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第25話:オスカーの嫉妬

王宮の中央に位置する大広間『鏡の間』。

天井画に描かれた神々の饗宴を見上げるフロアには、三千本の蜜蝋の蝋燭を載せた二十基のクリスタル・シャンデリアが眩いばかりの光の奔流を注ぎ込んでいた。壁一面に嵌め込まれたアーチ状の巨大鏡がその黄金の光を無限に反射させ、会場を埋め尽くす数百名もの高位貴族たちの豪奢な衣装を、息を呑むほど絢爛に彩っている。

だが――今宵の夜会の熱狂は、通常の宮廷夜会とはまるで異質な熱気を孕んでいた。


「……ご覧になって、あのショールを」

「ああ、なんと美しい……。あれが噂の『白銀の霧』か」

「皇太后陛下自らが勅許を下賜され、王室御用達に指定されたという幻の織物……! なんという気品、なんという軽やかさだ!」

「グラナート子爵令嬢……! 没落した田舎貴族の娘などと誰が言ったのだ。あれは、国を富ませる奇跡の女神ではないか!」


広間の中央、一段高い大理石の壇上。

アデレード皇太后の玉座のすぐ傍らに、背筋を凛と伸ばして佇むルチア・フォン・グラナートの姿があった。

ルチアが纏っているのは、深紅のドレープが美しい夜会用のイブニングドレス。

そして――その白磁のデコルテと細い肩を包み込んでいるのは、光の角度によって真珠色から銀色へと神秘的に表情を変える、グラナート領の至宝『白銀の霧(シルバースノウ)』のショールだった。

羽のように軽やかに揺れる純白の布が、彼女の艶やかな黒髪と、透き通るような紫紺の瞳をこれ以上ないほど際立たせている。


前日の温室宮での茶会を経て、アデレード皇太后が全貴族に向けて公式に宣言したのだ。

――『グラナート商会を、王室御用達の最高位勅許商会に認定する』と。

その一言が、社交界の力学を一瞬にして天変地異のように覆した。


昨日まで「借金まみれの没落令嬢」「元婚約者に捨てられた哀れな女」と蔑まれていたルチアは、一夜にして、王室の財政を裏から支え、莫大な利権と富を生み出し続ける『社交界のシンデレラ』へと変貌を遂げたのだ。

しかも、彼女は未婚。

グラナート子爵家が手にした『白銀の霧』と最高級ウイスキー『グラナート・アンバー』の独占利権。彼女を妻として娶りさえすれば、その天文学的な富と、アデレード皇太后の強大な後ろ盾が丸ごと自らの家へと転がり込んでくる。

強欲と見栄に飢えた貴族の男たちにとって、ルチアは今や――どんな持参金付きの公爵令嬢よりも価値のある、社交界史上最高額の『黄金の花嫁』だった。


「……ふふ。大盛況ですわね」


皇太后が退席し、壇上からフロアへと降り立った瞬間、ルチアを取り囲むようにして、我先にと貴族の男たちが長蛇の列を作った。

その数、数十名。

名門侯爵家の嫡男、莫大な領地を持つ伯爵、果ては妻を亡くしたばかりの大富豪の貴族院議員に至るまで、錚々たる顔ぶれが、獲物に群がる飢えた狼のような熱狂的な瞳でルチアへと殺到していた。


「グラナート子爵令嬢! 今宵の美しさは、天上の星すら霞むほどだ! 我がスタンホープ侯爵家の舞踏会に、ぜひ貴女をお招きしたい!」

「ルチア様! 我が領地の肥沃な穀倉地帯の半分を、貴女の結納金として差し上げよう! どうか、私と婚約を……!」

「私です! 我が家と組めば、王都為替座の流通ルートをすべて貴女の自由にして差し上げられる!」


差し出される無数の花束。競い合うように囁かれる甘言と、見栄を張り散らかした資産のアピール。

常人であれば、その圧倒的な求愛の嵐に気圧され、あるいは虚栄心を満たされて頬を染めるところだろう。


――だが。

ルチア・フォン・グラナートの内心の計算機は、絶対零度のまま、超高速で男たちの解体作業を進めていた。


(……はい、品評会の再開ね。プロファイリング開始)


ルチアは唇に、完璧な、一分の隙もない営業用の聖女スマイルを浮かべたまま、目の前に立ったスタンホープ侯爵令息の全身を一瞬でスキャンした。


上着の金ボタンは豪奢だが、右袖の内側に微かな毛玉がある(=見栄で仕立てた最新の上着だが、日常的に競馬やカード賭博で肘をついて擦り切らせている証拠)。

自慢げに語る領地の規模に対して、首元のタイピンの宝石のカットが二流(=実家の帳簿は火の車、抵当権が何重にも設定されている)。

(ROI:マイナス四十パーセント。次男坊で発言権なし、ただの浪費家。……パス)


「まあ、スタンホープ様。身に余る光栄なお言葉、胸が震えますわ。ですが私のような未熟者が、名門侯爵家の敷居を跨ぐなど恐れ多くて……」


儚げに微笑んで辞退し、次の男へ。


穀倉地帯の半分を結納金にすると豪語した伯爵当主。

肥満体の腹を揺らし、脂汗を垂らしながら迫ってくる。

左手の薬指に、最近外したばかりの結婚指輪の白い日焼け跡がくっきりと残っている(=前妻が亡くなってまだ二ヶ月も経っていないのに、遺産目当てで後妻を探し回っている好色漢)。

漂うコロンの匂いに混じる、微かな痛風薬の独特の薬品臭(=健康寿命は長くて五年。だが死後の親族との遺産争いコストが莫大すぎる)。

(ROI:短期的なキャッシュフローはプラスだが、法的リスクと心理的コストが跳ね上がりすぎる。……パス)


「お優しいお心遣い、感謝いたしますわ、伯爵閣下。ですが、亡くなられた前妻様の喪が明けるまでは、私のような者が殿方のお側に侍るなど、神の御心に背いてしまいますもの……」


しおらしく目を伏せ、罪悪感を刺激して鮮やかにかわす。


次から次へと押し寄せる求婚者たち。

ルチアは相手の自尊心を傷つけることなく、全肯定の言葉と儚い涙目のコンボで男たちの庇護欲を煽り立てながら、手に入れた貴族たちの実家の資産状況、隠された負債、派閥の力関係の内部情報を、会話の端々から根こそぎ吸い上げて脳内の帳簿へとファイリングしていた。


(みんな、良い燃料(カモ)になりそうだわ。グラナート領のウイスキーの販路拡大と、街道整備の債券の引き受け先として、後でクラリスに名簿を渡して営業をかけさせましょう)


男たちの求婚を、ただの「無利子の資金調達先リスト」として冷徹に処理していくルチア。

その口元には、満面の、愛らしい微笑みが絶え間なく咲き誇っていた。


――だが。

その華やかで打算的な品評会を、広間の最奥、照明の届かない大理石の柱の影から、親の仇を見るような眼差しで凝視している男がいた。


「……ギ、ギリッ」


鈍く、硬質な音が、人影の薄い壁際で響いた。

見れば、漆黒の夜会服を纏った長身の青年――財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵が、手にしたクリスタル製のシャンパングラスのステム(脚)を、異常な握力で握りしめていた。

その指の関節は白く浮き上がり、グラスの表面には、今にもピシリと亀裂が走りそうなほどの圧力がかかっている。


「……か、閣下」


オスカーの背後に控えていた副官レオンハルトが、冷や汗を流しながら小声で囁いた。

その銀縁眼鏡の奥の瞳は、主人の異様な変貌に戦慄していた。


「あ、あの……閣下、顔が怖すぎます。周囲の貴族たちが、閣下の放つ殺気に怯えて半径十メートル以内に近寄れなくなっております。……今宵は皇太后陛下主催の公式夜会ですぞ。どうか自重を……」


「黙れ、レオンハルト」


地を這うような、絶対零度の低音。

オスカーの氷河のような青い双眸は、広間の中央で男たちに囲まれているルチアの姿から、一ミリたりとも逸らされていなかった。

その瞳の奥底で燃え盛っていたのは、氷の財務卿の冷静さなどでは断じてない。

内臓を焼き尽くさんばかりの、剥き出しの――『嫉妬』と、黒々とした獰猛な独占欲の炎だった。


(……あいつは)


オスカーの胸の奥で、激しい怒りと焦燥が渦を巻いていた。

昨夜、深夜の執務室において、暖炉の火の前で自分に見せたあの横顔。

誰のことも信じられず、孤独に怯え、傷つかないために『金』という名の冷たい盾の後ろで一人きりで震えていた、あの痛々しいほどに脆い少女の素顔。

自分自身のリソースのすべてを差し出してでも、その孤独ごと包み込んでやりたいと誓った――あのルチア・フォン・グラナートが。


今、何をしている?

有象無象の豚のような貴族どもに囲まれ、あんなにも柔らかく、愛らしく、鈴の音のような声で微笑みかけている。

上目遣いで男を見上げ、困ったように眉を下げ、細い手で胸元を押さえて――男どもの下卑た自尊心を愛撫し、骨抜きにしている。


(昨夜、俺の手はあんなにも冷酷に振り払っておきながら……!

なぜ、あんな中身の空っぽな有象無象の男どもには、あんなにも甘ったるい笑顔を振りまいているんだ!?)


理性が、焼き切れる音がした。

頭では分かっていた。ルチアがあの男たちに惚れているはずなどない。ただのビジネスであり、相手の資産状況を値踏みし、将来の獲物として手玉に取っているだけだと、理屈では完璧に理解できていた。


――だが。

理解できることと、許容できることは、まったくの別問題だった。


(あいつのあの顔を……あの計算尽くの蠱惑的な笑みを、俺以外の男に見せるな。

あいつの価値を、あいつの本当の魂の傷を、何一つ理解していない豚どもが……! あいつに触れようとするな、名前を呼ぶな、その薄汚い視線を向けるな……!!)


心理学における『資源防衛本能(テリトリー意識)』の極限の暴走。

自分が最初に見出し、その真価を世界で唯一理解していると自負している「至高の存在」。

それを他人に奪われそうになった瞬間、いかに高度な知性を持つ人間であっても、合理的なブレーキは完全に吹き飛ぶのだ。

冷徹無比な『氷の財務卿』の仮面が、内側から噴き出した灼熱のマグマによって、ドロドロに溶け崩れていく。


そして――決定的な瞬間が訪れた。


「ルチア様……! ああ、私の愛しい百合の花!」


人混みをかき分けてルチアの前に進み出たのは、王都でも指折りの名門大貴族、ロクスバーグ侯爵家の嫡男だった。

甘やかされて育った傲慢な青年は、ルチアの営業スマイルを「自分への気がある合図」だと完全に勘違いし、陶酔した面持ちで身を乗り出したのだ。


「我がロクスバーグ家の権勢があれば、貴女を王都で最も贅沢な正妃にして差し上げられる! さあ……僕と手を取り、次のワルツを踊っていただけますね!?」


青年はそう叫ぶと、ルチアの返答を待つことすらなく――。

その無作法な右手を伸ばし、ルチアのショールから覗く、透き通るような白磁の手首を、力任せに鷲掴みにしようとしたのだ。


ルチアの眉が、わずかにピクリと動いた。

(……お行儀の悪い坊ちゃんね。手首を掴むなんて、減点百点――)


ルチアが身を引いてかわそうとした、コンマ一秒前。


バシィィィッッ!!


大広間に、乾いた、激しい破裂音が響き渡った。


「ぐわっ……!?」


ロクスバーグ侯爵令息が、短い悲鳴を上げてよろめいた。

彼がルチアへ伸ばした右手が、横から叩きつけられた黒い革手袋によって、骨が軋むほどの暴力的な力で払いのけられたのだ。


「な……何だ貴様は!? 無礼な――」


怒鳴り散らそうとした令息の言葉が、喉の奥で氷のように凍りついた。

ルチアと男たちの間に、割り込むようにして立ち塞がっていたのは――。


漆黒の夜会服を纏った、長身の青年。

その濡れ羽色の黒髪の下から覗く、氷河の底から甦った死神のような青い瞳。

周囲の空気を絶対零度へと凍結させる、剥き出しの殺気を放つ男――財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵本人だった。


「ひっ……!?」

「ざ、財務卿閣下……!?」


周囲を取り囲んでいた貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げて後ずさった。

社交界において「決して女性に近寄らず、いかなる夜会でも壁の花として冷徹に佇むだけ」と恐れられていた氷の怪物が、自ら人混みを割って乱入し、あまつさえ大貴族の跡取りの手を力任せに叩き落としたのだ。

広間中の楽団の演奏がピタリと止まり、何百人もの貴族たちの視線が、一瞬にして壇下に集中する。


「お、オスカー閣下……!? な、何をするのですか、公衆の面前で!」


手を払われた侯爵令息が、手首を押さえながら顔面を蒼白にして叫んだ。

だが、オスカーは令息など一瞥もしていなかった。

彼の氷の刃のような視線は、ただ一人――背後に佇むルチア・フォン・グラナートの顔だけに、逃げ場を塞ぐように突き刺さっていた。


「……失礼したな、ロクスバーグ侯爵令息」


オスカーの声は、静かだった。

だが、その静けさの底には、逆鱗に触れた猛獣の獰猛な唸り声が響いていた。


「この令嬢の次の時間は――財務省筆頭の俺が、既に公務として買い取っている」


「こ、公務ですと……!? 舞踏会の最中に、一体何の公務だというのです!?」


「国家財政特務契約に基づく、極秘のヒアリングだ」


オスカーは冷酷に言い捨てた。

周囲の貴族たちに対する、完璧な建前。

ルチアと財務省の間に「特務契約」が存在しているという事実を盾にすることで、この異常な介入を公的な職務執行として強引に正当化し、貴族たちの前で下品なスキャンダルとして処理されるのを防ぐ――極めて冷徹で、合理的な口実。


だが――その建前の裏にある本音を、見抜けないルチアではなかった。


「……まあ、公爵閣下」


ルチアはショールを軽く押さえ、至近距離で見下ろしてくる男の青い瞳を見上げた。

その紫紺の瞳に、かすかな嘲弄の光を宿しながら。


「公務とは、ずいぶんと唐突ですわね。私のせっかくの……婚活の邪魔をしてくださるなんて」


「婚活だと?」


オスカーの額に、ピシリと青筋が浮き上がった。

男の理性の最後の防壁が、その一言で完全に消し飛んだ。


オスカーはルチアの返答を待つことなく、大股に踏み込んだ。

そして、周囲の貴族たちが息を呑むのも構わず――ルチアの華奢な腰へと、自らの逞しい腕を力強く回したのだ。


「あっ……!?」


ルチアの身体が、ふわりと引き寄せられる。

オスカーの分厚い胸板に、ルチアの純白のショールと胸元が、密着するほどの至近距離で衝突した。

革手袋越しではない、男の体温の熱さと、力強い筋肉の硬さ。

そして――至近距離でルチアの耳元へと顔を寄せたオスカーの唇から、周囲には決して聞こえない、低く掠れた独占欲の囁きが吐き捨てられた。


「値踏みなら俺一人にしておけ。――有象無象の豚どもにお前を触らせる気はない」


ドクン、と。

ルチアの胸の奥で、心臓が大きく跳ね上がった。

耳朶を打つ熱い吐息。

男の瞳の奥で渦巻く、狂おしいまでの執着と焦燥。


オスカーはそのまま、ルチアの腰を抱き寄せた腕を一切緩めることなく、呆然と立ち尽くす貴族たちを一瞥もしないまま、フロアの中央――誰もが息を呑んで見つめるダンスフロアのど真ん中へと、強引に彼女を連れ出したのだ。


「楽団。――ワルツを奏でろ」


氷の男の傲慢な号令が、静まり返った『鏡の間』に響き渡った。

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