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第18話:共倒れの夜宴

真鍮の燭台から垂れた蝋が、大理石の床に落ちてジュッと音を立てた。

地下競売室の空気は、もはや社交界のサロンのそれではなく、処刑場特有の血と硝煙の冷たさに満たされていた。

王立最高美術鑑定局長マイヤーの宣告――『完全なる、贋作だ』。

その言葉が、ドーム状の天井に何重もの反響となって木霊し、壇上に立ち尽くすカシアン・フォン・ベルンハルト侯爵の脳髄を、内側から粉々に粉砕していた。


「が……贋作……? 描かれてから、半年も経っていない……?」


カシアンの唇が、乾いた音を立てて痙攣した。

視界が白く明滅する。耳の奥で、甲高い金属音がキーンと鳴り響いて止まらない。

イーゼルの上のキャンバス。天上の光を浴びて涙を流す聖母マリアの顔が、今や自分を嘲笑う悪魔の似顔絵に見えていた。溶剤で拭い取られた右下の黒い衣の裾からは、生々しく溶けた現代の油絵の具が、ドロリと黒い涙のように垂れ落ちている。


「う……あ、あぁ……」


カシアンの喉から、空気の抜けるような情けない音が漏れた。

脳内の計算機が、狂ったように数字を叩き出す。

金貨、三千枚。

手持ちの全財産五百枚を叩き出し、足りない二千五百枚のために――先祖伝来のベルンハルト侯爵領の最も肥沃な直轄農地と、王都の一等地に構える別邸の徴税権を担保に入れた、即日緊急融資契約書。

その契約書には、先ほど自らの手で、誇らしげに血判を押したばかりだった。


「ふざ……ふざけるな……! ふざけるなァァァッ!!」


ドサリ、と膝から崩れ落ちたカシアンは、自らの金髪を両手で力任せに掻きむしり、泡を吹いて絶叫した。

額の血管が青黒く浮き上がり、蜂蜜色だった瞳は完全に狂気で濁り切っている。


「贋作だと!? 粗悪な模造品だと!? ふざけるな、何かの間違いだ! 俺は金貨三千枚の借金を背負ったんだぞ! 領地の農地も別邸も、すべて抵当に入れたんだ! 三千枚の借金背負って……手に入れたのが、原価五枚のゴミ屑の板切れ一枚だと!? そんなことがあってたまるかァァッ!!」


客席の貴族たちが、汚物を見るような目で後ずさる。

かつて『憂いの白馬の騎士』と持て囃された美男子の面影はどこにもない。そこにあるのは、自らの見栄によって身の丈に合わない負債の奈落へ転落した、一匹の惨めな負け犬の姿だった。


「お前だ……!」


カシアンの血走った視線が、壇上から二階の貴賓席へと跳ね上がった。

近衛兵たちに両腕を押さえ込まれ、髪を乱して立ち尽くす女――イザベラ・フォン・クランツ伯爵夫人。


「イザベラァァッ! 貴様、俺を謀ったなァッ!? 『前世紀の巨匠の幻の傑作』だと!? 『絶対に損はさせない、カシアンの愛の証に相応しい』だと!? 貴様が、貴様が裏で贋作工房を動かして、俺に偽物を売りつけたのかァァッ!!」


カシアンは壇上の手すりを乗り越えんばかりの勢いで咆哮した。

だが――二階席のイザベラもまた、大人しく罪を受け入れるようなタマではなかった。

彼女は拘束しようとする兵士の手をヒステリックに振り払い、引き千切れたサファイアの首飾りを足元に踏み躙りながら、鬼の形相でカシアンを見下ろし返したのだ。


「誰が謀ったですってぇぇぇっ!? 笑わせるんじゃないわよ、この能無しがぁぁっ!!」


社交界の女王の仮面は、完全に粉々に砕け散っていた。

下町の裏路地で生まれ育った女衒の地金が、剥き出しの罵声となって炸裂する。


「誰が三千枚まで競り上げろと頼んだのよ!? 千枚か千五百枚で落とせば、私が裏で手配した高利貸しの手数料を抜いて、残りを山分けして丸儲けできるはずだったんじゃないの! それを、隣のみすぼらしい小娘に鼻の下を伸ばして、格好つけたいがために勝手に意地を張って三千枚まで暴走したのでしょうが!

身の程知らずな見栄を張って自滅した自業自得を、私のせいにするんじゃないわよ! この穀潰しのヒモ野郎がッ!」


「な……な、んだと……!?」


カシアンの息が止まった。

公衆の面前で、満場の名門貴族たちの前で。

自分が「最初からイザベラと結託して小銭を稼ぐための共犯者」であり、同時に「見栄のために自爆した愚か者」であった事実が、イザベラ本人の口から赤裸々に暴露されたのだ。


「聞いて呆れるわ! 『僕の愛の証』? 『君の涙に捧げる』? ヘドが出るわね! あの娘が金貨三万枚の遺産を手に入れると知った途端、その遺産を巻き上げて自分の借金をチャラにするために、必死になって大富豪気取りで見栄を切っただけじゃないの! 図々しいのよ、顔だけの粗大ゴミが!」


「貴様……貴様ァァァッ!!」


自尊心を、男としての誇りを、そして生き方そのものを徹底的に踏みにじられたカシアンの脳内で、理性を司る機能が完全に消滅した。

獣のような雄叫びを上げ、カシアンは壇上から飛び降りた。

手近な客席の椅子を踏み台にし、階段を狂乱の勢いで駆け上がる。

止めに入ろうとした近衛兵の顔面を殴り倒し、二階の貴賓席へと雪崩れ込んだのだ。


「殺してやる! 殺してやるぞ、イザベラァッ! 俺の金貨三千枚を返せ! 俺の領地を、俺の家を返せェェッ!!」


「きゃあぁぁっ!? 離しなさい、狂人!」


ドガァンッ! と鈍い音が響き、カシアンの体がイザベラへと体当たりするように激突した。

二階席の豪奢な真鍮の手すりに二人の体が叩きつけられる。

カシアンの指先が、イザベラの豊満な胸元へと伸び、紫紺の最高級シルクドレスを力任せに鷲掴みにした。


ビリッ、バリバリバリッ!!


「いやあぁぁっ! 私のドレスが!」


凄まじい布の裂ける音とともに、イザベラのドレスが肩から腰にかけて無残に引き裂かれ、白いコルセットと下着が剥き出しになる。

だが、イザベラも黙ってはいない。

彼女は手にした象牙の煙管をカシアンの額へと突き立て、鋭い爪でカシアンの端正だった頬を容赦なく引き裂いた。


「この泥棒猫! 死になさい! 死んで借金を払いなさいよォッ!」


「痛ぇぇぇっ! 死ぬのは貴様だ! 道連れにしてやるッ!」


カシアンがイザベラの髪を鷲掴みにして引きずり回し、イザベラがハイヒールの踵でカシアンの股間を蹴り上げる。

二人はもつれ合いながら、二階席の手すりを突き破る勢いで転がり落ちた。


ガッシャアァァァンッ!!


階段の踊り場に飾られていた、天井から吊り下げられた巨大なクリスタル・シャンデリアの支柱に二人が激突。

数百本の蝋燭を載せた真鍮の骨組みが耐え切れずにへし折れ、地響きのような轟音を立てて階下へと崩落した。

粉々に砕け散るクリスタルの雨。

床にぶちまけられた高級ワインと、燭台から飛び散った炎がペルシャ絨毯に燃え移り、煙が地下ドームを満たしていく。

その火と煙と硝子の破片の中で、名門侯爵とサロンの女王が、顔中を血と灰で真っ黒に染め、互いの首を絞め合い、髪をむしり合い、唾を吐きかけ合って取っ組み合っている。


「うわあああっ! 火事だ! 逃げろ!」

「出口へ急げ! 兵士、扉を開けろ!」


客席の貴族たちは狂乱し、我先にと押し合いへし合いしながら逃げ惑う。

王都随一の格式と文化を誇っていたはずの高級サロン『白百合の間』は、一瞬にして、泥棒とペテン師が互いの内臓を引きずり出し合う地獄の闘技場へと成り果てていた。


「……囚人のジレンマの崩壊、ね」


壇上の片隅。

粉塵と煙が立ち込める中、ルチア・フォン・グラナートは、飛び散る硝子の破片すら届かない柱の影に静かに身を寄せていた。

その紫紺の瞳は、燃え盛る絨毯の上で醜く転がる男女の姿を、冷徹無比な観察眼で見つめていた。


共犯関係にある犯罪者同士は、「互いに口を割らずに協力し合う」ことが最も合理的な選択であるはずなのだ。

だが――ひとたびその均衡が崩れ、己の破滅が確定した瞬間、人間は「相手を道連れにしてでも自分だけ助かりたい」、あるいは「裏切った相手を八つ裂きにしたい」という原始的な報復衝動に支配される。

カシアンとイザベラ。

互いの見栄と強欲で結びついていた脆い信頼関係は、ルチアが投下した『金貨三千枚の贋作』というたった一つの爆弾によって、最も醜悪な自滅の共喰い劇へと昇華したのだ。


「そこまでだッ! 兵士、二人を取り押さえろ!!」


レオンハルトの鋭利な怒号が、煙を切り裂いた。

近衛兵たちが一斉に踏み込み、取っ組み合うカシアンとイザベラの上に覆いかぶさる。

四人がかりで腕をねじり上げられ、冷たい鉄の枷が、二人の手首へと容赦なく打ち込まれた。


「ぎゃあっ! 離せ! 俺は侯爵だぞ! ベルンハルト家の――」


「黙れ、重罪人め」


レオンハルトは抜刀した短剣の切っ先を、床に組み伏せられたカシアンの鼻先へと突きつけた。

眼鏡の奥の瞳には、一切の情け容赦もない。


「貴様が先ほど署名した即日緊急融資契約書――債権者はイザベラのダミー商会だが、その商会の全資産はたった今、財務省によって差し押さえられた。すなわち、貴様の負債金貨二千五百枚の債権は、そのまま『国家』へと移管される」


「な……な、んだと……!?」


カシアンの顔から、血の気が完全に引いた。


「貴様が担保に差し出したベルンハルト領の直轄農地、ならびに王都別邸の徴税権は、本日付で国家財政再建委員会によって永久凍結・接収される。追って、貴族院への身柄引き渡し、ならびに爵位剥奪と追放刑の手続きが執られる手はずだ」


「あ……あ、あ……」


カシアンの口から、魂の抜けたような呻きが漏れた。

爵位剥奪。領地没収。一族からの追放。

男の人生のすべてが、今この瞬間、完全に終わりを告げたのだ。


「そして、イザベラ・フォン・クランツ」


レオンハルトは視線を転じ、髪を振り乱して床に這いつくばる女を見下ろした。


「貴女の館の地下金庫に眠っていた金貨八千枚相当の不正蓄財、国外為替手形、ならびに貴族たちの弱みを記した秘密帳簿は、我が部隊がすべて押収・凍結を完了した。貴女のサロン『白百合の間』は今宵をもって永久閉鎖。公文書偽造、非合法美術品売買、ならびに大規模脱税の首謀者として、国家反逆審問所へ連行する」


「ロベルト公爵……! ロベルト公爵が、黙っているはずがありませんわ……! あの公爵閣下が、あなた方なんぞを――」


「公爵の名を出せば出すほど、貴女の罪状が重くなるだけだ」


レオンハルトは冷淡に言い捨て、兵士たちに顎をしゃくった。


「連行しろ!」


「いやああああっ! 離しなさい! 私のサロンよ! 私の黄金よォォッ!」


引き裂かれたドレスの裾を引きずりながら、イザベラが引きずり出されていく。

泡を吹いて気絶しかけたカシアンも、両脇を抱えられて無残に地下室の外へと連行されていった。

二人が社交界の頂点で築き上げていた偽りの栄華は、わずか一時間足らずの間に、文字通り灰燼に帰したのだった。


混乱が収まり、消火作業に追われる競売室の壇上。

レオンハルトが煤で汚れた手袋を脱ぎながら、静かに歩み寄ってきた。

その視線の先には――柱の陰で、ショールを胸元でぎゅっと握りしめ、青ざめた顔で小さく震えているルチア・フォン・グラナートの姿があった。


「……ルチア様」


レオンハルトの声には、先ほどの犯罪者たちに向けた苛烈さは微塵もなく、どこか気遣うような響きが含まれていた。


「恐ろしい思いをさせました。……怪我はございませんか?」


「は、はい……。レオンハルト様……」


ルチアは消え入りそうな声で答え、潤んだ紫紺の瞳を伏せた。

その白磁の肌には、飛び散った火の粉の一粒すら触れていない。

純白のモスリンドレスは、奇跡のように清らかな白さを保ったままだった。


「信じられませんわ……。カシアン様が、あのような……あのような恐ろしい企みに手を染めていらしたなんて……。私、必死でお止めしたのです。『無理をなさらないで』『サインなさってはダメです』と、何度も、何度もお願いいたしましたのに……」


ぽろり、と。

計算し尽くされた完璧な一筋の涙が、ルチアの頬を伝って零れ落ちた。

レオンハルトは小さく息を呑み、胸を痛めたように眉根を寄せた。


「ええ……存じております。客席にいた我が部隊の潜入捜査官たちも、貴女が必死に侯爵を制止しようとしていた姿を克明に記録しております。貴女の行動に、法的一分たりとも非はございません。むしろ、自らの危険を顧みず、男の暴走を止めようとされた貴女の高潔さには、敬意を表するほどです」


「レオンハルト様……」


「どうぞ、お帰りになってください。すでに外には、財務省の手配した安全な馬車が待機しております。……ここから先は、我々官僚の仕事です」


「ありがとう、ございます……。ご公務の無事を、お祈り申し上げておりますわ」


ルチアは深々と、非の打ち所のないカーテシーを執った。

完全無欠の潔白。

ルチア自身は一度もカシアンに「買え」と言っておらず、むしろ「止めた」事実が、財務省の公式監査記録に公的な証言として永久に残されたのだ。

法的な防壁は、鉄壁どころかダイヤモンドの硬度で完成していた。


サロンの裏門。

秋の冷たい夜風が吹き抜ける石畳の路地に、黒塗りの馬車が一台、静かに車輪を止めていた。

馬車のステップの横には、すでにヴェールを脱ぎ、普段の知性溢れる表情を取り戻したセレーナ・ハイドが、腕を組んで待っていた。


「お見事でしたわ、ルチア様。……あの二人の取っ組み合い、為替座のどんな大暴落劇よりも痛快な見世物でした」


「ふふ、セレーナの絶妙なペースメイクのおかげよ。あのコールがなければ、カシアンも三千枚まで狂気に身を任せることはできなかったわ」


ルチアは馬車のステップに足をかけながら、優雅にショールを肩へと掛け直した。

その顔から、先ほどまでの怯えた令嬢の表情は完全に消え去り、夜の闇を支配する絶対の勝者の笑みが浮かんでいた。


カシアンの破滅。

イザベラの失脚。

そして――財務省によって差し押さえられた、サロンの地下金庫に眠る金貨八千枚の不正蓄財と、カシアンが担保にした領地の利権。

第10話でオスカーと交わした悪魔の雇用契約に基づけば、回収された隠し資産の『三割(30%)』――金貨にして、およそ二千四百枚以上の巨額の成功報酬が、合法的にルチアの手元へと転がり込んでくることになる。


「グラナート領の復興口座へ、また途方もない額のキャッシュが流れ込むわね。クラリスが帳簿を抱えて悲鳴を上げる姿が目に浮かぶわ」


「ええ。妹君の喜ぶ顔が楽しみですわね」


セレーナがクスリと笑う。

ルチアは馬車に乗り込み、座席のクッションに深く背を預けた。

車窓の外には、近衛兵たちによって厳重に封鎖され、煙を吐き出すサロン『白百合の間』の豪奢なシルエットが見えていた。

女たちの恋心と純情を食い物にし、甘い蜜を吸い続けてきたハイエナどもの無残な末路。


ルチアは窓ガラスに映る自らの紫紺の瞳を見つめ、静かに、氷のように冷徹な独り言を呟いた。


「泥棒が泥棒から盗まれたと騒ぐ姿ほど、滑稽な喜劇はありませんわ」


御者が鞭を鳴らし、馬車が滑らかに夜の王都の石畳を走り出す。

次なる舞台は――手に入れた莫大な資金が、泥水をすする寒村を奇跡の経済特区へと変貌させていく、本格的な成り上がりの時間だった。

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