第19話:分け前の使い道
秋雨が石造りの窓枠を濡らす、薄暗い昼下がり。
官庁街の最奥、ヴァルハイト公爵邸の財務卿執務室には、乾いた紙の擦れ合う音と、羽ペンの走る微かな響きだけが満ちていた。
二日前に王都を揺るがした、高級サロン『白百合の間』の強制捜査。
名門侯爵カシアンの破滅、サロンの女王イザベラの失脚、そして地下工房から押収された大量の贋作絵画と裏帳簿の山――社交界を襲ったその激震の震源地にありながら、執務室の主であるオスカー・フォン・ヴァルハイト公爵の表情は、氷河のように静まり返っていた。
「……査定が完了した」
オスカーは執務机の上で分厚い監査書類を揃えると、その冷徹な青い双眸を、応接ソファに座るルチア・フォン・グラナートへと向けた。
机の脇には、副官のレオンハルトが直立不動で控えている。その銀縁眼鏡の奥の眼差しには、前回の事前講義の時の露骨な侮蔑は微塵もなく、深々とした敬意と、未だ底の知れない怪物を前にしたような緊張が宿っていた。
「イザベラの地下金庫から押収された不正蓄財、ならびにカシアンが落札のために差し出した即日手形。これらはロベルト公爵派閥の裏金口座と複雑に絡み合っていたが、財務省の権限により、流動資産のすべてを国庫預金へと強制接収した」
オスカーは机の引き出しから、一枚の豪奢な羊皮紙を取り出した。
王立中央為替座の最高格式を示す金泥の縁取り。そこには、財務卿の直筆署名と王室財政特務印が、寸分の狂いもなく捺印されていた。
「押収総額のうち、現金および即時換金可能な為替手形として清算が完了した第一弾の確定流動額は、金貨三千枚。残りの不動産、鉱山抵当、長期手形に関しては、順次市場で競売にかけ、換金され次第追加清算する。……まずは契約通り、今回の即時確定分の三割(30%)だ」
オスカーの手から、その羊皮紙がローテーブルの上へと滑り出された。
ルチアの目の前に置かれた小切手。そこに刻印されていた数字は――。
『金貨、九百枚』
日本円にして、およそ九億円相当の巨額のキャッシュ。
平民であれば数世代にわたって贅沢の限りを尽くして遊んで暮らせる、目も眩むような大金だった。
「受け取れ、ルチア。契約通りの三割だ。文句はあるまい」
「ええ、一銅貨の狂いもございませんわ。完璧な清算ですこと、財務卿閣下」
ルチアは純白のモスリンドレスの袖口を優雅に整え、細い指先でその小切手を引き寄せた。
その紫紺の瞳は、九百枚という数字を前にしても、歓喜に濁ることも、欲に狂うこともない。ただ、受け取るべき当然の報酬を確認するように、冷徹な光を湛えていた。
オスカーは腕を組み、探るような視線をルチアへと注いだ。
「金貨九百枚だぞ。……貴族の令嬢ならば、王都の一等地に豪邸を買い、東方の最高級シルクのドレスを何十着も仕立て、宝石商を館に呼びつけて買い漁る金額だ。前回のユリアンから吸い上げた九百枚と合わせれば、お前の手元には今、金貨二千枚近い流動資産がある。……何に使うつもりだ? 贅沢に溺れるなら、今のうちだぞ」
試すような、冷たい問いかけ。
だが、ルチアは小さく首を横に振り、薄い唇に微かな苦笑を浮かべただけだった。
「宝石もドレスも、身を滅ぼす無駄な減価償却資産に過ぎませんわ。あんなものは、獲物を釣るための舞台衣装として数着あれば十分ですもの」
ルチアはバッグから、あらかじめ用意していた一枚の書類を取り出した。
王立中央為替座の公式振込依頼票。
そこには、すでに流麗な筆致で、ルチア自身の裏書署名と、送金先の口座名義が記されていた。
『送金先:グラナート子爵領・地方復興開発特定口座
受取代表者:クラリス・フォン・グラナート
送金額:金貨九百枚整』
「……全額か」
オスカーの眉が、わずかに動いた。
傍らに控えていたレオンハルトも、驚きのあまり眼鏡の縁を直しながら息を呑んだ。
「一銅貨も自分の手元に残さず、即日、全額を領地口座へ電信送金する気か? グラナート領は、王都から遠く離れた貧しい寒村だぞ。そこにこれほどの大金を注ぎ込んでも、短期的には何の贅沢もできんぞ」
「贅沢など、端から望んでおりませんわ」
ルチアは小切手に振込依頼票を重ね、レオンハルトへと手渡した。
「金とは、金庫に死蔵させるためにあるのではありません。適切な場所に、適切なタイミングで流し込み、より巨大な価値と安全を生み出すための『血液』ですもの。……閣下、この送金手続き、財務省の特務優先ラインで即時執行をお願いできますかしら?」
「……フッ」
オスカーの薄い唇の端が、微かに持ち上がった。
冷酷無比な氷の男の瞳の奥底に、得体の知れない強い光が宿る。
「レオンハルト。至急、中央為替座へ回せ。グラナート領への送金に、いかなる関税も手数料も引かせるな。最優先電信で即刻送金させろ」
「はっ……! ただちに!」
レオンハルトは深々と一礼し、小切手を手に執務室を辞していった。
退室する間際、その青年官僚がルチアへ向けた視線は――もはや犯罪者への警戒などではなく、一国の経済政策を担う高潔な指導者を見るかのような、純粋な敬意に染まり切っていた。
それから、五日後の朝。
王都の下町にほど近い、ルチアが滞在している高級宿の居間。
窓から差し込む秋の光を浴びながら、ルチアは専属メイドのエミリアが淹れてくれたカモミールティーを口に含んでいた。
「お嬢様! 領地から特急飛脚便が届きました!」
エミリアが、息を切らしながら居間へと飛び込んできた。
その手には、グラナート家の銀の蝋印で封印された、異常なほど分厚い羊皮紙の封筒が握られている。
封筒の宛名には、定規で引いたように寸分の狂いもない、几帳面で鋭利な文字が並んでいた。
十五歳の実妹、クラリス・フォン・グラナートからの直筆親書だった。
「ご苦労様、エミリア。待ちわびていたわ」
ルチアはペーパーナイフを取り、丁寧に封蝋を切り開いた。
中から現れたのは、何十枚にも及ぶ詳細な決算報告書、設計図面、そして妹の熱情が迸る長文の手紙だった。
『敬愛する姉様へ。
王都中央為替座からの電信送金、金貨九百枚。確かに我がグラナート領の復興口座へ着金いたしました。通帳に記帳された桁外れの数字を見た瞬間、思わず算盤を取り落として眼鏡を割りそうになりましたわ。
ですが、感傷に浸っている暇など一秒もありませんでした。
姉様が送ってくださった資金を、一銅貨の無駄もなく、最も投資対効果(ROI)の高いインフラへと投じるため、私とクラリスの全知全能を注ぎ込んで策定した『グラナート第1期産業振興計画』……その中間報告を申し上げます』
ルチアはふっと口元を綻ばせ、書類をめくった。
そこには、クラリスの恐るべき実務能力と、姉への絶対的な信頼が形となった、息を呑むような数字と事実が羅列されていた。
第一に、生産インフラの完成。
――『グラナート第1期紡績工場、工期を三週間前倒しして竣工・稼働開始』。
寒冷地特有の険しい山岳地帯に生息する、羊毛の細さと保温性に優れた希少種『スノウ・シープ』。かつては加工技術がなく、原毛のまま安値で買い叩かれていたその羊毛を、最新鋭の水力紡績機によって極細の糸へと加工する大規模工場が、領内の河川沿いに完成したのだ。
『姉様のご指示通り、工場の機械設備には金貨三百枚を投じ、東方諸国から最も効率的な自動織機を一括導入いたしました。これにより、従来の家内制手工業と比較して、生産効率は実に四百二十パーセントに跳ね上がっております』
第二に、雇用の創出と人道支援。
クラリスの筆致は、ここで一段と熱を帯びていた。
『何よりもご報告したいのは、領民たちの激変です。
長年の飢餓と不作、そして悪徳高利貸しによる搾取に苦しんでいた近隣の農民、冬を越せずに凍死しかけていた浮浪児、夫を亡くして路頭に迷っていた未亡人たち……合わせて『四百五十名』を、工場の正規工員として即日雇用いたしました。
出来高払いによる買いたたきを一切禁じ、最低限の生活を保障する固定給に加え、生産目標に応じた出来高ボーナスを支給する労働契約を結びました。
現在、工場に併設した宿舎と給食所には、温かい麦飯と肉スープの湯気が絶えることなく立ち上っております。領民たちの頬には赤みが戻り、子供たちの飢えによる泣き声は、領内から完全に消え去りました』
そして、手紙には父ルーファスの様子も克明に記されていた。
『お人好しの父上は、この一週間、嬉し涙を流しっぱなしです。
貴族の礼服を脱ぎ捨て、泥まみれの作業着を着て、毎日工場の建設現場で大工たちに混じって木材を運び、炊き出しの鍋をかき混ぜております。
領民たちが父上の手を握り、「グラナート子爵様、ルチアお嬢様、ありがとうございます! この冬を生き延びられます!」と泣き崩れるたび、父上も一緒になって「ルチアのおかげだ、私の誇らしい娘のおかげだ」と声を上げて号泣しております。
……正直、経営者としては少々感情的すぎて困りものですが、領民たちの士気と結束力は、かつてないほど最高潮に達しておりますわ』
ルチアの胸の奥に、じんわりとした温かい波が広がっていく。
頭を抱えて「すまない、首を吊る」と泣いていた、あの不器用でお人好しの父。
青カビのパンを前に怯えていた妹。
彼らが今、前を向き、泥にまみれながら、自らの足でしっかりと未来を切り拓いている。
そして、手紙の最後には――クラリス特有の、冷徹で誇らしげな『財務長官の言葉』が添えられていた。
『姉様。いただいた金貨九百枚の資本投下に対し、この紡績工場がもたらす初年度の純利益率は、保守的に見積もっても『年率十八パーセント(ROI 18%)』を見込んでおります。
二年目以降、王都への物流街道が完全に舗装されれば、利益率は三十パーセントを超え、投下資本は三年以内に全額回収可能です。
姉様が命を削って王都で調達してくださった黄金は、一銅貨たりとも無駄にはいたしません。
我がグラナート領は、もはや施しを乞う貧乏領地ではありません。自らの力で富を生み出し、他者を圧倒する強大な経済の城塞へと、必ずや育て上げてみせます。
……追伸。姉様、どうかご無理だけはなさらないでくださいね。私たちは、姉様のお帰りをお待ちしております。 クラリスより』
「……ふふ」
ルチアは手紙を胸元に抱きしめ、窓の外の青空を見つめた。
思わず、唇から柔らかな吐息がこぼれ落ちる。
「本当に……頼もしい妹ね。私の予想を遥かに超えるスピードで、帳簿を現実の力に変えてみせるなんて」
「お嬢様……」
傍らで手紙の内容を耳にしていたエミリアが、ハンカチで目元を押さえ、涙ぐんでいた。
「領地のみんなが……飢えずに済んだのですね。あんなにボロボロだった村に、工場が建って、みんながお腹いっぱいパンを食べられているのですね……!」
「ええ、そうよ、エミリア」
ルチアは立ち上がり、机の上に広げられた紡績工場の図面へと視線を落とした。
前世――警視庁捜査二課に追われ、孤独の果てに過労死した結婚詐欺師、一条玲奈の記憶。
あの頃の自分にとって、金とは何だったか?
他者を支配し、見下し、己が傷つかないために心の周囲に高く積み上げた、冷たい氷の壁に過ぎなかった。いくら通帳の残高が増えようと、心は常に飢え、誰のことも信じられず、最後は冷たいフローリングの上で一人きりで死んだ。
だが――今世は違う。
自分がクズ貴族たちを手玉に取り、彼らの醜悪な見栄と強欲の隙間から合法的に搾り取った汚れた金。
カシアン侯爵が自滅して吐き出した金、イザベラ伯爵夫人が令嬢たちから巻き上げて地下に隠していた金。
あのドロドロとした欲望の汚泥のような黄金が――妹の手を経て、領民たちの命を繋ぐ麦の穂となり、寒さを防ぐ上質な毛糸となり、何百人もの人間が誇りを持って働くための工場へと生まれ変わったのだ。
(これこそが……経済の乗数効果。そして、真の『富の再分配』よ)
強欲な豚たちの金庫の中で死蔵されていた金を引きずり出し、最もそれを必要としている生産の現場へと還流させる。
ただの慈善活動ではない。持続可能な富を生み出し続ける、強固な経済特区の土台。
ルチアは窓辺に歩み寄り、王都の青空の彼方、遥か西に広がるグラナート領の山並みへと想いを馳せた。
その紫紺の瞳に宿っていたのは、前世の孤独な詐欺師の冷たさではなかった。
己が知恵と度胸によって、理不尽な階級社会のルールを根底からハックし、愛する家族と民を救い上げる――至高の勝者の光だった。
「悪党から巻き上げた汚れた金でも――パンを焼き、工場を建てる薪になれば、極上の黄金に変わるのです」
手紙を大切に机の引き出しへと仕舞い込んだルチアの背中に、秋の柔らかな日差しが、眩い後光のように降り注いでいた。
だが――彼女の戦いは、まだ終わってはいなかった。
今夜、この成功の余韻の先に待つのは、あの絶対に女に騙されないはずの冷血漢――『氷の財務卿』オスカー・フォン・ヴァルハイトとの、二人きりの密談だった。




