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第17話:鑑定士の宣告

静寂が、地下競売室を重々しく支配していた。

天井の真鍮シャンデリアから滴り落ちる黄金の蝋燭の光が、壇上に掲げられた油彩画『聖母の嘆き』の表面を妖しく照らし出している。

金貨三千枚――日本円にしておよそ三十億円という、正気の沙汰とは思えない天文学的な数字。その衝撃の余波は、客席に座る名門貴族たちの呼吸すら奪い去っていた。


「……は、はは……あははははっ!」


静寂を破ったのは、客席の最前列から響いた、狂気に濡れた哄笑だった。

カシアン・フォン・ベルンハルト侯爵が、ふらつく足取りで立ち上がったのだ。

全身から噴き出した汗が、仕立ての良い近衛騎士団の儀仗用礼服をぐっしょりと濡らしている。波打つ金髪は乱れ、蜂蜜色のヘーゼルアイは充血して血走っていたが、その口元には――自らがこの世のあらゆる勝者を超越したと信じ込んで疑わない、傲慢極まる歓喜が張り付いていた。


「見たか……! 見たか、愚民どもめ! このカシアン・フォン・ベルンハルトが勝ったのだ! ベルンハルト侯爵家の誇りと財力こそが、王都の頂点にあるのだ!!」


カシアンは振り返り、後方の席に座る貴族たちを見下ろすように両手を広げた。

そして、最後列で静かに座る黒衣の淑女――セレーナ・ハイドを指差して嘲笑う。


「身の程知らずの小娘め! 僕の財力に恐れをなして尻尾を巻いたか! 神の奇跡たる名画を手に入れる資格があるのは、この僕だけだ!」


客席の貴族たちは、誰一人として称賛の声を上げなかった。

彼らがカシアンに向けていたのは、敬意などではなく――領地と屋敷を担保に、たかだか絵画一枚のために破滅的な負債を背負った狂人に対する、底知れぬ気味悪さと哀れみの視線だった。

二階席の暗がりでは、紫紺のドレスを纏ったサロンの女主人、イザベラ・フォン・クランツ伯爵夫人が扇子を胸元で握りしめ、獲物が罠の底で完全に息絶えたのを見届けて、恍惚とした笑みを浮かべていた。


(……やったわ。金貨二千五百枚の領地担保手形に、カシアン自身の残りの私財五百枚。完璧よ。あの能無し侯爵を完全に借金漬けにして手駒にし、さらにあの純真なグラナートの小娘の『金貨三万枚の遺産』も、すべて私の掌の上で転がしてやる……!)


イザベラは、自らが仕掛けた蜘蛛の巣が完璧に獲物を捕獲したと確信していた。


一方、壇上へ向かって階段を大股で駆け上がっていくカシアンは、もはや周囲の冷ややかな空気など目に入っていなかった。

彼の頭の中にあるのは、ただ一つ。

この絵画をルチアに捧げ、彼女の心を完全に屈服させ、将来の巨額の富を手に入れるという甘美な皮算用だけだった。


「さあ、こちらへおいで、僕の可憐なルチア!」


カシアンは壇上の中央、イーゼルの横に立ち、客席の最前列で控えめに佇むルチアへ向けて、芝居がかった手招きをした。


「君の流した涙に、僕の命と名誉をすべて捧げると誓った。……その誓いを、今ここで果たしてみせよう!」


促され、ルチア・フォン・グラナートはゆっくりと歩みを進めた。

純白のモスリンドレスの裾を優雅に揺らし、階段を一段、また一段と上がっていく。

その顔には、困惑と、恐縮と、そして信じがたい奇跡を前にして言葉を失ったかのような、完璧な『儚き聖女の表情』が浮かべられていた。

壇上に上がったルチアに対し、カシアンはこれ見よがしに片膝を突き、イーゼルから外した重厚な額縁を両手で恭しく持ち上げた。


「受け取ってほしい、ルチア。前世紀の巨匠の幻の傑作『聖母の嘆き』……。君の澄んだ瞳と、この絵の聖母の涙こそが、僕たちの永遠の愛の契りだ!」


カシアンの人生における、最大の絶頂。

男の見栄が、虚栄が、そして自己愛が、頂点を極めた――まさにその瞬間。


ドガァァァァァンッッ!!


地下競売室の分厚い二重扉が、雷鳴のような轟音とともに、蝶番ごと内側へ吹き飛ばされた。


「な……っ!?」

「ひぃっ、何事だ!?」


破片と粉塵が舞い散る中、客席の貴族たちから悲鳴が上がった。

カシアンの動きが、絵画を掲げた滑稽な姿勢のまま凍りつく。

破壊された大扉の向こうから、冷たい夜気とともに雪崩れ込んできたのは――抜刀した青銀の甲冑を纏う三十名を超える武装近衛兵部隊、そして、濃紺の官給礼服に身を包んだ財務省の特別監査官たちだった。


一分の狂いもない、統制された軍靴の足音。

兵士たちが即座に半円形に展開し、競売室のすべての出口と非常階段を完全に封鎖する。

そして、その中央を割って、冷徹な足取りで壇上へ向かって歩み出てきたのは――財務省筆頭監査官、レオンハルトだった。


「何者も動くな! その場を一歩でも離れた者は、公務執行妨害および反逆幇助の現行犯として即座に拘束する!」


銀縁の眼鏡の奥から放たれる、不正を一切許さない氷の眼光。

レオンハルトの怒号が、地下ドームの隅々まで響き渡った。


「な……な、んだと……!? 財務省の監査部隊だと!?」


二階の貴賓席から、イザベラ伯爵夫人が扇子を投げ捨てて身を乗り出した。

その艶やかな美貌が、激しい怒りと動揺で引き攣っている。


「無礼な! ここは貴族院の定めた『貴族特権保護法』に基づく聖域、私の私邸サロンですわよ! 貴族院予算委員会の正式な捜索令状もなく、近衛兵を率いて踏み込むなど、いかに財務卿の部下とて許されるはずがありませんことよ! 即刻、兵を引きなさい!」


イザベラは壇上のレオンハルトへ向けて金切り声を浴びせた。

長年、特権階級の壁を盾にしてあらゆる捜査を跳ね除けてきた女の、絶対的な自信。

しかし――レオンハルトは眉毛一本動かさなかった。


「貴族特権保護法だと? ……笑わせるな、クランツ伯爵夫人」


レオンハルトは懐から、真紅の王室紋章が刻印された羊皮紙の令状を広げ、公衆の面前へと掲げた。


「貴様が聖域と嘯くこの館の地下三階――秘密工房において、すでに我が部隊が突入を完了している。そこから押収されたのは、数百枚に及ぶ偽造絵画のキャンバス、酸化鉛を用いた強制乾燥機、偽造された王立絵画院の刻印スタンプ、そして……貴様の直筆署名が入った裏帳簿だ!

国家反逆罪に準ずる『大規模組織的詐欺および通貨偽造に匹敵する公文書偽造』の現行犯において、貴族特権による治外法権は即時失効する! 財務卿オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵の直筆決済による、緊急臨検命令書だ!」


「な……っ!? 地下工房が……押収された……!?」


イザベラの顔から、潮が引くように血の気が引いていった。

あり得ない。

地下工房の存在は、サロンの常連貴族ですら知らぬ最高機密であり、何重もの暗号錠で閉ざされていたはずだった。

なぜ、この短時間で場所を特定し、証拠を隠滅する隙すら与えずに突入できたのか?


(……ふふ、当然でしょう?)


壇上で怯えるふりをしながら、ルチアの紫紺の瞳が、最後列のセレーナへと向けられた。

セレーナは席を立ち、何食わぬ顔でショールを直しながら、ルチアへ向けて小さくウインクしてみせた。

連係プレーは完璧だったのだ。

セレーナが競売室に潜入した真の目的は、単にカシアンの入札額を釣り上げることだけではない。彼女は天才的な数学的記憶力と鋭敏な感覚を使い、サロンの建物の通気口の配置、地下へ出入りする不自然な使用人の動線、そして空気中に漂う微量な塗料の揮発臭の濃度勾配(グラデーション)を瞬時に計算。

カシアンが落札したまさにその瞬間、手にした真鍮の競売札を窓枠の隙間に当てて外光を反射させ、外で待機していたレオンハルトの突入部隊へ「地下工房の正確な座標」を合図として送っていたのだ。

サプライズ・オーディット(抜き打ち監査)の極致。

相手が落札の熱狂に酔いしれ、最も警戒を緩めた絶頂の瞬間に証拠を根こそぎ押収する――前世の警察組織すら舌を巻く、電光石火の強襲だった。


「ふ、ふざけるな……! 何を言っているんだ、貴様らは!」


壇上で、カシアンが狂乱の声を上げた。

彼は絵画を胸に抱きしめ、レオンハルトに向かって唾を飛ばす。


「無礼者め! 俺を誰だと思っている! ベルンハルト侯爵家の跡取りであり、近衛騎士団の幹部たるカシアンだぞ! この絵は、僕が金貨三千枚を支払って正当に競り落とした、前世紀の巨匠の真作『聖母の嘆き』だ! 王立絵画院の鑑定書だってここにある! 邪魔をするなら、近衛騎士団の名において貴様らを斬首刑にしてやるぞ!」


「……哀れな男だな、カシアン・フォン・ベルンハルト」


レオンハルトは冷ややかな溜息を吐くと、背後へ向けて手を振った。


「鑑定局長。前へ」


兵士たちの列を割って壇上へと上がってきたのは、白髪をきっちりと撫で付け、丸眼鏡をかけた初老の男性だった。

王立最高美術鑑定局長――王国で最も美術品の鑑定眼に優れ、いかなる権力者からの買収も受けつけない頑固者として社交界に知れ渡る、ベルンハルト・マイヤー局長本人だった。


「お、おい……マイヤー局長!? なぜ貴様がここに……!」


カシアンが怯えたように後ずさる。

マイヤー局長はカシアンを一瞥もせず、懐から革張りの薬品ケースを取り出した。

中から現れたのは、ガラスのスポイトと、三種類の異なる色の試薬の小瓶。


「ベルンハルト侯爵。貴公が後生大事に抱えているそのキャンバス、今ここで、全貴族の御前において真贋の判定を下して進ぜよう」


「や、やめろ! 触るな! 傷がついたらどうするんだ!」


「動くな」


二人の屈強な近衛兵が踏み込み、カシアンの両腕を背後から力ずくで押さえ込んだ。

額縁がイーゼルへと乱暴に戻される。

マイヤー局長は丸眼鏡の位置を直すと、スポイトで透明な試薬を一滴吸い上げ、絵画の右下――暗闇に沈む聖母の衣の裾の絵の具の上に、躊躇いなくポトリと垂らした。


ジュッ……と、微かな化学反応の音がした。

マイヤー局長は純白の脱脂綿を取り出し、試薬を垂らした部分を指先で優しく一拭きする。


「……ほう」


局長は脱脂綿を鼻先に近づけ、匂いを嗅いだ。

次いで、ルーペを目に当て、綿の表面とキャンバスの亀裂をじっくりと観察する。

客席の貴族たちが固唾を呑んで見守る中、局長の口から発せられたのは――死刑宣告のような冷徹な言葉だった。


「……完全に溶解したな。綿にはべったりと、乾き切っていない油彩の顔料が付着しておる」


「な……っ!?」


カシアンの顔面が引き攣った。


「本物の百年前の油彩画であれば、乾性油は完全に酸化重合し、この程度のアルコール系溶剤で顔料が溶け出すことなどあり得ん。……さらに、この独特のツンとくる刺激臭。塗料を人工的に急速乾燥させるための『酢酸鉛』、そして表面の古色を偽装するための『アンモニア蒸気処理』の痕跡だ」


マイヤー局長はルーペを外し、冷酷な眼差しでカシアンを見据えた。


「絵の具の内部の乾燥状態から見て……この絵が描かれてから、半年も経過しておらん。下地の麻布すら、王都の下町で流通している安価な現代製だ。――粗悪極まる模造品。完全なる、贋作だ!」


「が……贋作……!?」


ドォンッ、と競売室に雷鳴のような衝撃が走った。

客席の貴族たちから、絶叫とどよめきが爆発する。


「贋作だと!? 金貨三千枚の絵が、ただの偽物!?」

「描かれてから半年も経っていないだと!?」

「騙されたのか、ベルンハルト侯爵は!?」


「う……嘘だァァァッ!!」


カシアンは拘束する兵士の腕を振りほどこうと暴れ狂った。

顔面を紅潮させ、泡を吹いて叫ぶ。


「嘘だ! 何かの間違いだ! 鑑定書があるんだぞ! 王立絵画院の正式な鑑定書がついていたんだ! 俺は金貨三千枚の借金を背負ったんだぞ! 偽物であってたまるかァァッ!!」


「その鑑定書のことか?」


レオンハルトが、冷たい声で遮った。

彼は地下工房から押収したばかりの、黒い革表紙の分厚い裏帳簿を高く掲げた。


「地下の工房から、偽造された鑑定書のストックが五十通以上発見された。……そして、その工房の賃貸契約書、顔料の仕入れ領収書、贋作画家への報酬支払い伝票、さらには『本日の競売におけるカシアン侯爵への共同購入持ちかけ計画書』に至るまで、すべての送金指示書にサインしていた出資者は――」


レオンハルトの鋭利な人差し指が、二階の貴賓席で立ち尽くす女へと、真っ直ぐに突きつけられた。


「――イザベラ・フォン・クランツ伯爵夫人。貴女だ」


息が止まるほどの沈黙が、競売室を覆い尽くした。

すべての貴族たちの視線が、一斉に二階のサロンの女王へと集中する。


「……っ!」


イザベラは言葉を失い、喉を痙攣させて後ずさった。

その顔から、社交界の華としての気品も、妖艶な美貌も、完全に剥ぎ取られていた。

露わになったのは、自らの悪行を公衆の面前で暴かれ、逃げ場を完全に塞がれた、ただの薄汚い女詐欺師の素顔。


「ち、違うわ……! 私は知らない! 工房の職人が勝手にやったことよ! 私の名前を騙られただけですわ! ロベルト公爵! ロベルト公爵をお呼びなさい! こんな無礼、公爵閣下が許すはずが――」


「往生際の悪いことだ」


レオンハルトは冷然と言い放った。


「ロベルト公爵の名を出したところで無駄だ。押収された裏帳簿のすべてのページには、貴女の拇印と私用印が押されている。……非合法贋作製造、公文書偽造、詐欺、ならびに脱税の容疑で、即刻身柄を拘束する!」


「いやぁぁぁっ! 離しなさい、無礼者! 私は伯爵夫人よ!!」


二階席の扉が蹴破られ、近衛兵たちが雪崩れ込んでイザベラの両腕を拘束する。

豪奢なサファイアの首飾りが引き千切れ、床へと転がり落ちた。


阿鼻叫喚の地獄絵図。

金貨三千枚の贋作を前に膝をつき、泡を吹いて呆然と虚空を見つめるカシアンと、兵士たちに組み伏せられて見苦しい金切り声を上げるイザベラ。

社交界の頂点で甘い汁を吸い続けてきた男女のペテン師の化けの皮が、満場の貴族たちの目の前で、無残に、完全に剥ぎ取られた瞬間だった。


その混乱の極みの壇上。

ルチア・フォン・グラナートは、純白のドレスの裾をわずかに引き、誰にも気づかれぬよう、冷徹に一歩身を引いた。

手にしたショールで口元を覆い、可憐に怯える令嬢の姿を装いながら――その紫紺の瞳に宿っていたのは、絶対零度の嘲笑だった。


(……芸術への愛ではなく、強欲の絵の具で描かれた傑作。

――実に、お似合いの結末ですこと)


狂乱の夜宴は、ここから更なる泥沼の自滅劇へと加速していこうとしていた。

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