第20話:氷の男の狂い始め
深夜二時を告げる置時計の重々しい鐘の音が、分厚い絨毯に吸い込まれるようにして静かに消え去った。
ヴァルハイト公爵邸北棟、最上階の財務卿執務室。
昼間は財務省のエリート官僚たちが行き交い、不正を暴く冷徹な刃のような緊張感が張り詰めていたこの空間も、今は照明のほとんどが落とされ、赤々と爆ぜる大理石の暖炉の炎だけが、薄暗い部屋の輪郭を揺らめく陰影で染め上げていた。
机の上に山積みされていたカシアン侯爵の負債目録や、イザベラ伯爵夫人の押収帳簿は、すでにすべて綺麗に片付けられている。
副官のレオンハルトをはじめとする監査官たちも、今宵ばかりはオスカーの命によって全員が館を退出させられていた。
厳重な防音扉に閉ざされた密室に残されたのは、暖炉の前の重厚な革張りアームチェアに腰掛ける、二つの影だけだった。
「……飲め。今夜ばかりは、帳簿の数字を追う必要はない」
低く、耳朶を震わせるような美声とともに、カチャリと澄んだ音が鳴った。
漆黒の上着のボタンを二つほど外し、普段の鉄壁の威圧感をわずかに緩めたオスカー・フォン・ヴァルハイト公爵が、自ら抜栓したガラスのデキャンタから、二つのクリスタルグラスへと深紅の液体を注ぎ分けたのだ。
立ち上るのは、果実の濃厚な甘みとオーク樽の薫香が複雑に絡み合った、息を呑むほど芳醇な香り。
王室直属の極秘セラーにのみ保管され、公爵家ですら国家的な慶事でしか抜くことが許されないとされる、樹齢百年の古木から作られた伝説のヴィンテージ・ワインだった。
「まあ……閣下自ら給仕をしてくださるなんて。光栄すぎて、後から法外な請求書が回ってこないか心配になりますわね」
向かいのアームチェアに座るルチア・フォン・グラナートは、薄く開いた唇に皮肉めいた笑みを浮かべながら、差し出されたグラスを指先で受け取った。
彼女の装いは、サロン『白百合の間』でカシアンを手玉に取った時と同じ、装飾を削ぎ落とした純白のモスリンドレスのままだった。
胸元には宝石の一つもなく、夜風に冷えた白磁の鎖骨が、暖炉の赤い火照りを浴びて淡い桜色に染まっている。
「くだらない軽口を叩くな。……完勝の祝杯だ」
オスカーは自らのグラスを持ち上げ、ルチアのグラスの縁へと軽く打ち鳴らした。
チィン、と高く澄み切った硬質な音が、静寂の執務室に心地よく響き渡る。
「カシアン・フォン・ベルンハルトは近衛騎士団を罷免され、貴族院の査問会を経て領地没収と平民への降格処分が決定した。イザベラも国家反逆審問所の地下牢で完全に口を割り、サロンに群がっていた汚職貴族どもの裏金ルートが次々と凍結されている。……貴族院のロベルト公爵派閥の財務基盤に、修復不能な巨大な亀裂を入れることができた」
オスカーはグラスを傾け、深紅の雫を喉へと滑り込ませた。
その氷河のような青い双眸が、グラスの縁越しに、静かにワインを口に含むルチアの横顔をじっと射抜く。
「そして――今朝方、為替座から報告書が上がってきた。お前に支払った成功報酬、金貨九百枚。……本当に、一銅貨の狂いもなく、全額がグラナート領の復興特定口座へと電信送金されていたな」
「ええ。ご丁寧にご確認いただき恐縮ですわ」
ルチアは優雅に息を吐き出し、グラスを膝の上へと戻した。
「妹のクラリスから、先ほど詳細な事業報告が届きましたの。最新鋭の水力紡績機を導入した大規模工場が稼働を開始し、近隣の飢えた農民や孤児たち四百五十名に安定した雇用と温かい食事を提供できましたわ。初年度の投資対効果(ROI)は十八パーセントを見込んでおります。……私の試算通りの、実に健全で実入りの良い資本投下ですこと」
淡々と、まるで他国の景気動向でも語るかのように数字を並べるルチア。
その口調には、飢えた領民を救ったという道徳的な自負も、善行を成し遂げたことへの陶酔も、微塵も含まれていなかった。
ただ、冷徹な投資家が、計画通りの利回りを確認した時のような無機質な満足感。
オスカーはグラスを持ったまま、暖炉の火を見つめるルチアの顔から、視線を逸らさなかった。
その青い瞳の奥に、説明のつかない奇妙なざらつき――底知れぬ違和感と、得体の知れない苛立ちが混ざり合った感情が、じわりと滲み出していた。
「……不可解だな」
ぽつりと、オスカーが呟いた。
「何がですの、閣下?」
「お前という人間だ」
オスカーは身を乗り出し、肘を膝についてルチアの至近距離へと顔を寄せた。
影が落ちた彫刻のような端正な顔立ち。至近距離で見つめられるその眼差しは、鋭利なメスのようにルチアの内面を解剖しようとしていた。
「前回のユリアンから巻き上げた金貨九百枚、そして今回のイザベラとカシアンの解体で手に入れた九百枚。……合わせれば千八百枚だ。平民が一生遊んで暮らせるどころか、小国の小領主なら軍隊を雇えるほどの富だぞ。
だというのに……お前は王都に豪邸を借りるでもなく、贅沢な調度品を揃えるでもなく、下町の安宿に泊まり続けている。今身につけているドレスも、仕立て直しの利く安価なモスリンの一着だけだ。宝石商を呼んだ形跡もなければ、高級レストランで美食に舌鼓を打った記録もない。……手に入れた莫大な富のすべてを、妹と父、そして領民のインフラへと即座に流し込んだ」
オスカーの低い声が、静かに熱を帯びていく。
「他人の欲望や見栄、下卑た下心には異常なほど敏感で、それを完璧に手玉に取って骨の髄まで搾り取るくせに……なぜ、お前自身の贅沢にはこれほどまでに無頓着なんだ?
金に汚い守銭奴の顔をして、その実、自分を着飾ることにも、美食に溺れることにも一切の興味を示さない。……ルチア・フォン・グラナート。お前自身の欲望は、一体どこにある?」
直球の問いかけ。
これまで数多の貴族たちの嘘と虚飾を暴いてきた『氷の財務卿』が、目の前の少女の「矛盾」に耐えかねて投げかけた、魂の詮索。
だが――ルチアは動じなかった。
彼女は手元のワイングラスの深紅の波紋を静かに見つめ、ふっと、乾いた、どこか自嘲気味な笑みをこぼした。
「……贅沢品など、身を滅ぼす足枷に過ぎませんわ」
「足枷だと?」
「ええ」
ルチアは顔を上げず、暖炉で爆ぜる薪の火を見つめたまま、静かに言葉を紡いだ。
「豪奢なドレスや目も眩むような宝石、広大な屋敷に豪勢な食事……あのようなものはすべて、他人に『私を羨め』と誇示するためだけの、中身のない虚飾の記号に過ぎません。手に入れれば入れるほど、それを維持するために余計な金がかかり、他人の嫉妬を買い、盗難に怯え、最後は自らの首を絞める鎖になる。カシアン侯爵やヴィヴィアン様がそうであったようにね」
「ならば……お前は何のために金を求める? 何のために、絞首台の危険を冒してまで詐欺を働き、他人から富を奪い取っているんだ?」
「決まっていますわ」
ルチアの紫紺の瞳が、ふっと冷たく、光を失った。
「――自由と、安全です」
その声は、驚くほど平坦で、それゆえに絶対的な重みを孕んでいた。
「私にとって、金とは贅沢をするためのチケットではありません。誰にも奪われない、誰にも脅かされない、絶対的な自由と安全を買うための『盾』。……それ以上の意味など、最初から一銅貨分も持ち合わせておりませんの」
オスカーの喉が、微かに動いた。
「盾、だと……?」
「ええ。金がなければ、人は飢え、寒さに凍え、他人のお情けに縋るしかなくなります。悪徳高利貸しに身体を売れと脅され、元婚約者に嘲笑われ、権力者の一言で理不尽に踏み躙られる。……私は、そんな無力な存在でいることが、死ぬよりも耐えられないのです」
ルチアの細い指先が、グラスの脚を白くなるほど強く握りしめた。
「他人の善意や同情など、気まぐれな風と同じです。今日優しくしてくれた人間が、明日には裏切り、後ろから刺してくるかもしれない。……信じられるのは、数字だけです。裏切らないのは、貸借対照表の冷徹な事実だけ。
だから私は、奪われる前に奪い、相手の愚かさを燃料にして、我がグラナート領を何者にも侵されない巨大な城塞へと育て上げているのです。妹や父、領民たちを守るのも、情けなどではありませんわ。彼らが豊かで強靭であればあるほど、私という存在の安全保障が強固になるから……ただの、合理的なリスクヘッジ(危機回避)です」
淡々と語られる、徹底的な人間不信と、冷徹極まる功利主義。
十八歳の子爵令嬢が口にするには、あまりにも歪で、あまりにも血の通わない論理。
――だが。
その言葉を紡ぐルチアの横顔に、オスカーの目は釘付けになっていた。
暖炉の赤い光に照らし出された、透き通るような白磁の横顔。
毅然として前を見据えているはずのその紫紺の瞳の奥底に、ふと、何の前触れもなく――この世の果てを見てきたかのような、底知れぬ深い『闇』が揺らめいたのだ。
それは、今を生きる子爵令嬢ルチアのものではない。
前世――誰のことも信じられず、男たちの欲望を手玉に取って巨万の富を築き上げながら、最後は信頼していた相棒に裏切られ、狭い部屋の冷たいフローリングの上で、心臓を掻きむしりながら一人きりで孤独死していった女、一条玲奈の亡霊。
(……ああ。そうだわ)
ルチアの脳裏に、前世の最期の光景がかすかに過る。
(私は、あの時から何一つ変わっていない。
どれほど金を積み上げても、どれほど完璧に男たちを罠にハメても……私の心の金庫は、いつだって空っぽのまま。傷つかないために、裏切られないために、私は今も……冷たい金の盾の後ろで、一人で震えているだけなんだわ……)
ほんの一瞬。
コンマ数秒の間だけ、ルチアの纏っていた完璧な詐欺師の仮面が、かすかに軋んで隙間を覗かせた。
触れれば今にも粉々に崩れ落ちてしまいそうな、痛々しいほどの孤独。
世界中のすべてを拒絶し、誰からの愛も受け取ろうとしない、傷だらけの魂の輪郭。
――ドクン。
オスカーの胸の奥底で、かつて感じたことのない激しい衝撃が走った。
心臓が、まるで冷水を叩きつけられたかのように跳ね上がる。
(……こいつは)
オスカーは息を呑んだ。
目の前にいるのは、悪辣な貴族たちを嘲笑い、国家財政を食い荒らす害虫を次々と破滅に追い込んできた、恐るべき稀代のペテン師だ。
恐れを知らず、冷酷で、強欲で、狡猾な怪物。
そう思っていた。
そう評価していたはずだった。
だが――違った。
この女は、悪女などではない。
強欲に溺れて他者を傷つけているのでもない。
誰からも愛されず、誰のことも信じられず、ただ理不尽な世界から己の魂を守るためだけに、必死になって『金』という名の冷たい鎧を身に纏い、孤独な戦場に立ち続けている――あまりにも不器用で、痛ましいほどに脆い、一人の少女だったのだ。
「……っ」
オスカーの凍てついていた胸の内に、説明のつかない熱い感情が、怒涛の勢いで雪崩れ込んできた。
それは、これまで数多の女たちから向けられてきた媚びや打算に対する嫌悪とは、真逆の衝動。
憐憫などという生易しいものではない。
庇護欲という安っぽい言葉でも足りない。
――狂気。
この孤独な女の鎧を、力ずくで引き剥がしたい。
この冷え切った魂を、自分自身のリソースのすべてを使って、温め、満たし、包み込んでしまいたい。
金しか信じないというのなら、己の持つすべての富を、権力を、領地を、命すらもその掌の上に差し出して――二度とこいつが、その冷たい金の盾の後ろで一人きりで震える必要がないようにしてやりたい。
絶対に女に騙されないはずだった『氷の財務卿』の理性が、内側から音を立てて融解していく。
オスカーは無意識のうちに、手に持っていたグラスをローテーブルへと置いた。
そして、身を乗り出し、ルチアの白磁の指先へと――自らの大きな手を、迷うことなく重ねたのだ。
「……閣下?」
ルチアが驚いたように眉を跳ねさせ、顔を上げた。
触れ合わされたオスカーの手のひらは、夜風に冷えていたルチアの肌を焼き尽くすほどに、異常な熱を帯びていた。
手袋越しではない。素肌と素肌の直接の接触。
オスカーの氷河のような青い瞳の奥底で、かつて社交界の誰も見たことのない――昏く、重く、底なしの独占欲を孕んだ紅蓮の炎が、ゆらりと燃え上がっていた。
「……ならば」
オスカーの低く掠れた声が、二人の間のわずかな距離を満たした。
「俺が、お前の『盾』になると言ったらどうする?」
ピシリ、と空気が止まった。
暖炉の薪が爆ぜる音すら、遠い世界の出来事のように思えるほどの静寂。
「お前が求めているのが、何者にも脅かされない自由と安全だというのなら……俺がそれをお前に与えてやる。公爵家の権力も、財務省の権限も、俺の持つすべての軍事力も、お前を守るための盾にしてやろう。……他人の金を奪い、綱渡りのような危険を冒す必要など、もうどこにもない」
オスカーの指先が、ルチアの細い指に絡みつく。
逃がさないとばかりに、骨が軋むほどの力で強く、熱く引き寄せられる。
その至近距離で見つめてくる男の瞳には、打算など微塵もなかった。
あるのは、己の人生のすべてを賭け金にしてでも、目の前の女を手に入れたいという――純粋で、それゆえに狂気じみた絶対の執着。
――だが。
ルチア・フォン・グラナートの脳内の計算機は、その甘美な熱狂に呑まれることを断固として拒絶した。
(……な、何を言い出すの、この男は……!?)
ルチアの背筋を、冷たい汗が駆け抜けた。
あり得ない。
この男は『氷の財務卿』オスカー・フォン・ヴァルハイトだ。
感情を交えず、数字と国家の利益だけで動き、女の涙など一滴も信じないはずの冷血漢。
そんな男が、なぜ出会って間もない詐欺師の女に向かって、己の権力と存在のすべてを投げ出すような狂気の提案をしてくるのか。
(計算が合わない……! こんな取引、公爵家側にとって損失率百パーセントじゃない! リターンが何一つ存在しないわ!)
合理主義の鎧が、猛烈な勢いで警報を鳴らす。
信じてはならない。
他人の甘い言葉に乗せられて油断した瞬間、前世のように足元を掬われ、すべてを奪われて破滅するのだ。
この男の言葉も、きっと何かの罠に違いない。自分を籠絡し、グラナート領の利権を奪うための高度な心理誘導に違いない――。
ルチアは唇に、完璧なビジネスライクの冷笑を張り直した。
そして、絡め取られた指先にわざと力を込めず、スルリと滑らかな所作で、オスカーの手のひらから自らの手を引き抜いたのだ。
「……ふふ。お酒が少々、回りすぎたようですわね、公爵閣下」
ルチアは首を傾げ、可憐に、しかし残酷なまでに冷ややかに微笑んでみせた。
「冗談はおやめくださいまし。公爵家の絶大な権力を私の盾にするなど……私のような田舎子爵令嬢に、それに見合うだけのどんな対価が支払えますこと? そんな不均衡な契約、投資対効果(ROI)がまったく見合いませんわ」
打算の言葉で、男の熱情を綺麗さっぱり切り捨てる。
いつもの、詐欺師としての鉄壁の防御壁。
これまでの男たちであれば、この冷たい拒絶にプライドを傷つけられ、激昂するか、あるいは興醒めして手を引いていたはずだった。
――だが。
オスカー・フォン・ヴァルハイトは、引かなかった。
空になった自らの手のひらを見つめ、次いでルチアの冷めた瞳を見据えたオスカーの唇が――ふっと、低く、愉悦に歪んだのだ。
拒絶されたことへの怒りではない。
容易に落ちない城を前にして、全軍を投入して蹂躙することを決意した覇王のような、獰猛極まる笑み。
「……ROI、か。あくまで損得勘定で俺を値踏みするか、ルチア」
オスカーは立ち上がり、暖炉の前に立つルチアの影を、その長身ですっぽりと覆い隠した。
至近距離で見下ろすその青い瞳には、先ほどよりもさらに昏く、危険な光が爛々と渦巻いている。
「いいだろう。お前が打算でしか動かないというのなら……俺の全財産をかけて、お前の計算機を狂わせてやるまでだ。俺の投資が割に合うかどうか、その身で一生かけて確かめてみるがいい」
「……っ」
ルチアは思わず息を呑み、半歩後ずさった。
背中が暖炉の大理石の縁に当たり、逃げ場がなくなる。
男の瞳の奥にある熱量は、もはや言葉の綾などではなかった。本気だ。この男は、本気で自らのすべてを投げ打ってでも、自分という存在を買い取ろうとしている。
(狂っている……。この男、絶対に女に騙されないはずじゃなかったの……!?)
ルチアの脳内の計算機が、激しい火花を散らしてショートしかけていた。
かつて数多の富豪を手玉に取ってきた一条玲奈の人生において、相手が「騙されていると分かっていて、なお全財産を差し出そうとしてくる」などという規格外の事態は、ただの一度も経験したことがなかったのだから。
夜の静寂が、再び執務室を満たしていく。
暖炉の火の爆ぜる音だけが、二人の間に流れる狂おしい熱気を際立たせていた。
オスカーはルチアから視線を外さぬまま、冷え切った自らのグラスを取り上げ、最後の一滴を一気に飲み干した。
その胸の内で、静かに、しかし決定的に鳴り響いた誓い――。
『絶対に女に騙されないはずだった。
――だというのに、俺は今、この美しいペテン師に全財産を騙し取られたくてたまらない』
打算百パーセントで始まったはずの二人の共犯関係。
その天秤の針が、いま――取り返しのつかない泥沼の執着へと、大きく傾き始めていた。




