第26話:手袋越しの鼓動
凍りついた広間に、指揮棒の震える微かな音が落ちた。
楽団長は青ざめた顔で額の汗を拭い、大理石の壇上からフロアの中央へと視線を走らせた。そこには、社交界で「氷の財務卿」と恐れられ、これまでいかなる令嬢の手をも取ったことのない漆黒の公爵と、一夜にして王室御用達の栄誉を掴み取った深紅と純白の令嬢が、逃げ場のないゼロ距離で対峙していた。
楽団長が震える手で指揮棒を振り下ろした瞬間――。
重厚なチェロの低音が空気を震わせ、流麗なヴァイオリンの旋律が『鏡の間』のクリスタル・シャンデリアを揺らして響き渡った。
王宮最高格式の宮廷ワルツ。
三拍子の優雅なリズムが立ち上がると同時に、オスカー・フォン・ヴァルハイトの足が滑らかに前へと踏み出された。
「……っ」
ルチア・フォン・グラナートの身体が、抗う間もなく引き寄せられる。
壁一面の巨大なアーチ鏡に、二人の姿が一斉に映し出された。
夜の帳を織り上げたような漆黒の夜会服を纏う長身の公爵と、鮮血のように鮮やかな真紅のイブニングドレスに、月光を宿した『白銀の霧』のショールを羽織る黒髪の美女。
周囲を取り囲む数百名もの貴族たちは、息を呑んで二人の影を見つめていた。誰もフロアに入り込もうとはしない。それは舞踏会というよりも、選ばれた二頭の美しい猛獣が、互いの喉笛を狙って円を描く決闘の舞台そのものだった。
(……チッ、強引な男ね)
ルチアは内心で小さく舌打ちをしながらも、背筋を一ミリもブレさせることなく、オスカーのステップに合わせて右足を後方へと滑らせた。
躊躇いも、淀みもない。
踵の着地、重心の移動、ドレスのドレープを美しく波打たせるための骨盤の角度に至るまで――王立舞踏アカデミーの首席指南役ですら非の打ち所を見出せない、完璧無比なフォロワーの所作。
前世――警視庁を翻弄した伝説の結婚詐欺師、一条玲奈の記憶が、指先から爪先に至るまでの全筋肉を精密に制御していた。
標的となる政財界の富豪や名家の子息を釣るため、前世の彼女は一流のプロダンサーを専属で雇い、数千万円を投じて社交ダンスのあらゆる高等ステップを骨の髄まで叩き込んでいたのだ。
どんなに粗野な男のリードであっても優雅な踊りに見せかける技術。
だが――目の前の男のリードは、粗野どころか、恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。
(無駄な力みが一切ない……。さすがは近衛の抜刀術を修めた男ね)
オスカーの右腕は、ルチアの細い腰をしっかりと抱え込み、寸分のブレもなく上半身を支えている。
二人の足先が、まるで鏡に映した影のように寸分違わぬ呼吸でフロアを滑り、三拍子の旋律に合わせて右回転を描く。
観客の貴族たちから、小さなどよめきと感嘆のため息が漏れ聞こえてきた。
だが――その外見の優雅さとは裏腹に、二人の至近距離の間には、剥き出しの刃のような冷気が渦巻いていた。
「……公爵閣下」
ルチアは顔をわずかに上げ、唇に社交界の淑女としての完璧な微笑みを張り付けたまま、囁くような低音で口火を切った。
周囲の観客には、愛を語り合っているようにしか見えない、甘やかな角度。
「公衆の面前で、なんという横暴ですの? 王宮中の貴族たちが息を呑んで見ておりますわよ。……私のせっかくの『婚活』……いえ、資金調達の品評会を邪魔しないでいただきたいですわ」
「品評会だと?」
オスカーの低い美声が、ルチアの耳朶を冷たく打った。
男の青い双眸が、氷河の底のような冷徹さでルチアの瞳を射抜く。
「豚の餌にでもなりたいのか、お前は。あの男どもの浅ましい目つきが見えなかったとでも言う気か? あいつらはお前の才能など見ちゃいない。お前の美貌すら、自らの虚栄心を飾るアクセサリー程度にしか思っていない。皇太后陛下の後ろ盾と、お前の築き上げた『白銀の霧』の利権に群がっているだけのハイエナだ」
「ええ、知っておりますわ」
ルチアは冷然と言い放ち、左足を踏み込んでリバース・ターンへと身を委ねた。
純白のショールが、ふわりと宙に銀の弧を描く。
「あの方々が私の利権目当てなのは、最初から百も承知です。……ですが、打算で群がってくる殿方を手玉に取るのが、私の本職(専門)ですのよ。
先ほどのロクスバーグ侯爵令息にしても、スタンホープ侯爵家にしても、実家の帳簿には莫大な含み資産と為替の信用枠が眠っておりますわ。甘い言葉で鼻の下を伸ばさせ、将来の婚姻を匂わせながら、グラナート領の街道整備債券を無利子で引き受けさせ、ウイスキーの独占販売枠を高値で売りつける……。我が領のキャッシュフローを劇的に潤すための、絶好の商談でしたのに」
ルチアはオスカーの肩に置いた指先に、わずかに力を込めた。
「閣下にご心配いただく筋合いは、一銅貨分もございませんわ。私にとって男とは、利回りとリスクを天秤にかける『投資対象』以外の何物でもありませんもの。……邪魔をなさるなんて、共同経営者としてあまりにも非合理的ですこと」
打算百パーセントの、冷徹な功利主義。
相手を経済的資源としてしか見ない、詐欺師としての絶対の信条。
これまでのオスカーであれば、「フッ、勝手にしろ」と冷笑して切り捨てていたはずの言葉だった。
――しかし。
オスカーの口から返ってきたのは、ルチアの計算を根底から打ち砕く一言だった。
「心配などしていない」
「……は?」
「心配など、端からしていないと言ったんだ」
オスカーの腕に、ぐっと力がこもった。
ワルツの旋律が第二楽章へと移り変わり、テンポが一段と速くなる。
その加速に合わせて、オスカーはルチアの身体を力強く引き寄せ、至近距離へと追い込んだ。
二人の影が、鏡の中で重なり合う。
オスカーの濡れ羽色の黒髪が乱れ、その隙間から覗く青い瞳が――かつてないほど濃密な、剥き出しの熱情を孕んでルチアを見下ろしていた。
「あいつらがどうなろうと知ったことではない。破滅しようが、お前に骨の髄まで搾り取られようが、自業自得だ。……だがな、ルチア」
男の唇が、ルチアの耳元、わずか数ミリの距離へと迫った。
熱い吐息が、冷え切っていたルチアの白磁の耳朶を容赦なく撫で上げる。
「――俺が、気に食わないだけだ」
「……っ!?」
ルチアの喉が、息を詰まらせるように小さく鳴った。
気に食わない?
国家予算のすべてを一手に統括し、いかなる情実も排除して冷徹に法律を執行してきた『氷の財務卿』の口から出た言葉が――「気に食わない」?
(な……何を言っているの、この男は……!?)
論理の破綻。
そこには、投資対効果(ROI)の計算も、政治的な損得勘定も、国家の利益すらも存在しなかった。
あるのはただ、一人の男としての、剥き出しの我儘。
理不尽で、横暴で、身勝手極まりない――感情の暴力。
「お前が他の男に向けていた、あの甘ったるい笑顔だ」
オスカーの囁きは、耳元を焼く毒のように熱かった。
「困ったように眉を下げ、上目遣いで男を見つめ、守ってほしいと懇願するように細い肩を震わせる……。あの芝居じみた蠱惑的な顔を、有象無象の豚どもの前に晒すな。お前のその計算尽くの毒の味を知っているのは――この社交界で、俺一人で十分だ」
「か、閣下……何を――」
ルチアが動揺を悟られまいと身を引こうとした、まさにその刹那だった。
グッ――と。
オスカーの右腕が、ルチアの細い腰を力任せに引き絞った。
「あっ……!」
二人の身体の隙間が、完全に消滅した。
ルチアの真紅のドレスの胸元と、羽織っていた『白銀の霧』のショールが、オスカーの仕立ての良い夜会服の分厚い胸板へと、密着するほどの圧力で押し付けられる。
鼻腔を満たしたのは、オスカーの纏う冷涼な白樺のコロンと、男の身体から立ち上る生々しい熱気。
そして――。
――ドクンッ。
「……え?」
ルチアの全身の産毛が、ピリリと粟立った。
伝わってきたのだ。
オスカーの右手に嵌められた、黒い上質な革手袋越しに。
そして、ぴったりと重なり合った互いの胸板の、薄い布地を突き抜けて。
――ドクン、ドクン、ドクン、ドクンッ……!!
耳を塞いでも聞こえてきそうなほどの、激しい、狂おしいリズム。
それは、平静を装う人間の心拍数では到底あり得ないものだった。
まるで、真冬の吹雪の中を全力疾走してきたかのような。
あるいは、断頭台の上で最後の引き金が引かれる瞬間を待つ死刑囚のような――激しく、重く、早鐘を打つ心臓の鼓動。
(この男の……心臓……!?)
ルチアの脳内の計算機が、激しい火花を散らしてショートした。
心理学における『身体反応の漏出(生理的覚醒の伝播)』。
人間は、言葉でいくら嘘を吐こうとも、表情をどれほど鉄壁に繕おうとも――自律神経が司る心拍数、体温、瞳孔の開きだけは、決して偽ることができない。
目の前の男は、顔色一つ変えずに冷徹な瞳で自分を見下ろしている。
唇には、冷酷な支配者の笑みすら浮かべている。
だというのに――その胸の中で脈打つ心臓は、今にも肋骨を突き破って飛び出してきそうなほどに、熱く、激しく、暴走していた。
(嘘でしょう……? この人が……あの『氷の財務卿』が……!?)
ルチアの紫紺の瞳が、驚愕に見開かれた。
この男は、本気なのだ。
権力者の道楽でも、ペテン師を飼い慣らすための駆け引きでもない。
自分という存在に触れ、自分を抱き寄せているこの瞬間、この男の理性は――生命の危機に瀕しているかのような極限の興奮と、熱情の炎に焼き尽くされているのだ。
「……気づいたか」
オスカーが、自嘲するように口元を歪めた。
逃げようとするルチアの左手を、革手袋でさらに強く握りしめる。
指先と指先が絡み合い、手袋の縫い目を通して、男の指の熱狂的な脈拍がルチアの皮膚へとダイレクトに流れ込んでくる。
「笑うがいい、ルチア。国家の財政を統括し、不正を暴くことだけに人生を捧げてきたこの俺が……たかが一人のペテン師の横顔に、これほど無様に狂わされている。……お前が言うように、投資対効果(ROI)など完全なマイナスだ。破滅的な大赤字の取引だ」
ワルツの旋律が、クライマックスのプレストへと突入する。
オスカーはルチアをリードし、広間の中心で大きく弧を描いて回転した。
遠心力に引っ張られ、ルチアの身体が再びオスカーの胸へと深く沈み込む。
至近距離で見つめ合う、二つの瞳。
青と、紫紺。
鏡の間に反射する無数の光の粒が、二人の周囲を取り囲むように乱反射していた。
「だがな、ルチア。俺は最初から言っているはずだ」
オスカーの瞳の奥底で、青黒い炎が揺らめいた。
それは、獲物を絶対に逃さないと決めた捕食者の、狂気じみた絶対の宣戦布告。
「お前が金しか信じないなら、俺の全財産でお前を買い取る。お前が打算でしか動かないなら、俺の命を担保にして、お前の計算機をぶち壊してやるとな。……覚悟しておけ。俺は有象無象の豚どものように、甘い言葉で騙されて引き下がるほど、お人好しではないぞ」
「……っ」
ルチアの胸の奥で、カチリと音がした。
前世から今日に至るまで、彼女の魂を守り続けてきた絶対の防壁。
「人間は金でしか動かない」「愛などという不確かなものは存在しない」「すべては打算と損得勘定である」という、冷徹な合理主義の城壁。
その城壁の真ん中に――オスカーの理不尽な、手袋越しに伝わる激しい鼓動という名の巨大な破城槌が、ドォンと音を立てて激突したのだ。
(狂っている……。本当に、この男は狂っているわ……!)
ルチアの全身を、甘美で、冷ややかな悪寒が駆け抜けた。
恐ろしい。
毒を盛られるよりも、刃を突きつけられるよりも、遥かに恐ろしい。
金や地位という「計算できる条件」を提示されるなら、いくらでも裏をかいて手玉に取ることができる。
だが――自らの命と破滅を喜んで差し出し、損得勘定を完全にかなぐり捨ててぶつかってくるこの熱量に、一体どんな計算式を対置させればいいというのか。
ジャァァァンッ――!!
オーケストラの全楽器が、圧倒的なフォルティッシモで最後の和音を轟かせた。
ワルツの終結。
二人の足がピタリと止まり、広大な『鏡の間』に、静まり返るような絶対の沈黙が落ちた。
オスカーはルチアの腰から右手を離さぬまま、深々と頭を下げ、完璧な宮廷の礼を捧げた。
ルチアもまた、乱れかけた息をポーカーフェイスの下に押し殺し、手袋を嵌めたオスカーの手を取ったまま、流麗なカーテシーを執った。
拍手は、すぐには起きなかった。
あまりの熱量と、二人だけの世界に立ち入りを拒絶された貴族たちが、息を呑んで立ち尽くしていたからだ。数秒ののち、パラパラと、そして割れんばかりの地鳴りのような拍手と歓声が、広間を揺るがした。
その歓声の渦の中。
ルチアは顔を上げ、至近距離で見下ろしてくるオスカーの青い瞳を見つめ返した。
唇に、冷酷な詐欺師の微笑みを無理やりに張り付けながら。
(……損得勘定で測れない熱を向けられるのは、毒を盛られるより恐ろしいことですわ)
手袋越しに刻まれた、男の激しい鼓動の残響。
それが、自らの指先から心臓へと侵食してくる感覚に耐えながら、ルチアは密かに拳を握りしめていた。
だが――二人が互いの体温の余韻に浸る暇など、この腐敗した社交界には残されていなかった。
広間の片隅。
拍手を送る貴族たちの人混みの奥深く、冷たい影の中に佇む老貴族――貴族院予算委員長、ロベルト・デュラン公爵の濁った瞳が、獲物を狙う毒蛇のように、ルチアとオスカーの姿をじっと見つめていたのだから。




