第27話:暗雲、貴族院の影
晩秋の冷たい朝霧が、王都中央の大通りを白く煙らせていた。
目抜き通りに新設されたばかりの石造り三階建ての瀟洒な店舗――『グラナート商会・王都本店』の正面には、開店前から長蛇の列が形成されていた。
並んでいるのは、王都中の名門貴族たちが差し向けた家令や侍女たち、そして大商会の番頭たちだ。誰もが手に銀貨や為替小切手を握りしめ、硝子張りのショーウィンドウの中に飾られた二つの至宝を、羨望と熱狂の眼差しで見つめていた。
アデレード皇太后が直々に勅許を下賜し、王室御用達に指定された奇跡のショール『白銀の霧』。
そして、先日の王宮夜会で披露され、高位貴族の男たちを一夜にして虜にした琥珀色の熟成蒸留酒『グラナート・アンバー』。
「一枚金貨五十枚でも構わん、今月の入荷分をすべて我が侯爵家で買い取る!」
「酒を! ウイスキーを三樽、即日現金で決済するから回してくれ!」
開店と同時に店内に雪崩れ込む顧客たち。
レジカウンターの奥では、領地から派遣された店員たちが悲鳴のような歓声を上げながら伝票を捌き、金庫番が休む間もなく金貨と為替手形を金庫へと流し込んでいた。
まさに破竹の勢い。
泥水をすすっていた貧乏子爵家が、王国の富の集積地へと一躍躍り出た瞬間だった。
――しかし。
その熱狂を切り裂くように、重々しい鉄の車輪の音が大通りの石畳を軋ませて近づいてきた。
「……退け、退け! 公務の執行である!」
怒号とともに現れたのは、漆黒の車体に金泥で『天秤と剣』――貴族院の最高権威を示す紋章が刻印された三頭立ての馬車だった。
馬車を取り囲むように、黒革の甲冑を纏った貴族院専属の重装衛兵たちが十数名。
彼らは買い物を楽しんでいた貴族の使者たちを暴力的な手つきで押し退けると、グラナート商会の正面入り口を包囲し、銃床で石畳をドンドンと打ち鳴らした。
「な、何事だ!?」
「貴族院の執行官……!?」
ざわめく群衆の前に、馬車から降り立ったのは、仕立ての良すぎる黒ビロードの官服に身を包んだ肥満体の役人だった。
貴族院予算委員会筆頭査察官。
男は鼻の下の口髭を傲慢に震わせ、手に持った真紅の封蝋が施された分厚い公文書を、店内に向かって高らかに掲げた。
「グラナート商会代表、ならびにグラナート子爵家に告ぐ! 貴族院予算委員会令・第百四号の執行である! 本日、今この瞬間をもって、当店舗における特産品の取引を一時停止、ならびに帳簿の保全命令を通達する!!」
「……冗談ではありませんわ! 不当競争防止ですって!? 市場価格安定化措置ですって!? ふざけるのも大概になさいませ!!」
グラナート商会本店の三階、重厚な絨毯が敷かれた応接室。
激しい怒声とともに、執務机の上に叩きつけられたのは、先ほど執行官から手渡された貴族院の公式通達書だった。
机を両手で叩き、肩で荒い息を吐いているのは、領地から馬車を昼夜兼行で飛ばして王都へ駆けつけてきた実妹、クラリス・フォン・グラナートだった。
普段は冷静沈着で感情を交えない十五歳の財務番頭が、今は銀縁眼鏡の奥の瞳を怒りと焦燥で燃え上がらせている。
机の向かい側。
深いグリーンの革張りソファに優雅に腰掛けていたルチア・フォン・グラナートは、湯気の立ち上るカモミールティーを一口含むと、静かに視線を落とした。
「落ち着きなさい、クラリス。……通達の内容を正確に読み上げなさい」
「……っ」
クラリスは悔しそうに唇を噛み締め、叩きつけた羊皮紙を震える指先で拾い上げた。
「……第一条。『グラナート商会が販売する繊維製品および酒類に関し、王都市場の既存産業に対する急激な価格破壊ならびに不当な競争を誘発している疑いがあるため、本日より、王都への搬入に際して『五十パーセント(50%)』の特別通行関税を追徴課税する』」
「五十パーセント」
ルチアは冷笑を浮かべた。
通常、王国における地方領地からの特産品にかかる通行税は、高くても三パーセントから五パーセントだ。五十パーセントなど、事実上の経済封鎖であり、息の根を止めるための法的な暴力に他ならない。
「そして……第二条です、姉様」
クラリスの声が、一段と低く、震えを帯びた。
「『王都中央為替座に対し、グラナート商会およびグラナート子爵家が振り出す一切の約束手形、ならびに為替小切手の引受および裏書決済の停止を勧告する。安全性の確認が取れるまで、口座の流動性を一時凍結する』……!」
「……為替の決済停止勧告、ね」
ルチアの紫紺の瞳が、すっと細められた。
クラリスは持参していた分厚い帳簿と、赤インクで書き殴られた資金繰り表を机の上にバサリと広げた。その顔面は、怒りから一転、急速に蒼白へと染まっていた。
「姉様……これは、ただの嫌がらせではありませんわ。……殺しに来ています」
「ええ、分かっているわ」
「帳簿をご覧ください! 我が商会は、皇太后陛下の勅許をいただいてから、受注残高だけでも金貨五千枚を超えています。利益率は過去最高、帳簿上は大黒字ですわ!
ですが……! 我が領の工場は今、この受注に応えるため、近隣諸侯や商人ギルドから原材料の羊毛、染料、オーク材の樽を、すべて『一ヶ月後の期日払い約束手形』で大量に買い付けているのです!
さらに、新設した宿舎の建設費、四百五十名の工員たちに支払う今月末の給与……これらもすべて、王都為替座の口座から引き出して支払う手はずになっていました!」
クラリスの拳が、机の上で震えていた。
冷たい汗が、眼鏡の縁を伝って滴り落ちる。
「為替座での手形決済を止められ、通行税で手持ちのキャッシュを五十パーセントも毟り取られれば……手元にある現金など、瞬く間に枯渇します。
仕入れ先への手形が不渡りになれば、信用は失墜し、資材の供給はストップ。工員たちへの賃金が払えなくなれば暴動が起き、債権者たちが領地の工場と土地の差し押さえに殺到します……!
帳簿の上では莫大な利益が出ているのに……現金の血流を止められただけで、我がグラナート領は――あと『三週間』で、完全に破産(黒字倒産)いたしますわ!!」
――黒字倒産。
現代の企業経営においても、最も恐れられる資本の罠。
利益が出ていようと、製品が飛ぶように売れていようと、手元に支払うための現金がショートした瞬間、企業は法的に即死するのだ。
相手は、グラナート領の急成長の構造を完璧に分析していた。
急激に設備投資と事業を拡大している時期こそが、手元の流動資金比率が最も脆弱になる瞬間であると知悉し、ピンポイントでその首筋に冷たい刃を突き立ててきたのだ。
「クラリス」
ルチアは静かにカップをソーサーに戻した。
その声音には、取り乱した様子など微塵もなかった。
「領地へ戻りなさい。工員たちには『王都との為替手続きの確認のため、支払いが数日遅れるが、王室御用達の看板にかけて賃金は倍率をつけて満額保証する』と父上から説明させなさい。現場の動揺を最小限に抑えるのが、あなたの役目よ」
「で、ですが姉様! 為替座の決済停止を解除させなければ、三週間後には確実に――」
「解除させるわよ。……それと、この不当な公文書を叩きつけてきた張本人に、相応の落とし前をつけさせて差し上げますわ」
ルチアは立ち上がり、黒いレースの手袋を指先に嵌めた。
その紫紺の瞳に宿っていたのは、前世――数多の企業買収の修羅場をくぐり抜けてきた伝説の詐欺師、一条玲奈の絶対零度の闘志だった。
「仕掛けてきた相手の首を狩りに行ってまいります。……お留守番を頼むわね、クラリス」
一時間後。ヴァルハイト公爵邸北棟、財務卿執務室。
重厚な防音扉が開かれると、室内にはすでに、氷のような冷気と張り詰めた殺気が充満していた。
黒檀の執務机の奥。
漆黒の上着を纏い、肘をついて書類を睨みつけていたオスカー・フォン・ヴァルハイト公爵が、ルチアの姿を捉えた瞬間に顔を上げた。
その青い双眸の奥には、前夜のダンスフロアで見せた狂おしい情熱の残滓とともに、国家の最高権力者としての苛烈な怒りが渦巻いていた。
「……来たか、ルチア」
「ええ。閣下の執務室にお邪魔するのも、ずいぶんと慣れてまいりましたわね」
ルチアは優雅に会釈し、机の前の革張りチェアへと腰を下ろした。
机の上には、すでにルチアの手元にあるものと寸分違わぬ、貴族院予算委員会の赤い公文書が広げられていた。
「貴族院の動き、すでに把握していらっしゃいますわね?」
「ああ。今朝方、貴族院から財務省へ正式な通達が届いた」
オスカーは苦々しく吐き捨て、手にした羽ペンを机へと叩きつけた。
「五十パーセントの特別通行税。そして中央為替座への決済停止勧告。……あからさまな兵糧攻めだ。皇太后陛下の勅許を盾に正面からグラナート商会を潰せないと悟るや否や、貴族院の権限を濫用して資金の血流を止めにかかってきた」
「財務省の権限で、この理不尽な通達を即座に無効化することはできませんの?」
「できん」
オスカーは奥歯を噛み締めた。その端正な顔立ちが、悔しさに歪む。
「通行税の管轄、ならびに国内金融機関に対する『緊急信用調査に基づく決済停止勧告』の権限は、建国期法規によって貴族院予算委員会に専管権が委ねられている。財務卿である俺の職権であっても、貴族院の決議を即座に覆すことは法的に不可能なのだ。
……無理やり力づくで差し戻せば、貴族院全体が『財務省による専横』として結束し、俺に対する不信任案を叩きつけてくる。奴らはそれを狙っているのだ」
「なるほど。法の番人たる閣下の手足を縛り、同時に私の息の根を止める……実に、無駄のない一手ですこと」
ルチアは皮肉げに微笑み、背もたれに体重を預けた。
敵の戦術は極めて高度であり、王国の法制度の隙間を完璧に熟知していなければ打てない一手だった。
「……さて、閣下。この盤面を差配している黒幕の正体について、詳しくお聞かせ願えますかしら? 第12話で、カシアン侯爵とイザベラ伯爵夫人の背後にいるとおっしゃっていた……あのお方ですわね?」
オスカーの青い瞳が、すっと細められた。
彼は机の引き出しから、一冊の分厚いファイルを音もなく取り出し、ルチアの目の前へと置いた。
金箔押しの表紙に刻印されていたのは、貴族院の絶対の象徴。
「――貴族院予算委員長、ロベルト・デュラン公爵。五十二歳」
オスカーの声は、地を這うように低かった。
「前王の時代から三十年以上にわたり、貴族院の財政と人事の頂点に君臨し続けてきた、王国守旧派貴族の絶対的首魁だ。
奴は王国の基幹産業――鉄鉱山、南部港湾、穀物流通の利権を傘下の商会群に独占させ、国家予算から巨額の補助金を不正に還流させて私腹を肥やしてきた。カシアンやイザベラが社交界で巻き上げていた裏金など、奴の巨大な脱税マネーロンダリング機構の、ほんの一握りの小遣い銭に過ぎん」
ルチアはファイルをめくり、ロベルト・デュランの肖像画を見つめた。
そこに描かれていたのは、整えられた灰色の口髭と、窪んだ奥から冷酷な光を放つ濁った瞳を持つ、老練な公爵の姿だった。
身に纏うのは最高級の毛皮と豪奢な宝飾品。だが、その顔立ちにはカシアンのような軽薄な見栄はなく、国家そのものを己の私有財産と信じて疑わない、絶対的な支配者の傲慢さが張り付いていた。
「昨夜の王宮夜会……奴は広間の片隅から、お前と俺の姿を終始観察していた」
オスカーの瞳に、昏い炎が宿った。
「奴の狙いは二つある。
第一に、急成長するグラナート領の利権の強奪だ。『白銀の霧』とウイスキーの独占販売権を、黒字倒産に追い込んだグラナート家から二束三文で買い叩き、自らの派閥の新たな資金源にすること。
そして第二に――俺の失脚だ。
グラナート領という俺の推進する経済改革の象徴を完膚なきまでに叩き潰し、俺の政治的求心力を奪い去ること。……俺とお前を同時に葬り去るための、完璧な一石二鳥の罠だ」
「私と閣下の、同時処刑……。ふふ、光栄な標的ですこと」
ルチアは小さく笑い、ファイルを閉じた。
点と点が、完全に繋がった。
第1章でユリアンを手玉に取った時も、第2章でカシアンとイザベラを解体した時も、常にその背後にはこの老貴族の影がちらついていた。
今、ついにその本体が、自らの特権と権力を総動員して、ルチアの喉笛を噛みちぎりに表舞台へと姿を現したのだ。
「ルチア」
オスカーが身を乗り出し、机の上に置かれていたルチアの黒レースの手袋へと、自らの大きな手を重ねた。
前夜のダンスフロアで伝わってきた、あの激しく熱い鼓動の記憶が、手袋越しに蘇る。
「グラナート領の資金繰り、三週間が限界なのだろう。……公爵家の個人資産から、無利子で金貨三千枚を即日融資してやる。それを使えば、通行税を払い、仕入れ先への手形を現金で買い戻すことができる。奴らの兵糧攻めを耐え抜くことができるぞ」
破格の申し出。
公爵家の身銭を切った、絶対的な支援。
並の令嬢であれば、涙を流して感謝し、男の胸に飛び込んで縋り付く場面だった。
――しかし。
ルチア・フォン・グラナートは、その手を静かに、しかし断固として引き抜いた。
「……お断りいたしますわ、公爵閣下」
「何だと?」
オスカーが眉をひそめた。
「閣下の個人資産をお借りして糊塗したところで、問題の根本は何一つ解決いたしませんわ。五十パーセントの税率が維持される限り、金を注ぎ込めば注ぎ込むほど、ロベルト公爵の金庫へと富が吸い取られていくだけです。……防御に徹した商売に、勝利などあり得ませんの」
ルチアは立ち上がり、執務室の窓辺へと歩み寄った。
窓の外には、鉛色の雲に覆われた王都の街並みと、その中心にそびえ立つ重厚な貴族院の石造りの要塞が見えていた。
ルチアの背中に、冷たい秋の光が差し込む。
「ロベルト・デュラン公爵。……私の築き上げた大切な城を、私の可愛い妹が心血を注いで回している帳簿を、己の強欲のために踏み躙ろうとなさるわけですね」
ルチアの声から、一切の感情が消え去った。
現れたのは、前世の修羅場において、自らを裏切った巨大資本の男たちをことごとく地獄の底へと叩き落としてきた――稀代の詐欺師、一条玲奈の冷酷無比な本性。
彼女はゆっくりと振り返り、椅子に座るオスカーへと、ぞっとするほど美しい三日月の笑みを向けた。
「閣下。相手が法と権力という名の鎧を着て、兵糧攻めを仕掛けてくるのでしたら……こちらも、法の外側から、相手の足元を根こそぎ爆破して差し上げるまでですわ」
「……足元の爆破だと?」
「ええ。ロベルト公爵が我が商会を締め上げるために使っている、傘下の商会群、流通ネットワーク、そして資金調達ルート……。
彼らがどれほど不正に肥え太り、どれほど脆い砂上の楼閣の上に立っているのか。……まずは、その動かぬ『裏帳簿』を暴くことから始めましょう」
ルチアは黒レースの手袋を外し、自らの白磁の指先を掲げた。
その紫紺の瞳の奥底で、かつてないほど獰猛な、獲物を喰らい尽くす炎が紅蓮の勢いで燃え盛っていた。
「私の金を奪おうとする殿方には、一粒の涙も流しませんわ。――ただ、息の根を止めるだけです」
宣戦布告。
王国の絶対の権力者たる老公爵と、前世の知性を宿した稀代の悪女。
国家の命運を賭けた、血も涙もない経済戦争の火蓋が――いま、切って落とされたのだった。




