契約に判を押した過去など、跡形もなく消去されていた。
ロベルト卿から「偽証に協力すれば、商会の借金を全額帳消しにし、貴族院御用達の商人の鑑札を与えてやる」と甘言を囁かれ、完璧な被害者を演じ切っていたのだ。
だが――会場を真に沸騰させたのは、二人目の男だった。
「……ユリアン・フォン・クラインでございます」
壇上に現れた青年の姿に、貴族たちは息を呑んだ。
かつて社交界で軽薄な伊達男として名を馳せていたクライン子爵家の嫡男。
だが、今のユリアンは、頬が削げ落ち、目の下には黒々とした隈が刻まれ、安物の古着の上着を羽織った幽鬼のような姿に成り果てていた。
モルガン邸で全財産を失い、借金まみれとなって社交界を追放された男。
ロベルト卿の部下に裏路地で拾われ、「ルチアを法的に破滅させれば、クライン家の負債を肩代わりし、爵位を回復させてやる」と吹き込まれた男の瞳には、かつての元婚約者への狂気じみた怨嗟の炎が燃え盛っていた。
「私は……愛していたのです。没落したルチアを、最後まで救ってやりたいと願っておりました……!」
ユリアンは壇上の手すりを両手で鷲掴みにし、血を吐くような絶叫を議場へと叩きつけた。
「ですが、あの女は私の純情を弄びました! 『ヴィヴィアン様に見合う男になるため』と甘い言葉で私を誘惑し、偽造された海軍の認可印と、精巧に細工された架空の相場図表を見せつけ、絶対に儲かるという『南方新航路の特許手形』を売りつけてきたのです!
あの女の嘘を信じた私は……クライン家の全資産、先祖伝来の領地、屋敷のすべてを抵当に入れ、金貨千枚をあの女のダミー商会へ注ぎ込んでしまいました……!
直後に船団が座礁したと知らされた時、すべてはあの女が裏で仕組んだ空売り詐欺であったと知ったのです! 我が一族の歴史は、あの女の卑劣な詐術によって、一夜にして灰燼に帰しました!!」
ユリアンは懐から、震える手で一枚の告発状を取り出し、演壇へと叩きつけた。
「ここに、グラナート子爵令嬢ルチアを、組織的詐欺、公文書偽造、ならびに不法占有の重罪で公式に告訴いたします! どうか、我が一族の無念を晴らしてくださいッ!!」
ドガァァァンッッ!!
議場が、怒りの地鳴りによって爆発した。
二百名の貴族たちが総立ちとなり、拳を振り上げて叫ぶ。
「許し難い! 万死に値する希代の悪女だ!」
「即座に身柄を拘束しろ! グラナート家を改易に処せ!」
「法の裁きを下せ!!」
完璧な世論の醸成。
ロベルト卿は冷笑を押し殺しながら、手にした指揮杖を高らかに振り上げた。
「諸君の怒りはもっともである! ゆえに、貴族院予算委員会および司法委員会は、緊急動議を発議する!
第一に――財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵に対する『監査権限の一時停止』である!」
ピシリ、と空気が凍りついた。
「オスカー公爵は、このペテン師ルチアと結託し、職権を濫用して不正な捜査を主導した強い嫌疑がある! 真実が明らかになるまでの間、財務卿の全決済権限、ならびに財務省監査部隊の指揮権を一時凍結とする!」
満場一致の拍手。
オスカーの手足を縛る、鉄壁の法的包囲網。
財務卿の権限が停止されれば、前夜に押収したロベルト卿の裏帳簿を公的に提出することも、財務省の武力でグラナート家を庇護することも不可能となる。
「そして――第二に!」
ロベルト卿の灰色の瞳が、獰猛な毒蛇の光を放った。
「グラナート子爵令嬢ルチアに対し、国家反逆および重罪詐欺の嫌疑に基づく『貴族院特別査問会』への緊急出頭命令を発出する!
もし、明朝の審問に応じぬ場合、あるいは逃亡を図った場合は――即刻、グラナート子爵家を改易とし、全領地の没収、ならびに一族全員を国家反逆罪として指名手配に処す!!」
カーン、カーン、カーン――ッ!
真鍮の槌音が三度打ち鳴らされ、法的な死刑宣告が確定した。
演壇の影で、カールとユリアンが下卑た復讐の笑みを浮かべ、ロベルト卿は勝ち誇った眼差しで天井を見上げていた。
リーガル・ハラスメント(法的手続きの武器化)――。
勝訴の確証など、最初から必要ないのだ。
「重大な犯罪容疑で公式に告発された」という事実そのものを社会的に作り出し、大々的に報道させること。
それだけで、グラナート商会の信用は一瞬で地に堕ち、提携銀行は取引を打ち切り、取引先は一斉に債権の即時回収に殺到する。
裁判で白黒がつく前に、相手の経済的生命線を風評被害の津波で完全に窒息死させる――特権階級にのみ許された、最も卑劣で、最も有効な政治的暗殺術だった。
同刻。王都中央大通り、グラナート商会本店の三階応接室。
バタンッ! と乱暴に扉が開き、息を切らしたエミリアが転がり込んできた。
「お、お嬢様……! 大変です! 大変なことになりました……!」
エミリアの顔は蒼白を通り越し、土気色に染まっていた。
その手には、先ほど貴族院の武装衛兵によって店のカウンターへと叩きつけられた、真紅の封蝋が施された羊皮紙――重罪人を対象とする『貴族院特別査問会・緊急召喚状』が握られていた。
部屋の中には、すでに王都の不穏な空気を察知して集まっていたクラリスとセレーナの姿があった。
クラリスが召喚状をひったくるように受け取り、文面を目にした瞬間、その華奢な身体が激しく震えた。
「な……何ですの、これは……!?
『不法な詐欺および恐喝による資金調達の嫌疑』……!?
証人として、カール・バルツァーとユリアン・フォン・クラインの告発状が添付されていますわ!
さらに……明朝の査問会に出頭せねば、グラナート家は即座に改易、領地は全没収ですって……!?」
「それだけじゃないわ、クラリスちゃん」
セレーナが苦々しく吐き捨て、窓の外を指差した。
硝子窓の下、大通りを見下ろすと――先ほどまで『白銀の霧』やウイスキーを求めて長蛇の列を作っていた貴族や大商人たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。
代わりに押し寄せていたのは、青ざめた顔で手形の換金を要求する仕入れ先商人たちの怒号。
「為替座のフロアにも、すでに貴族院の公式告発の号外がばら撒かれたわ。
『グラナート商会は詐欺グループの隠れ蓑』『手形はすべて紙屑になる』って噂が一瞬で広がって……市場のブローカーたちがパニック売りを起こしている。
このままじゃ、私たちが買い集めているデュラン派の手形以前に、グラナート商会の信用そのものが今夜中に吹き飛ぶわよ……!」
「そんな……! 酷すぎますわ……!」
クラリスが膝から崩れ落ちそうになり、机の手すりに縋り付いた。眼鏡の奥の瞳に、絶望の涙が滲む。
「カールもユリアンも、自分たちの強欲と見栄で自滅しただけではありませんか! それを、被害者の面をして偽証するなんて……!
しかも、査問官は全員がロベルト公爵の息のかかった守旧派貴族ばかり……。こんなの、裁判ですらありませんわ! 姉様を罠に嵌めて処刑するための、公開リンチの場です!」
「お嬢様、逃げてください……!」
エミリアがルチアの足元に縋り付いた。
「私の下町ルートを使えば、今夜のうちに国外へ逃れる馬車を手配できます! あんな査問会に出廷したら、何を言っても言い分など聞いてもらえず、その場で地下牢へ放り込まれてしまいます……!」
部屋を支配したのは、息の詰まるような絶望と焦燥だった。
築き上げた富も、名誉も、領地の未来も、国家権力の理不尽な一撃によって、すべてが足元から崩壊しようとしていた。
――しかし。
パチン。
静寂を破り、軽やかな音が響いた。
応接ソファの中央に座っていたルチア・フォン・グラナートが、手にした召喚状を、自らの白磁の指先で優雅に弾いた音だった。
「……え?」
クラリスが、エミリアが、セレーナが、一斉に顔を上げた。
そこにいたのは――絶望に震える令嬢の姿などではなかった。
純白のモスリンドレスの裾を優雅に整え、背筋を凛と伸ばしたルチア。
手にしたカモミールティーのカップを静かに口元へ運び、喉を鳴らして一口含む。
そして――伏せられた長い睫毛をゆっくりと持ち上げたその紫紺の瞳には、一切の恐怖も動揺も宿っていなかった。
宿っていたのは、前世――数多の巨大権力者たちを手玉に取り、警察組織の包囲網すら嘲笑い続けてきた伝説の結婚詐欺師、一条玲奈の絶対零度の冷笑。
「……ふふ」
鈴の音のように澄んだ、蠱惑的な笑い声が部屋を満たした。
「逃げる? この私が? ……なぜ、この私が逃げ出さなくてはなりませんの、エミリア?」
「だ、ですがお嬢様、相手は貴族院の全権力ですよ!? 偽証者を揃えて、最初からお嬢様を有罪にする気満々なんです!」
「ええ、知っているわ」
ルチアは立ち上がり、机の上に広げられた召喚状の文面を、愛おしそうに指先でなぞった。
「落ち目の悪徳高利貸しに、借金まみれの哀れな元婚約者。……自らの頭で考える知性もなく、他人の甘言に乗せられて尻尾を振るしか能のない負け犬たち。
ロベルト公爵も、ずいぶんと焼きが回ったものですわね。私を潰すために掻き集めてきた弾丸が、たかだかそんな腐りかけのゴミ屑だなんて」
ルチアの唇が、妖艶な弧を描いた。
「ロベルト公爵は、自らが仕掛けたリーガル・ハラスメントで、私を恐怖に陥れたつもりでいるのでしょうけれど……。
あの古狸は、決定的な事実を一つ、見落としていますわ」
「決定的な、事実……?」
クラリスが呆然と呟く。
ルチアは窓辺へと歩み寄り、王都の青空の彼方――天を突く貴族院の重厚な議場を見据えた。
その双眸に宿るのは、獲物を解体する瞬間の、冷酷無比な捕食者の輝き。
「私はね、クラリス。
カール・バルツァーと契約を交わしたあの日から、ユリアンに南方手形を売り渡したあの夜に至るまで――ただの一度も、法に触れる嘘の誓約書など書いてはおりませんのよ」
ピシリ、と部屋の空気が張り詰めた。
「相手の強欲と見栄を利用し、相手自らの自由意志で、相手自らの手でサインさせた完全無欠の契約書。
客観的な証拠、為替座の取引ログ、そして民法の条文……それらすべてが、私の『完全な無実』を証明する鉄壁の盾として、最初から完璧に設計されているわ。
感情論と嘘八百で塗り固めた偽証など、客観的証拠の光を一筋当てるだけで、一瞬にして消し飛ぶ朝露に過ぎません」
ルチアは振り返り、震える妹とメイド、そして為替ディーラーへ向けて、息を呑むほど美しい、圧倒的な自信に満ちた微笑みを投げかけた。
「落ち目の男たちを掻き集めてのお遊戯会ですこと。……喜んで、舞台に上がって差し上げますわ」
彼女は召喚状を優雅に宙へと放り投げた。
舞い散る羊皮紙を見下ろしながら、ルチアの唇から紡ぎ出されたのは――傲慢な権力者と負け犬どもへの、痛烈なる死刑宣告。
「負け犬を何匹集めたところで、聞こえてくるのは見苦しい遠吠えだけでしてよ」
貴族院特別査問会。
百戦錬磨の老貴族たちが待ち受ける公開処刑の法廷へと、稀代の悪女は今――単身、その優雅な足取りで乗り込もうとしていた。




