第38話:強欲の餌食
――カァァァンッ、カァァァンッ、カァァァンッ!!
王都中央為替座の大取引所に、取引開始の合図を告げる真鍮の鐘の音が鳴り響いた。
天井の巨大な採光窓から差し込む朝の光は、無数の人間の吐息と埃によって白く濁り、すり鉢状に広がる円形フロア(ピット)をまるで熱病の巣窟のように照らし出している。
普段ならば、為替ディーラーたちが手元の計算板と帳簿を冷静に突き合わせ、静かな駆け引きを行う知性の殿堂。
だが今宵――いや、ここ数日の為替座を支配していたのは、理性の光などでは断じてなかった。
それは、剥き出しの強欲と、他人に富を奪われまいとする焦燥感に脳を焼かれた人間たちが放つ、動物的な絶叫と狂乱の渦だった。
「買え! 出ている枠をすべて買い取れ!!」
「指値など気にするな、成り行きで買い上がれと言っているんだ!」
「百二十枚だ! いや、百三十枚出す! 売ってくれ、誰でもいいからその証書を寄越せェッ!!」
フロアの中央、黒板にチョークで書き殴られた『南部開発特務債券』の文字を取り囲むように、何百人もの取引仲買人や商会の番頭たちが押し合いへし合い、互いの服を掴み破らんばかりの勢いで腕を突き上げていた。
振られる無数の為替小切手、床に散らばる伝票の紙吹雪、飛び交う怒号。
貴族院予算委員長ロベルト・デュラン公爵の息のかかったダミー商会の手先たちが、我先にと群がっていたのだ。
その狂乱の発端は、ほんの四日前のことだった。
第37話において、財務省の屑籠から「意図的に漏洩された」大運河計画の見積書、そしてロベルト卿の愛人カミラの口から社交界へもたらされた「王宮の極秘債券枠」の噂。
そのインサイダー情報に完全に釣られたロベルト卿の手配により、為替座の闇市場へ、謎のブローカー(セレーナ・ハイドの操るダミー口座群)から、小口の『大陸横断・南部大運河先行開発債券』が極秘裏に市場へ供給され始めたのだ。
最初の額面価格は――金貨百枚。
一口で平民の家が二十軒建つ大金である。
だが、ロベルト派のブローカーたちが「オスカー公爵が正式発表する前に買い占めろ」と血眼になって買い上がった結果、価格は初日で百三十枚へ、二日目で百七十枚へ、そして四日目の今朝には――。
「……現在値、金貨二百五十枚ィィッ!! 成約ッ!!」
掲示板の黒板に、チョークで太く書き直された『250』の数字。
フロアから、地鳴りのような歓声と悲鳴が同時に爆発した。
わずか四日間で、資産価値が二・五倍に跳ね上がったのだ。
もはや、大運河が本当に掘削可能なのか、工事に何年かかるのか、採算が取れるのかといった実体経済の検証など、市場の誰一人として気に留めてはいなかった。
昨日買った者が今日には金貨数十枚の利益を確定させ、今日買った者が明日には大富豪になると信じ込んでいる。
ただ「他人が買っているから」「明日にはもっと値上がりするから」という理由だけで、紙切れに過ぎない債券の価格が天文学的に膨張していく――歴史が幾度となく繰り返してきた、バブル経済(チューリップ・マニア現象)の狂気そのものだった。
「……ふふ、見てごらんなさい。綺麗に火がついたわね」
為替座の二階、重厚な真鍮の手すりに囲まれた貴賓席の影。
冷涼な影の中に腰掛け、優雅にアイスティーのグラスを傾けていたのは、為替ディーラーのセレーナ・ハイドだった。
銀髪を揺らし、卓上の計算尺をカチャリと弾く。
彼女の目の前には、十数枚のダミー商会名義の取引台帳が並んでいた。
「私が市場に売りに出した債券、今朝の分もすべてロベルト派の息のかかった買い注文に吸収されたわ。……しかも、あいつら、価格を吊り上げれば吊り上げるほど、さらに狂ったように買い上がってくる。まさに教科書通りの『集団同調圧力』ね」
「FOMO――『取り残される恐怖(Fear Of Missing Out)』ですわね」
セレーナの隣に佇むルチア・フォン・グラナートが、静かに言葉を継いだ。
漆黒のショールを纏い、手すりの隙間からフロアの狂乱を見下ろすルチアの紫紺の瞳は、絶対零度の静寂を湛えていた。
人間は、他人が莫大な利益を上げている姿を目の当たりにした時、自らの理性を完全に失ってしまう。
「今すぐ買わなければ、自分だけが取り残されて損をする」「この歴史的な富の分配に乗り遅れれば、自分は一生の負け犬になる」――その原始的な恐怖と強欲が、貴族たちの正常な危機管理機能を完全に麻痺させていたのだ。
「最初はロベルト公爵直属の商会だけだった買い手も、今や貴族院予算委員会の派閥貴族たち、さらにはその取り巻きの商人たちまで雪崩れ込んできているわ。……彼らの資金調達の様子はどうかしら、クラリス?」
ルチアが背後を振り返ると、そこには分厚い資産目録の束を抱えた妹クラリスが立っていた。
十五歳の財務番頭は、眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせ、書類の一束を円卓の上へと置いた。
「姉様。ロベルト派の貴族たち、完全に正気を失っておりますわ」
クラリスの声には、侮蔑と呆れが混ざり合っていた。
「債券を買うための手持ちの現金が底をついた貴族たちは今、先祖伝来の領地、もっとも肥沃な穀倉地帯、王都の一等地にある別邸、果ては一族の誇りである家宝の絵画や鉱山に至るまで……すべてを抵当に入れて王立銀行や民間金融機関へ駆け込み、高利の借金を重ねて現金を掻き集めております。
彼らが投げ売り同然で担保に差し出した優良資産の手形……姉様のご指示通り、セレーナさんのダミー口座と我がグラナート商会の資金を使い、市場価格の四割引き、五割引きで裏からすべて買い叩いて取得しておりますわ」
クラリスが差し出した目録をめくれば、そこには王国の基幹産業を支える優良インフラの権利書が、ずらりと並んでいた。
東部の鉄鉱山、南部の不凍港の物流倉庫、王都近郊の広大な農地――。
ロベルト派の貴族たちは、実体のない紙切れのバブル債券を手に入れるため、自らの命綱たる本物の実物資産(富の源泉)を、自ら進んでグラナート家の掌の上へと差し出していたのだ。
「手元の実物資産をすべて差し出し、抱え込んだのは暴落すれば紙屑となる債券だけ……。彼らは今、自ら進んで首に縄をかけ、足元の台座を蹴り飛ばそうとしておりますわ」
「ええ。よくやってくれたわ、クラリス、セレーナ」
ルチアは満足げに頷いた。
だが、真の主役は、有象無象の派閥貴族たちではない。
この狂乱の震源地にあり、自ら国家の破滅的な賭け金のすべてを積み上げている、あの男の動向だった。
同刻。王都の一等地にそびえ立つ、重厚な要塞のようなデュラン公爵邸の最上階執務室。
「……はっはははは! 見ろ、これを見ろッ!!」
豪快で下卑た哄笑が、分厚い絨毯の部屋に響き渡っていた。
真紅の毛皮付きガウンを羽織ったロベルト・デュラン公爵は、最高級のヴィンテージ・ワインを満たしたクリスタルグラスを片手に、部屋の中央に山積みにされた木箱の山を見下ろしていた。
木箱の蓋はすべて開け放たれていた。
中にぎっしりと敷き詰められていたのは、金泥の縁取りが施された上質な羊皮紙の束――『大陸横断・南部大運河先行開発債券』の正式な証書だった。
その数、数百枚、数千枚。
部屋の壁際を埋め尽くすほどの債券の山が、暖炉の赤い炎を浴びて妖しく黄金色に輝いている。
「閣下! 本日の為替座の終値、金貨二百五十枚を突破いたしましたぞ!」
執務机の前に控えていた腹心の老伯爵が、擦り寄るように手を揉みながら歓声を上げた。
「買い占めた債券の総額面、すでに『金貨五万枚』を超えました! 我が派閥が市場に出回った先行債券の実に八割以上を完全に独占掌握しております!
正式発表前だというのに、すでに含み益だけで金貨数万枚の巨利……! 正式発表が行われ、工事が始まれば、一口五百枚、いや千枚に達するのは確実ですぞ!!」
「当然だ!」
ロベルト卿はワインを一気に飲み干し、空になったグラスを机へと叩きつけた。
その窪んだ灰色の双眸は、極度の万能感と傲慢な歓喜によって充血し、ぎらぎらと狂気の光を放っていた。
「見たか! これが、このロベルト・デュランの力だ!
オスカーの青二才め、監査権限を奪われて手足を縛られたまま、裏で皇太后と甘い汁を吸おうとしていたようだが……貴様らの企みなど、すべて私の掌の上だ!
市場の債券の過半数を我が派閥が握った今、運河の開削権も、通行税の徴収権も、すべて我が貴族院予算委員会のものとなる!
あの生意気なグラナートの小娘も、オスカーも……大運河の通行を乞うために、我が足元に這いつくばって頭を擦り付けるしかなくなるのだ!!」
ロベルト卿は立ち上がり、積み上がった債券の束の一つを鷲掴みにして高く掲げた。
先日の査問会での屈辱、グラナート商会への敗北による苛立ち――そのすべてが、目の前に積み上がった天文学的な富の数字によって、綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
自分は勝ったのだ。
王国の財布の真の主となったのだと、完全に信じ込んでいた。
――しかし。
この金貨五万枚という天文学的な軍資金を調達するために、ロベルト卿が何に手を染めたのか。
公爵自身の私財など、たかだか金貨一万枚程度に過ぎない。
残りの四万枚の黄金は、一体どこから湧き出たものなのか?
ロベルト卿の執務机の奥、重厚な鉄の金庫の扉は、今や半開きになっていた。
金庫の棚には、かつて厳重に保管されていたはずの、真紅の王室封蝋が施された公的書類の束が――無残にも空っぽになっていたのだ。
書類の表題は――『貴族院予算委員会・国家非常時秘密積立金』。
そう、ロベルト・デュランは、越えてはならない最後の一線を、完全に踏み越えていた。
手持ちの私財を使い果たし、傘下の貴族たちから資産を吸い上げてもなお足りない債券の買占め資金を補うため――彼は、前王の時代から貴族院が管理を任されていた、国家の国防予備費たる公金積立金『金貨二万枚』に手を付け、自らの独断で債券購入へと全額流用していたのだ。
(何の問題もない……! 大運河計画が正式発表され、債券価格が倍になれば、公金など即座に補填して戻しておけばよいのだ! 差額の金貨数万枚はすべて私の懐に入る! 誰にも気づかれはせん、完全犯罪だ!!)
エスカレーション・オブ・コミットメントの極致。
莫大な利益の幻影に目を眩ませた人間は、リスクを正しく評価する能力を完全に失い、自ら重大な破滅的犯罪の深みへと足を踏み入れるのだ。
――だが。
ロベルト卿は、知る由もなかった。
執務室の片隅、書類の影に隠された換気口の隙間。
そこから、冷徹な銀縁眼鏡の奥の眼光が、ロベルト卿の手元にある『積立金流用指示書』の番号と、金庫から運び出された公金為替手形の通し番号を、寸分の狂いもなく手元の手帳へとペンを走らせて記録していることを。
レオンハルト。
清掃員トーマスの動線を逆探知し、エミリアの案内で公爵邸の屋根裏へと潜入していた財務省筆頭監査官が、息を潜めてすべての動かぬ証拠をログとして刻みつけていたのだ。
国家予算横領、公金背任、職権乱用――ロベルト・デュランを断頭台へと送るための、決定的な死刑判決の証拠(第44話の現行犯逮捕の布石)が、今まさに、完成しつつあった。
夕暮れ時。王都中央為替座の大取引所。
本日の取引終了を告げる重々しい鐘が鳴り響き、狂乱の一日の幕が下りようとしていた。
フロアには、債券を手に入れて狂喜乱舞する商人たちと、買い逃して頭を抱えて泣き崩れる者たちの姿が、異様なコントラストを描いて広がっている。
そのフロアを見下ろす、二階の貴賓席バルコニー。
薄暗い影の中、漆黒の夜会服を纏った財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイトが、静かに手すりに手を置いて佇んでいた。
その隣には、純白の肌に映える紫紺のドレスを纏ったルチア・フォン・グラナート。
二人は並んで立ち、夕暮れの赤い光が差し込むフロアの狂乱を、まるで劇場の特等席から喜劇を鑑賞するかのように見つめていた。
「……五万枚だそうだ」
オスカーが低く、冷ややかな美声で呟いた。
「レオンハルトから極秘の連絡が入った。ロベルトの奴め、私財と派閥貴族の資産のみならず……貴族院の公金積立金にまで手を付け、手元にある流動資金のすべてを、運河債券の買い占めへと注ぎ込んだ」
「あら……。公金横領にまで手を染めましたのね」
ルチアは手にしたシャンパングラスを優雅に傾け、薄い唇に冷笑を浮かべた。
「欲という怪物は、一度餌を与えられると、満腹になることを忘れて自らの内臓すら食い破るもの。……哀れな古狸ですこと。己の墓穴を、自らの手でこれほど深く、丁寧に掘り進めてくださるなんて」
「奴だけではない。貴族院の守旧派貴族どものほぼ全員が、領地や屋敷を抵当に入れて債券の狂乱に飛び込んでいる。……この国の膿が、一箇所にすべて集まった」
オスカーはルチアの肩へと、自らの大きな手をそっと重ねた。
手袋越しではない、温かい男の掌の熱。
昨夜、執務室の暖炉の前で「お前の孤独ごと、俺が買い取ってやる」と誓い合った二人の絆は、もはやいかなる疑念も打算も挟む余地のない、絶対の共犯関係へと昇華していた。
「ルチア。お前の描いたシナリオ通り、舞台の上にはすべての賭け金が乗り切ったぞ。……これ以上、奴らが注ぎ込める金は、この国のどこにも存在しない」
「ええ、そうですわね、オスカー様」
ルチアはオスカーの胸元へとそっと身を寄せ、夕陽に染まる為替座のフロアを見つめた。
眼下で、紙屑となった債券の証書を高く掲げ、勝ち誇ったように万歳三唱を叫んでいるロベルト派の商人たち。
彼らは今、人生の絶頂にいると信じ込んでいる。
自分たちが立っているその場所が――一歩踏み外せば底なしの奈落へと真っ逆さまに転落する、断崖絶壁の細い一本橋の上であることすら気づかずに。
「高く昇れば昇るほど、落ちたときの音が心地よく響くものですわ」
ルチアの紫紺の瞳が、月光のように妖艶に細められた。
バブルは、極限まで膨らみ切った。
あとは――この美しく膨らんだ風船に、小さな針をひと突きするだけ。
次なる舞台は、セレーナとクラリスによる最後の市場操作、そして――歴史的大暴落の引き金を引く、処刑のカウントダウンだった。




