第29話:ルチアの防衛買収
王都中央為替座の重厚なドーム建築の真下。一般の銀行員や為替仲買人たちが決して立ち入ることのできない、地下二階の公認記録保管庫のさらに奥――。
かつて廃道となった古い地下水路を改装して造られたその部屋は、外部の光も音も一切届かない、厚い石壁に守られた完全なる密室だった。
部屋の中央に置かれた黒檀の巨大な作戦机の上には、真鍮のランプが幾重もの蝋燭の炎を揺らし、青白い光を投げかけている。漂うのは、乾燥した羊皮紙の古びた匂いと、削られたばかりのチョークの微粉、そして濃く淹れられたブラックコーヒーの苦い香り。
部屋の壁一面を覆う巨大な黒板には、白と赤のチョークで、王都の経済を牛耳る蜘蛛の巣のような資本関係図がびっしりと描き殴られていた。
「――見ての通りよ。ロベルト・デュラン公爵の資金繰りは、外見の豪奢さとは裏腹に、すでに限界ギリギリの綱渡り状態だわ」
銀髪のショートカットを乱暴にかき上げ、チョークを指先で器用に回転させたのは、天才為替ディーラーのセレーナ・ハイドだった。
普段の冷静沈着な表情の奥に、獲物を追い詰める数学者特有の冷徹な狂気を宿らせ、彼女は黒板の中央に書かれた『デュラン通商』の文字を、赤いチョークで強く囲み直した。
その机を囲むように、ルチア・フォン・グラナートと、領地から急行してきた妹のクラリスが並んで座っていた。
机の上には、前夜にレオンハルトとエミリアが命懸けで運河の底から持ち帰った、あの漆黒の山羊革帳簿――ロベルト卿の『国家防衛費不正還流の裏帳簿』が、広げられたまま置かれている。
「……解説を聞かせてもらえるかしら、セレーナ?」
ルチアは冷え切ったコーヒーのカップを指先で弄びながら、静かに促した。
純白のモスリンドレスの上に、夜露を避けるための深い灰色のショールを羽織ったルチアの表情には、一分の焦りも浮かんでいない。三週間後に迫ったグラナート領の黒字倒産の危機など、まるで他国の出来事であるかのように澄み切っていた。
「単純な算数の話よ、ルチア様」
セレーナは黒板の図をチョークの背でコンコンと叩いた。
「ロベルト公爵は、グラナート商会を兵糧攻めにするために、二つの手を打ったわ。
一つは『五十パーセントの特別通行税』によるキャッシュの強奪。
そしてもう一つが、王都中央為替座に圧力をかけて仕掛けた『約束手形の決済停止勧告』。
……でもね、為替座という市場を強引に歪めて一介の商会を締め出すには、政治的な圧力だけじゃ足りないのよ。市場の資金供給元である民間銀行や大商会たちに、グラナート家の手形を拒絶させ、代わりに自らの息のかかった手形を流通させるための『莫大な裏保証金』が必要になる」
「つまり……ロベルト公爵側も、市場から大量の現金を吸い上げている、ということですの?」
クラリスが眼鏡の縁を人差し指で押し上げながら、手元の計算用紙から顔を上げた。
「その通りよ、お利口なクラリスちゃん」
セレーナがニヤリと笑う。
「ロベルト卿の傘下にある『デュラン通商』、そしてその配下にある港湾物流商会、東部穀物卸、石炭燃料ギルド……これら十数社におよぶ提携企業群は今、グラナート商会を市場から締め出すための買占め資金として、王都為替座から『短期の約束手形』を異常なペースで乱発しているわ。
市場から短期資金を猛烈に借り入れ、グラナート領へ入るはずだった物資や為替枠を力づくで買い占めて封鎖しているの。……その結果、どうなったと思う?」
セレーナは黒板の数字を指差した。
「流動性比率――わずか『十一パーセント』。
手元の現金比率は、歴史上最も危険な水準まで落ち込んでいるわ。
ロベルト派の商会群は、帳簿上は巨大な資産を抱えているように見えて、実態は『明日入ってくる売上で、今日満期の借金を返す』という自転車操業の極致。
……あいつらは、グラナート家を兵糧攻めで窒息死させようと首を絞めているつもりで、自分自身の呼吸器も限界まで圧迫しているのよ」
「……なるほど」
ルチアの口元に、冷酷極まる狩人の笑みが浮かんだ。
前世――数多の上場企業が巻き込まれた敵対的買収(TOB)や、レバレッジド・バイアウト(LBO)の修羅場を想起させる、典型的な『脆弱な巨人』の姿だった。
攻撃に全戦力を注ぎ込むあまり、自らの足元と背面の守備がガラ空きになっている状態。
相手がこちらを黒字倒産に追い込もうとしているのなら――相手自身が仕掛けてきたその『短期資金の依存体質』こそが、最も致命的な急所となるのだ。
「セレーナ。相手の手形の期日は?」
「ここからが最高に面白いところよ」
セレーナは机の上に、厚い束になった為替市場の取引日報を叩きつけた。
「デュラン傘下の主要五商会が発行した約束手形、総額『金貨四千枚』相当。
その満期日は――今月末から来月頭にかけて、綺麗に集中しているわ。
グラナート商会を倒産に追い込み、その利権を奪い取って手に入れた金で決済する皮算用だったんでしょうね。
今、為替座の市場には、満期まであと二週間を切ったデュラン派の手形が、大量に流通しているわ。……そして、市場のブローカーたちは、ロベルト卿が近々巨額の利益を手に入れると信じ込んでいるから、この手形を『極めて安全な債権』だと盲信している」
「安全な債権、ね……」
ルチアは立ち上がり、黒板の前に歩み寄った。
紫紺の瞳が、獲物の血管を透視するように細められる。
「ならば、話は極めて単純ですわね。……市場に出回っているデュラン派の手形を、裏からすべて買い集めます」
「……敵対的買収ですわね、姉様」
クラリスが即座に言葉を継いだ。その声には、武者震いのような興奮が混じっていた。
「相手が我が領の首を絞めるために使っている借金の証書(手形)を、私たちが水面下で根こそぎ買い占める。
そして満期の期日が到来した瞬間――『耳を揃えて即日現金で全額返済しろ』と一括請求を突きつける。
手元のキャッシュ比率が十一パーセントしかないデュラン派の商会群に、金貨四千枚もの現金を即日で用意できるはずがありません。……手形は不渡りとなり、攻撃側であるはずのロベルト派が、一瞬にして連鎖破綻に追い込まれますわ!」
完璧な逆転劇の構図。
だが――そこでクラリスは、ふと眉を曇らせ、現実的な懸念を口にした。
「……ですが、姉様。問題は『買収資金』です。
金貨四千枚相当の手形を市場から買い集めるには、最低でも金貨三千枚以上の現金が今すぐ必要です。
我がグラナート領は、先日の紡績工場や街道のインフラ投資で手持ちの資金をほとんど使い切っており、為替口座も凍結されている。……これほどの大金を、一体どこから調達なさるおつもりですの?
まさか、オスカー閣下に頭を下げて、公爵家の個人資産を借り受けるおつもりでは……?」
「いいえ、クラリス」
ルチアは静かに首を横に振った。
「第27話でも言った通り、オスカー様の個人資産に甘えれば、それはただの借金であり、ロベルト卿に『財務卿の不正な私的融資』という格好の攻撃材料を与えることになるわ。……私が使うのは、一分の隙もない、公的に正当な二つの『正規資金』よ」
ルチアはバッグから、二通の金泥押しの羊皮紙を取り出し、机の上に並べた。
一通目。
そこには、前国王の正妃にして社交界の女帝、アデレード皇太后の直筆署名と王室印章が押されていた。
――『王室御用達ロイヤリティ・向こう半年分の前払い承諾書』。
「第24話で、私が皇太后陛下にプレゼンした契約を覚えているかしら?
我が領の特産品の売上の二割を、永久ロイヤリティとして王室の内廷費へ直接納入する契約よ。
今朝方、エミリアを通じて皇太后宮へ密使を飛ばし、この契約の裏付けをもとに、向こう半年分のロイヤリティ受取権を担保にして、内廷費の予備資金から『金貨二千枚』の即時前払い融資を引き出す承諾を取り付けましたわ」
「こ、皇太后陛下から……金貨二千枚の前払い……!?」
クラリスが息を呑んだ。
王室の内廷費の赤字を救う約束を取り付けたからこそ、女帝はルチアの経済手腕に絶対の信頼を置き、巨額のキャッシュを躊躇なく前貸ししてくれたのだ。
「そして――二通目よ」
ルチアが示したもう一通の書類。
そこには、財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイトの直筆印が押された、財務省の公文書があった。
――『国家反逆および脱税容疑に伴う、押収資産の保全調査前払金』。
「昨夜、レオンハルト様が命懸けで奪取してくれた、ロベルト卿の不正裏帳簿。
あの帳簿の精査に基づき、財務省は『デュラン通商が横領した国家予算の回収見込み額』として、法的に認められた監査特務予算枠から、調査協力金として『金貨二千枚』の正規出金枠を執行させたわ。
オスカー様の個人資産ではない。公的な監査制度の枠組みを限界まで活用した、一点の曇りもない合法的公金よ」
二千枚と、二千枚。
合わせて――金貨四千枚(日本円にして約四十億円相当)の、圧倒的なメガ・資金プール。
「……完璧だわ」
セレーナが舌を巻き、感嘆のため息を漏らした。
「王室の後ろ盾と、国家の司法監査枠。この二つを綺麗に組み合わせて、一銭の不正融資の疑いもかけられない完璧な買収軍資金を作り上げるなんて……。ルチア様、本当に貴女の頭脳はどうなっているの?」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくわ、セレーナ。……さあ、資金の裏付けは取れたわ。ここからが、あなたの出番よ」
ルチアの視線が、鋭くセレーナへと向けられた。
「セレーナ。為替座のフロアにおいて、デュラン傘下の流通商会が発行した手形を、市場から密かに買い集めなさい。
ただし――決してこちらの意図を悟られてはならないわ。一度に大口で買い上がれば、相場が跳ね上がり、ロベルト卿に警戒される。
複数のダミー商会、下町の投資組合、さらには国外の投資ファンドの名義を二十個以上に分散させ、期日間近で投げ売りされている手形を、市場価格の『八割(20%引き)』で淡々と、目立たぬように拾い集めるのよ」
「任せておいて」
セレーナの瞳に、獲物を狙う鷹のような鋭利な光が灯った。
「市場の歪み(アービトラージ)を突いて、誰にも気づかれずにポジションを積み上げるのは、私の十八番よ。
為替座のブローカーたちには『南方の新興投資家が、満期保有目的で利回りの良い優良手形を分散して買い集めている』とでも思わせておくわ。……一週間以内に、デュラン派が市場にばら撒いた手形の八割以上を、完全に私たちの胃袋の中に収めてみせる」
「頼もしいわね。――そして、クラリス」
「はい、姉様!」
クラリスが居住まいを正した。
「あなたがやるべきは、手形の裏に張り付いている『実物資産(現物担保)』の法的包囲よ」
ルチアは妹の前に、先ほどの裏帳簿から抜き出した、デュラン傘下の商会群の保有倉庫リストを差し出した。
「手形が不渡りになった時、紙切れになった借用書をただ眺めていても一銅貨の得にもならないわ。私たちが真に手に入れるべきは、王国の動脈たる彼らの『実物資産』よ。
手形の約款を徹底的に精査し、決済不能に陥った瞬間、彼らの保有する全資産を即座に合法的に差し押さえるための書類を、今から完璧に仕上げておきなさい」
「……お任せください、姉様」
クラリスは眼鏡を押し上げ、冷徹な財務官の顔つきで頷いた。
「手形の標準約款・第7条。『期日に決済が履行されない場合、発行元商会が保有する全在庫商品、ならびに物流拠点たる倉庫の土地建物に対し、債権者は裁判所の令状を待たずして第一優先順位の先取特権を行使できる』。
……デュラン派の商会群が王都周辺に保有している倉庫には、現在、冬の間に王都全域で消費されるはずの『小麦二万袋』、そして暖房用の『最高級石炭三千トン』が満杯に保管されていますわ。
手形が決済できなくなったその瞬間――王都の冬の命綱たる穀物と燃料のすべてが、法的にグラナート商会の所有物となる差押え執行書を、一分の隙もなく作成してみせます!」
完璧な連係プレー。
セレーナが金融市場の数字で首輪を買い占め、クラリスが法と実物物流の網で退路を塞ぎ、ルチアがその全体を操る。
男性中心の権力社会の片隅で、弱小と見做され、侮られてきた女性たちの頭脳が、国家の絶対権力者を完膚なきまでに包囲する巨大な罠を完成させていく。
「……ふふ」
ルチアは立ち上がり、黒板の前に置かれたワイングラスを取り上げた。
注がれていたのは、グラナート領の至宝『グラナート・アンバー』。
琥珀色の液体を揺らし、黒板の中央に書かれた『ロベルト・デュラン』の名を、ランプの光にかざす。
ロベルト・デュラン公爵。
貴族院の絶対の権威を盾に、グラナート商会へ五十パーセントの通行税を課し、為替の決済を停止させ、今頃はデュラン公爵邸の贅沢なサロンで、貧乏子爵家が窒息死していく様を高笑いしながら待っているはずの老貴族。
己が仕掛けた兵糧攻めの裏側で、自らの心臓部に繋がる太い血管(手形)が、一本残らず敵の手によって買い占められていることなど、夢にも思わずに。
(哀れな古狸……。
あなたが私を締め上げるために伸ばしたその傲慢な腕は、今や、私たちの掌の中にしっかりと握られているのよ)
ルチアの紫紺の瞳が、月光のように冷たく、妖艶に細められた。
グラスを傾け、芳醇な琥珀色の美酒を喉へと滑り込ませる。
その唇からこぼれ落ちたのは――残酷なまでの美しさを湛えた、完全なる勝利の宣告だった。
「私の首を絞めようと差し伸べられたその腕ごと、買い取って差し上げましたわ」
地下の密室に、三人の女性たちの不敵な笑みが静かに重なり合った。
準備は、すべて整った。
あとは――この罠の引き金を引き、傲慢な権力者を奈落の底へと突き落とす、決戦の夜を待つばかりだった。




