第28話:レオンハルトの潜入捜査
深夜の王都の底冷えする湿気が、黒ずんだ石畳の隙間から立ち上っていた。
官庁街の壮麗な白亜の宮殿群から馬車でわずか二十分。そこは、華やかな社交界の貴族たちが決して足を踏み入れることのない、王都最大の運河沿いに広がる歓楽街の裏路地――通称『泥溜まり(スラッジ)』と呼ばれる暗渠地帯だった。
頭上を覆うのは、無造作に張り巡らされた物干し綱と、煤けたレンガ造りの雑居ビル。酒と腐敗したヘドロ、そして安葉巻の煙が混じり合った重苦しい空気が、路地の底に澱のように沈殿している。
「……信じられん。財務省の主席監査官たるこの私が、このような薄汚れた掃き溜めに忍び込む羽目になるとは」
壁の窪みに身を潜め、漆黒の外套の襟を掻き合わせながら苦虫を噛み潰したような顔をしていたのは、レオンハルトだった。
二十五歳。普段は隙間なくボタンを留めた濃紺の官給礼服と銀縁眼鏡をトレードマークとする財務省の若きエリート官僚。だが今宵の彼は、光を反射しない艶消しの黒い革鎧に身を包み、腰には官給の細身のサーベルを帯びていた。
生真面目で潔癖な彼の背筋は、泥棒のような格好をしていることへの羞恥と罪悪感から、痛々しいほどに硬直している。
「シッ! 声が大きいですよ、監査官様。ここは王都警邏隊の手も届かない無法地帯なんですから、少しは緊張感を持ってくださいまし」
路地の影から、猫のように軽やかな足取りで戻ってきた小柄な人影が、呆れたように小声で囁いた。
グラナート家専属メイド、エミリアだった。
普段の清楚なメイド服とエプロンを脱ぎ捨てた二十歳の彼女は、身体のラインにぴったりと吸い付く闇夜色の忍び装束を纏い、艶やかな栗色の髪を高い位置でポニーテールに束ねていた。その両手には、指先を露出させた牛革の手袋。腰のベルトには、無数の小さな革ポーチがジャラリと音を立てずに吊り下げられている。
「き、緊張感なら十二分に持っている! そもそも、なぜ私が貴女のような子爵家の小間使いと組まねばならんのだ。監査部隊の武装兵を一個小隊連れてくれば、正面から令状を叩きつけて踏み込めるものを……」
「だから、その令状が出せないから困っているんでしょうに」
エミリアは路地の角から首を出し、運河の向こう岸に佇む巨大な要塞のような建築物を指差した。
「あそこをご覧ください。ロベルト・デュラン公爵直属のダミー商会――『デュラン通商』の中央第一秘密倉庫です。表向きは輸入穀物と綿花の保管庫ですが、見張りの連中の腰回りを見てごらんなさいな」
レオンハルトは眼鏡の位置を直し、目を凝らした。
夜霧に煙る運河の対岸。厚さ一メートルを超える石壁に囲まれた巨大な倉庫の周囲を、松明を持った私兵たちが巡回している。
彼らが身につけているのは、商業ギルドの警備員が持つような木棒や短棍ではない。
軍用の最新式クロスボウに、抜き身のブロードソード。その鍛え上げられた体躯と鋭利な眼光は、名うての傭兵崩れか、軍の特殊部隊のそれだった。
「……あれは、正規軍の装備だな。民間の商会が保持していい武装の基準を遥かに超えている」
「ええ。正面から突入なんてしようものなら、ベルを鳴らされて証拠書類はすべて地下の焼却炉で灰にされますわ。だからこそ――お嬢様と公爵閣下は、私たちに『極秘の潜入奪取』をお命じになったのです」
エミリアは腰のポーチから、極細の黒い絹糸で編まれた鉤縄を取り出し、手首で器用に回した。
その横顔には、下町とスラム街の裏路地を生き抜いてきた元孤児特有の、研ぎ澄まされた野生の光が宿っていた。
第27話において、ロベルト卿から『五十パーセントの特別通行税』と『為替座の手形決済停止』という兵糧攻めを叩きつけられたルチアとオスカー。
三週間後の黒字倒産を防ぎ、敵の喉元を逆撃するために不可欠な第一のピース――それが、ロベルト卿が長年行ってきた「国家予算横領と不正還流の動かぬ証拠(裏帳簿)」の強奪だった。
「作戦の確認です、レオンハルト様。巡回兵の交代時間は、鐘が鳴る直前の三分間。あの瞬間に運河の排水溝を渡り、二階の荷揚げ用ダクトから侵入します。……足手まといになったら置いていきますからね」
「ふん、誰に向かって口を利いている。王立財務大学校の軍事教練では、常に首席だった男だぞ」
「はいはい、口先は立派ですから、あとは足がもつれないことを祈りますわ」
エミリアはくすりと笑うと、合図も待たずに闇の中へと滑り出した。
ヒュンッ――カチリ。
夜風を裂いて放たれた鉤縄が、対岸の倉庫の石柱の隙間に音もなく食い込んだ。
エミリアは驚くべき身軽さでロープを伝い、運河の濁った水面すれすれを飛び越えて、対岸の排水パイプの影へと着地した。
一拍遅れて、レオンハルトも歯を食いしばりながらロープを渡り、石壁の狭い足場へと滑り込む。
「……っ、ふぅ」
「息を殺してください、交代の兵が来ます」
エミリアの細い指が、レオンハルトの唇をそっと塞いだ。
至近距離から漂う、微かな石鹸の香りと、少女の体温の熱。
レオンハルトの心臓が不自然に跳ね上がったが、頭上を通過する重い鉄靴の足音を聞いた瞬間、官僚の冷徹な理性が息を吹き返した。
松明の明かりが遠ざかる。
エミリアは躊躇なく足場を蹴り、壁面に張り付いた鉄梯子をよじ登ると、二階の換気ダクトの鉄格子へと手を伸ばした。
「さあ、ここからが本番です」
ダクトの奥に据え付けられていたのは、人間二人がかりでも動かせないような、分厚い真鍮製の二重落とし格子だった。
格子の中央には、複雑怪奇な三連タンブラー式の鍵穴が冷たく口を開けている。王立金庫の特注品と同型の、素人には手も足も出ない最高難度の防犯錠前。
「……くっ、これほどの錠前か」
レオンハルトが額に汗を浮かべ、腰の短剣に手をかけた。
「力づくでへし折るしかないか。だが、音を立てれば階下の見張りに気づかれる……。やはり、王都から本職の解錠師を連れてくるべきだったか……!」
「何を慌てているんですか、監査官様」
エミリアは呆れたように息を吐くと、自らの襟元の裏地に仕込まれていた、長さ十センチほどの極細の鋼鉄製のピックとテンションレンチを取り出した。
指先を舌で少し湿らせ、流れるような所作で鍵穴の奥へと差し込む。
「え……? おい、貴女、まさか――」
「静かに。ピンの落ちる音が聞こえなくなります」
エミリアは目を閉じ、耳を鍵穴の真横へと押し当てた。
息をすることすら止めたような極限の集中。
カチ、チ……カチリ。
金属同士が擦れ合う、幽かな、針の落ちるような摩擦音。
エミリアの細い指先が、微細な力加減でピックの角度を変えるたび、内部のシリンダーが一つ、また一つと正規の位置へと噛み合っていく。
作業開始から、わずか――十八秒。
――ガチャンッ。
鈍く、重い解錠音が、ダクトの暗闇に響いた。
「……え?」
レオンハルトの顎が外れそうになった。
銀縁眼鏡がずり落ちかけるのを、震える手で必死に押さえる。
「あ……開いただと……!? 王立金庫の三連タンブラー錠だぞ!? 鍵職人でも一時間は唸る最高難度のシリンダーを、ヘアピンのような針金一本で、わずか二十秒足らずで開けただと……!?」
「ヘアピンじゃありません、特注の焼き入れ鋼です。……スラム街の孤児にとって、開かない鍵穴なんて『少し頑固なお弁当箱の蓋』と同じですよ」
エミリアは何食わぬ顔で道具をしまい、格子の扉を音もなく押し開けた。
「さあ、見張りが戻ってくる前に入りましょう。監査官様、お口が開いたままですよ」
「き、貴様……一体、グラナート家に入る前は何者だったのだ……!」
戦慄するレオンハルトの背中を、エミリアが苦笑しながらダクトの奥へと押し込んだ。
ダクトを這い進み、滑り降りた先は――倉庫の最深部に位置する、窓のない石造りの密室だった。
カビと埃の匂いに混じり、乾いた羊皮紙と上質なインクの匂いが充満している。
壁一面には、天井まで届く巨大な黒檀の書類棚。そこには、数千冊に及ぶ『デュラン通商』の貿易台帳が年別、港別に整然と並べられていた。
「……ここが、ロベルト公爵の資金洗浄の心臓部か」
レオンハルトの眼光が、一瞬にしてプロの監査官のものへと切り替わった。
彼は懐から、真鍮製の小型ランタンを取り出し、光量を極限まで絞って書類棚を照らし出した。
棚から数冊の帳簿を引き抜き、恐るべき速度でページをめくっていく。
だが――数分後、レオンハルトの眉根が険しく寄った。
「くそっ……! 並んでいるのは、すべて表向けの『正規帳簿』だ。東方からの綿花輸入、南方の香料取引……数字の上では一銅貨の狂いもなく帳尻が合っている。巧妙極まりないダミーの山だ。これでは、いくら探しても脱税や不正還流の証拠にはならん……!」
「慌てないでください、レオンハルト様」
エミリアは部屋の中央に据えられた、巨大な黒漆塗りの執務机の前に膝をついていた。
机の脚、引き出しの継ぎ目、そして床の石畳の隙間を、指先でコンコンと軽く叩いていく。
「悪党が命の次に大事な帳簿を、こんな誰でも見られる棚に置くはずがありませんわ。……お嬢様がいつも仰っているでしょう? 『人間は見せたいものを前に出し、隠したいものを自らの足元に埋める』と」
トントン……カツン。
机の右側の引き出しの奥、二重底の仕切り板を叩いた瞬間、他とは明らかに異なる硬質な金属の反響音が返ってきた。
「見つけましたわ」
エミリアが仕切り板の隅にある隠し留め金を押し込むと、カチャリと小さな音がして、引き出しの底がスライドした。
現れたのは――真鍮の頑丈な鍵前で封じられた、二重底の隠し金庫。
エミリアは再び手早くピックを差し込み、わずか十秒でその鍵を解錠してみせた。
ギイと重い蓋が開く。
金庫の底に収められていたのは、宝石でも金塊でもなかった。
漆黒の山羊革で装丁され、真紅の蝋で厳重に封印された――一冊の、異様な重みを放つ帳簿だった。
「これだ……!」
レオンハルトが息を呑み、手袋を嵌めた手でその帳簿を慎重に引き抜いた。
封蝋をペーパーナイフで慎重に割り、最初のページを開く。
ランタンの薄暗い光の下に浮かび上がったのは――通常のアルファベットではなく、数字と記号が複雑に入り組んだ、高度な暗号の羅列だった。
「暗号化されている……。だが、この数字の並び……!」
レオンハルトの頭脳が、猛烈な速度で回転を始めた。
フォレンジック調査(不正会計の摘発)。
彼が長年、財務省で叩き込んできた暗号解読法と、第11話でルチアから教わった『ベンフォードの法則』『相関性分析』が、脳内で見事に火花を散らして融合する。
「……解けたぞ。これは、国家防衛予算の『特別機密調達費』の支出台帳と完全にリンクしている!」
レオンハルトの指先が、震えながら数字をなぞった。
「信じられん……! 『東部国境守備隊向け・最新式重装甲冑五千領の購入』名目で国庫から引き出された金貨一万枚。だが、その金は国内の鍛冶ギルドではなく、隣国の敵対勢力と繋がる国外のダミー商会へそのまま送金されている!
そして、そのダミー商会から『架空の資材調達手数料』として、金貨八千枚が――ロベルト・デュラン公爵の個人秘密口座へと還流されている……!」
「……国家予算を、敵国への架空発注で横領していたというわけですか」
エミリアが戦慄の声を漏らした。
「横領どころの話ではない! 隣国の軍需企業に国家資金を横流しし、自らの懐を肥やすなど……明白なる『国家反逆罪』だ! この帳簿一冊で、ロベルト・デュランの政治生命は完全に終わり、一族全員が断頭台行きを免れん動かぬ証拠だぞ!」
レオンハルトの瞳に、歓喜の光が爆発した。
勝った。
この帳簿さえ持ち帰れば、グラナート商会への不当な通行税も決済停止も、一撃で吹き飛ばすことができる――。
――しかし。
運命は、それほど容易く勝利を明け渡してはくれなかった。
カチャリ。
背後で、冷酷な金属の撃鉄を起こす音が響いた。
「――そこまでだ、ネズミども」
「……っ!?」
レオンハルトとエミリアが弾かれたように振り返った。
密室の入り口。
いつの間にか防音扉が開け放たれ、そこには――抜き身の大剣を提げた巨漢の傭兵隊長と、十名を超える完全武装の私兵たちが、クロスボウの矢の切っ先を二人の眉間へとピタリと向けて立ち塞がっていた。
「見事な手際だったがな。……生憎と、この金庫室の床には、重量の変化を感知する水銀式の警報線が仕込まれていたのさ。貴様らが金庫を開けた瞬間、俺たちの詰め所に知らせが入っていたんだよ」
傭兵隊長が下卑た笑みを浮かべ、大剣の切っ先を地面に突き立てた。
「帳簿を置いて、両手を上げろ。……公爵閣下への土産に、生きたまま皮を剥いでやる」
「……しまっ――」
レオンハルトが息を詰まらせた。
完全なる袋の小路。出口は塞がれ、十数本のクロスボウの射線が密室を埋め尽くしている。
絶体絶命。
その瞬間、エミリアが腰のポーチへと手を伸ばそうとした。
「動くな、女!」
私兵の一人が引き金を絞ろうとした――その刹那だった。
「――伏せろ、エミリアッ!!」
ドォンッ! と鈍い音が響いた。
レオンハルトが、躊躇うことなく身体を投げ出し、エミリアの華奢な身体を自らの胸の下へと押し倒したのだ。
エリート官僚の計算でも、損得勘定でもない。
ただ、自らの命に代えてもこの少女を守るという――純粋な騎士の防衛本能。
ビシュッ、ビシュシュッ!!
放たれた三本のクロスボウの矢が、レオンハルトの漆黒の革鎧の肩口を掠め、背後の石壁に火花を散らして跳ね返る。
痛みに顔を歪めながらも、レオンハルトは腰のサーベルを電光石火の速さで抜刀した。
青銀の刀身が、ランタンの光を浴びて閃光を描く。
「我が名は財務省筆頭監査官、レオンハルト! 国家反逆の徒どもめ、この首が欲しくば前に出ろ!!」
気迫の咆哮。
踏み込んできた先頭の私兵の剣を、レオンハルトのサーベルが鋭く弾き飛ばし、その喉元へ柄頭を叩き込む。
だが、多勢に無勢。四方から刃が迫り、レオンハルトの革鎧が切り裂かれて鮮血が飛び散る。
「レオンハルト様……っ!」
床に組み敷かれたエミリアの瞳が、見開かれた。
身分も高く、将来を約束された公爵家の若きエリート官僚が。
たかがスラム出身のメイド一人を庇うために、血を流し、盾となって仁王立ちしている。
エミリアの胸の奥で、カチリと何かが音を立てた。
(……死なせるもんですか! この人を、こんなところで死なせてたまるもんですか!!)
エミリアは床を蹴って跳ね起きると、腰のポーチから二つの黒い球体――スラム街の闇職人に特注で作らせていた『激辛硫黄煙幕玉』を引っ掴んだ。
「レオンハルト様、目と口を閉じて!!」
「なっ――」
バヂィィィンッッ!!
石床に叩きつけられた球体が破裂した瞬間、凄まじい閃光とともに、黄色と紫色の濃厚な毒煙が密室いっぱいに爆発した。
乾燥させたハバネロ唐辛子の粉末と、高濃度の硫黄ガスが混ざり合った地獄の目つぶし煙幕。
「ギャアァァァッ!? め、目が! 目がぁぁぁっ!!」
「ゲホッ、ゴホッ! 息が……息ができねぇッ!!」
私兵たちが武器を取り落とし、顔を掻きむしりながら床を転げ回る。
煙と阿鼻叫喚の狂乱の中、エミリアはレオンハルトの手首を力強く掴んだ。
「走ってください! こっちです!」
「ぐっ……帳簿は……!?」
「私の懐にあります! 早く!!」
二人は煙を突き破り、倉庫の奥の通路を疾走した。
背後から響く傭兵たちの怒号と足音。
だが、倉庫の正面玄関へ続く階段には、すでに追加の増援部隊が雪崩れ込んできていた。退路は完全に遮断されている。
「くそっ、囲まれたか……!」
「いいえ、出口なら目の前にありますわ!」
エミリアが指差したのは、通路の突き当たり――運河に面した、石造りの巨大な荷揚げ用の跳ね出し窓だった。
高さにして、水面まで十メートル以上。
窓の外には、深夜の冷たい運河の黒い水面が、激しい飛沫を上げて渦巻いている。
「ま、待て……! あそこから飛び降りる気か!? この高さからでは、水面に叩きつけられて骨が砕けるぞ!」
「砕けません! 水深は十分です! ……それとも監査官様、あの悪党どもに捕まって皮を剥がれる方がお好みですか!?」
「……断固としてお断りだ!!」
レオンハルトは覚悟を決め、エミリアの手を握り返した。
二人は並んで床を蹴り、跳ね出し窓の木枠を踏み台にして――夜の闇の中へと、躊躇いなく身を躍らせた。
ヒュォォォッ――!!
冷たい夜風が全身を叩きつける浮遊感。
満天の星空が一瞬だけ視界をよぎり、次の瞬間。
ドッバァァァァァンッッ!!
氷水のような運河の水が、二人を頭の天辺から飲み込んだ。
激しい水圧と冷気の衝撃。
だが、水中で絡み合った二人の手は――決して、解けることはなかった。
深夜三時を回った、ヴァルハイト公爵邸の財務卿執務室。
暖炉の火が静かに揺れる部屋の中、ルチアとオスカーは、チェス盤を挟んで向かい合っていた。
だが、二人の指先は駒を動かしてはいなかった。
オスカーの青い瞳は、絶え間なく壁の置時計の秒針を追っており、その組まれた腕の指先が、微かに神経質にトントンと机を叩いていた。
「……遅いな」
「大丈夫ですわ、閣下」
ルチアは優雅に紅茶のカップを傾けながら、微笑んでみせた。
だが、その紫紺の瞳の奥にも、微かな緊張の影が宿っていた。
「エミリアの身軽さと嗅覚は、下町随一です。それに……閣下の優秀な副官殿がついていらっしゃるのでしょう?」
「レオンハルトは生真面目すぎるのが玉に瑕だが、剣の腕と危機管理能力は近衛の幹部クラスだ。……だが、相手はロベルトの飼い犬どもだ。何が起きても――」
バタンッ!!
執務室の重厚な防音扉が、激しい音を立てて開け放たれた。
「――っ!?」
ルチアとオスカーが弾かれたように立ち上がった。
扉の前に立っていたのは――頭から爪先まで泥水に濡れそぼり、全身から湯気のように水滴を滴らせた、二つの影だった。
レオンハルトの上着は切り裂かれ、肩口の包帯代わりの布から血が滲んでいたが、その瞳には勝利の炎が燃え盛っていた。
その隣で、濡れ鼠になったエミリアの肩には、レオンハルトの分厚い革の外套が、優しく羽織りかけられていた。
「や、やりましたぞ……閣下ッ!!」
レオンハルトはよろめく足取りで前へ進み出ると、懐から取り出した、油紙で幾重にも防水加工されていた漆黒の山羊革帳簿を――黒檀の机の上へと、力任せに叩きつけたのだ。
「ロベルト・デュラン公爵直属の、国家防衛費不正還流の動かぬ裏帳簿……! 奪取に成功いたしました!!」
「お、お嬢様ぁぁっ……! 死ぬかと思いました……! 運河の水が、死ぬほど冷たかったですぅぅっ!」
エミリアが緊張の糸が切れたようにルチアの胸元へと飛び込み、ルチアは濡れるのも構わず、その細い肩を抱きしめて背中を優しく撫でた。
「よく無事で戻ってくれたわ、エミリア。……本当に、よくやってくれたわ」
オスカーは机の上に叩きつけられた黒い帳簿へと歩み寄り、震える手でそれを開いた。
ページをめくる青い瞳が、驚愕と、そして絶対の確信に染まっていく。
「……完璧だ。ロベルトの直筆印、国外ダミー口座の送金ルート、国家予算の横領額……すべてが克明に記されている。これだけの証拠があれば、貴族院のいかなる特権も粉々に粉砕できるぞ」
オスカーは顔を上げ、手当てのためにソファへ座らせられたレオンハルトの肩に、力強く手を置いた。
「見事だった、レオンハルト。……そして、エミリア嬢」
「も、もったいなきお言葉にございます、閣下……!」
レオンハルトが背筋を伸ばし、エミリアも濡れた前髪の奥から照れくさそうに微笑んだ。
水と油のようだった二人の間に、過酷な死線を潜り抜けた者同士にしか分からない、確かな信頼の絆が芽生えていた。
ルチアは暖炉の前に立ち、机の上の黒い帳簿を見つめた。
その紫紺の瞳に宿っていたのは、前世から受け継がれた、冷酷無比な狩人の光。
ロベルト・デュラン公爵。
鉄壁の権力と法律の鎧を着込み、グラナート領を兵糧攻めで圧殺しようとしていた巨悪の首魁。
だが――その足元には今、自らが不正に積み上げた黄金という名の、巨大な火薬樽がセットされたのだ。
「どれほど強大な権力者でも、隠し金庫の鍵穴は小さく脆いものですわ」
ルチアの唇が、妖艶な弧を描いた。
証拠は手に入った。
さあ――次は、天才為替ディーラー・セレーナと妹クラリスを動かし、ロベルト卿の首根っこを経済的に締め上げる『防衛買収』の火蓋を切る番だった。




