第16話:釣り上げの技術
「金貨三百枚! 最前列、ベルンハルト侯爵閣下より金貨三百枚のコールをいただきました!」
壇上の競売人が甲高い声を張り上げ、真鍮の木槌を素早く振る。
地下の秘密競売室に集まった貴族たちの視線が、一斉にカシアンへと突き刺さった。開始価格である金貨三百枚を、迷うことなく初手で叩きつけるという横暴なまでの強気。
カシアン・フォン・ベルンハルト侯爵は、これ見よがしに波打つ金髪をかき上げ、胸元の純白のスカーフを整えた。その口元には、社交界の寵児特有の傲慢な笑みが張り付いている。
「見たかい、ルチア? 僕が本気を出せば、有象無象の貴族どもなど一言も発することすらできないのさ」
カシアンは隣に座るルチアへ向け、さも誇らしげに囁いた。
だが、その強がりとは裏腹に、彼が組んだ膝の上が微かに強張っているのを、ルチアの冷徹なプロファイリングは見逃さなかった。
金貨三百枚――今のカシアンにとって、それは決して「はした金」などではない。
実家の資産を食いつぶし、日頃の浪費と賭博で借金塗れになっている彼にとって、三百枚は手持ちの現金のほぼ全額、あるいは数少ない隠し財産を吐き出す覚悟の金額だったのだ。
それでも彼がこの場で見栄を切ったのは、ひとえに隣にいるルチアが「将来、金貨三万枚の遺産を手にする」と信じ込んでいるからに他ならない。
(……ええ、せいぜい得意満面にふんぞり返っていなさいな。あなたのその薄っぺらな財布、今宵のうちに空っぽどころか、底まで引き裂いて差し上げますから)
ルチアは内心で冷笑しながら、表向きは感極まったように両手を胸元で握りしめ、紫紺の瞳を潤ませてみせた。
「カシアン様……本当に、私のような者のために……。ですが、やはり心配ですわ。あのような大金を……」
「心配はいらないと言っただろう? 僕の器量は、あんなちっぽけな数字で測れるものではないよ」
カシアンが鼻を鳴らした、まさにその時だった。
「――金貨、四百枚」
客席の中段、肥満体の老伯爵が控えめに札を掲げた。
前世紀の巨匠の幻の傑作『聖母の嘆き』。真作であると信じ込まされている以上、他の美術収集家たちにとっても垂涎の的であることは間違いない。三百枚で終わるはずがなかった。
「四百枚! 十四番の紳士より四百枚を頂戴いたしました!」
「ちっ……無粋な老いぼれめが」
カシアンは舌打ちし、すぐさま札を掲げ直した。
「金貨五百枚だ!」
「五百枚! ベルンハルト侯爵閣下、五百枚!」
ざわめきが広がる。開始価格から一気に五百枚への跳ね上がり。
老伯爵は苦々しい顔で首を振り、札を下ろした。
カシアンは再び勝ち誇った笑みを浮かべ、ルチアの肩を抱き寄せようと腕を伸ばす。
――しかし。
本当の地獄の幕開けは、有象無象の貴族たちの争いなどではなかった。
「――金貨、八百枚」
競売室の最後列。
影の差した壁際から、驚くほど淡々とした、鈴の音のように透き通った女性の声が響き渡った。
「……なっ!?」
カシアンの動きが凍りついた。
競売人も、客席の貴族たちも、一斉に息を呑んで後ろを振り返る。
そこには――漆黒のヴェールを深く被り、喪服を思わせる豪奢な黒衣に身を包んだ、小柄な女性が静かに腰掛けていた。
セレーナ・ハイド。
王都中央為替座の天才数学者であり、ルチアの最高の共犯者。
彼女は顔の輪郭すら見せない完璧な偽装のまま、手にした真鍮の競売札を、まるで退屈な書類に判を押すかのような無造作な仕草で掲げていた。
「は、八百枚……!? 最後列、七十七番の淑女より、一気に金貨八百枚のコールをいただきました!!」
競売人の絶叫が、ドーム状の天井に反響する。
五百枚から一足飛びに八百枚。三百枚もの法外な跳ね上げ幅に、会場中が蜂の巣をつついたような騒然とした空気に包まれた。
「な、なんだあの女は……!?」
「八百枚だと!? 地方の城が丸ごと一つ買える額だぞ!」
「七十七番……どこの大富豪の代理人だ? 王立銀行の重役か、それとも東方の豪商か?」
貴族たちが色めき立ち、囁き声が波のように広がる。
二階の貴賓席、暗がりの中から競売を見下ろしていたイザベラ伯爵夫人の口元にも、扇子の奥で獰猛な笑みが浮かんでいた。
(……うふふ、素晴らしいわ! どこかの成金がカシアンを刺激してくれている。カシアン、意地をお見せなさい! あの娘の金貨三万枚の遺産を手に入れるためなら、千枚や二千枚の投資など惜しくはないはずよ!)
イザベラは、セレーナの正体など夢にも思っていなかった。
ただ、サロンの目玉商品に思いがけない高値がつき、さらにカシアンがルチアを手に入れるために限界まで借金を背負い込む絶好の展開だと、強欲の炎を燃え上がらせていたのだ。
一方――カシアンの顔面は、急速に蒼白へと染まりかけていた。
「は……八百枚……!?」
カシアンの喉が、ヒュッと甲高い音を立てて鳴った。
八百枚など、彼の全財産をかき集めても到底届かない金額だった。
引くべきだ。常識的な経済感覚が残っていれば、即座にここで札を下ろし、「狂人の悪ふざけに付き合う気はない」と捨て台詞を吐いて立ち去るのが正解だった。
だが――彼には、それができなかった。
(――行動経済学における最大の罠、『オークション熱(Auction Fever)』の点火ね)
ルチアはカシアンの横顔を見つめながら、冷酷にその脳内ホルモンの暴走を計測していた。
人間は、公衆の面前で激しい競争に晒された時、対象の本来の価値ではなく「相手に勝つこと」そのものを自己目的化してしまう。
ましてや、カシアンの隣には「自分に命を救われたと信じ込んでいる絶世の美女」が座っているのだ。
ここで手を引けばどうなる?
自分はルチアの前で、そして社交界の貴族たちの前で、「八百枚ぽっちの金が出せない口先だけの貧乏侯爵」として永遠に恥を晒すことになる。
男の肥大化したプライドが、撤退という選択肢を完全に焼き切っていた。
「……ふざけるな。どこの馬の骨とも知れぬ小娘が、この僕に張り合おうというのか……!」
カシアンのヘーゼルアイが、血走った赤みを帯びた。
アドレナリンが血管を焼き、呼吸が荒く乱れる。
彼は震える手で、再び札を高く突き上げた。
「金貨、九百枚だ!!」
「九百枚! ベルンハルト侯爵閣下、九百枚!!」
競売人が叫ぶ。
カシアンは肩で息をしながら、最後列の黒衣の女を睨みつけた。
これで諦めろ、と。これ以上の出費は貴族でも狂気の沙汰だ、と。
しかし――セレーナ・ハイドの感情は、最初から絶対零度だった。
カシアンがコールを終えた、わずか一秒後。
セレーナは躊躇う素振りすら見せず、指先をすっと持ち上げた。
「――金貨、千二百枚」
ヒィッ、と誰かの悲鳴のような息を呑む音が競売室に響いた。
「せ……千二百枚ッ!? 七十七番、千二百枚のコールですッ!!」
競売人の声が裏返った。
千二百枚。
それは、中規模の貴族家が数世代にわたって蓄えるべき資産総額に匹敵する、破滅的な数字だった。
セレーナの上げ幅は、単なる資金力の誇示ではない。
相手に考える時間を与えず、小刻みな値上げで冷静さを取り戻させる隙を一切排除する――為替相場で獲物を瞬殺するディーラー特有の、暴力的なペースメイクだった。
「千二百……!? な……なんなんだ、あいつは……!?」
カシアンの額から、大粒の汗がボタボタと滴り落ち、膝の上の礼服を濡らした。
心臓が早鐘を打ち、視界がチカチカと明滅する。
無理だ。払えるわけがない。千二百枚など、実家のベルンハルト侯爵家の名を質に入れても、今夜中に用意できる金額ではない。
「カ、カシアン様……!」
その時、ルチアが震える手で、カシアンの上着の袖口をぎゅっと掴んだ。
涙に濡れた瞳で、悲痛な面持ちで見上げてくる。
「もう……もうおやめになってくださいまし……! 千二百枚だなんて、狂気の沙汰ですわ! 私のために……私のような惨めな女のために、カシアン様が身を滅ぼすようなことになっては、私、申し訳なくて死んでしまいます……!」
「ル、ルチア……」
「お気持ちだけで、十分です……! あなた様が私のためにここまで戦ってくださったという事実だけで、私は……一生、幸せでいられますもの……!」
――お気持ちだけで、一生幸せ。
その言葉。
可憐で、健気で、男を思いやる聖女のような哀願。
だが――カシアンの狂乱した脳髄にとっては、これ以上なく強烈な『毒の起爆剤』だった。
(一生幸せ……? 冗談じゃない! ここで引けば、俺はただの『絵画一枚すら買ってやれなかった負け犬』じゃないか! そんな男に、この娘が金貨三万枚の遺産を差し出すはずがないだろうが!!)
カシアンの思考は、すでに完全に破綻していた。
『勝者の呪い(Winner's Curse)』――競売において、最も過大に評価し、最も高い代償を支払った者だけが勝利を手にするという経済学の罠。
この勝負に勝たなければ、これまでの投資も、見栄も、ルチアとの関係も、すべてが水泡に帰す。
勝つしかない。何をしてでも、どんな手段を使ってでも、あの絵を手に入れなければならないのだ!
「だ、だが金が……千枚を超える現金など、今すぐには……」
カシアンが狼狽し、爪を噛みかけた、まさにその瞬間だった。
「――侯爵閣下」
すっと、影のようにボックス席の背後に歩み寄ってきた男がいた。
黒い燕尾服を着た、サロン専属の老給仕。
その手には、上質な羊皮紙の束と、インクを含ませた羽ペンが載せられた銀のトレイがあった。
二階席のイザベラが、カシアンの資金ショートを見越して素早く手配した、提携高利貸しの『即日緊急融資契約書』だった。
「イザベラ夫人からの特別なご配慮でございます。ベルンハルト侯爵領の直轄農地、ならびに王都別邸の徴税権を担保にしていただければ……提携の商業銀行より、最大で金貨二千五百枚までの即時決済手形を、この場で発行可能でございます」
「な……っ! 領地の直轄農地と、別邸の徴税権を……!?」
カシアンの手が震えた。
それは、実家のベルンハルト侯爵家にとっての生命線、一族の誇りそのものだった。
もし返済が焦げ付けば、先祖伝来の土地をすべて失い、実家から完全に勘当される。
「閣下、いかがなさいますか? 署名をなさらないのであれば、この絵画は七十七番の淑女の手に渡ることになりますが……」
老給仕が無機質に問いかける。
壇上では、競売人が木槌を振り上げていた。
「千二百枚、一度目! 千二百枚、二度目……!」
「ま、待て……! 待ってくれ……!」
カシアンの頭の中で、理性の警報と、破滅的な虚栄心が激しく衝突する。
だが――その時、隣にいたルチアが、胸元を押さえながら、今にも泣き崩れそうな顔でカシアンの腕にすがりついてきたのだ。
「ダメです、カシアン様! サインなさってはダメです! そんな危険な借用書、絶対に書いてはなりませんわ……!」
(――リアクタンスの最終爆縮)
ダメです。
サインしてはなりません。
その懇願が、カシアンの最後の一線を完全に粉砕した。
「うるさい! 僕を指図するなッ!」
カシアンはルチアの手を乱暴に振り払い、トレイから羽ペンをひったくった。
そして、契約書の条項など一行も読まず、震える手で一気に自らの署名と血判を叩きつけたのだ。
「これで文句はあるまい! 金を出せ! 手形を寄越せェッ!」
老給仕が冷徹に一礼し、金貨二千枚の署名入り手形をカシアンの手へと滑り込ませる。
借金を背負った瞬間、カシアンの瞳には万能感という名の完全な狂気が宿っていた。
手形を高く掲げ、壇上の競売人に向けて怒号を轟かせる。
「金貨、千五百枚だァァッ!!」
ドォンッ! と競売室が揺れた。
千五百枚。もはや貴族の道楽の領域を完全に逸脱した、狂気の沙汰。
客席の貴族たちは恐怖の表情を浮かべ、カシアンを狂人を見るような目で見つめていた。
だが――悪夢は終わらない。
最後列のセレーナ・ハイドは、その狂乱のコールを受けてもなお、眉一つ動かさなかった。
彼女は手元の時計をチラリと一瞥した。
財務省の監査部隊と王立鑑定局長が、サロンの正面玄関を包囲する予定時刻まで――あと三分。
計算通りの時間配分。
セレーナは冷ややかに息を吐き、競売札を再び、淡々と掲げた。
「――金貨、千八百枚」
「ひぃぃぃっ……!!」
客席のどこかで、誰かが失禁しそうな悲鳴を上げた。
千八百枚。
千五百枚を叩きつけた直後に、迷いなく三百枚を上乗せしてくる黒衣の怪物。
カシアンの視界が、真っ赤に染まった。
もはや金額の大小ではない。
目の前の女を殺すか、自分が死ぬか。それだけの原始的な闘争本能に、脳の全機能がハイジャックされていた。
「二千枚だ! 金貨二千枚!!」
カシアンが絶叫する。
「――金貨、二千五百枚」
セレーナが間髪を容れずに被せる。
機械のように正確無比な、魂を削り取るコール。
「に、二千……五百……!?」
競売人の手がガタガタと震え、木槌を取り落としそうになる。
二階席のイザベラも、扇子を落としそうになりながら立ち上がっていた。
金貨二千五百枚。偽造絵画一枚に、国家予算の一部に匹敵する金が動いている。
カシアンの担保にした領地と別邸の価値の、ほぼ限界値。
カシアンの全身から、湯気のように汗が噴き出していた。
口から泡を吹き、目は充血して飛び出しかけている。
これ以上は出せない。
これ以上を出せば、担保すら足りず、自分自身の身柄そのものを奴隷として売り飛ばすしかない。
だが――諦められない。
ここで諦めれば、自分は金貨二千枚の借金だけを背負った、ただの破滅者だ。
絵を手に入れて、ルチアを手に入れて、金貨三万枚を手に入れるしかないのだ!
その時。
ルチアが、静かに立ち上がった。
純白のドレスの裾を揺らし、カシアンの至近距離へと歩み寄る。
そして――この世のどんな宝玉よりも美しく、慈愛に満ちた涙を瞳に溢れさせながら、カシアンの震える両手を、自らの白磁の手で優しく包み込んだのだ。
「……もう十分です、カシアン様」
その声は、耳元で鳴る天上の鐘の音のように甘美だった。
「もう十分……? な、何を言って……」
「あなたのお気持ちだけで、私は一生幸せです。……私のために、命すら投げ出す覚悟を見せてくださった。カシアン様、あなたこそが……私の、真の英雄ですわ」
ルチアは儚げに微笑み、カシアンの胸元にそっと顔を埋めた。
「ですが、これ以上は耐えられません。……あなたが壊れてしまうくらいなら、私はあの絵などいりません。どうぞ、札をお下ろしになって。……負けてくださいまし、私のために」
――負けてくださいまし。
――私のために。
その瞬間。
カシアン・フォン・ベルンハルトの脳内で、理性を繋ぎ止めていた最後の鉄の鎖が、跡形もなく吹き飛んだ。
(負けろ……だと!? この俺が、女の前で負けを認めろだと!?
英雄と言われたこの俺が、あんな黒いカラスのような女に敗北して、惨めに尻尾を巻いて逃げろというのかァァッ!?)
男の虚栄心という怪物は、絶頂に達した。
カシアンはルチアの体を突き飛ばすように跳ね除けると、客席の手すりを両手で鷲掴みにし、狂乱の形相で壇上へ向かって絶叫した。
「誰が負けるかァァァッ!! 金貨三千枚だァァッ!! 三千枚で落札しろォォォッ!!」
――金貨、三千枚。
日本円にして、およそ三十億円。
競売室の全空気が、一瞬にして凍結した。
息をする者すらいない。
蝋燭の炎の揺らめきすら止まったかのような、絶対的な静寂。
カシアンは狂気配した笑みを浮かべ、胸を上下させて荒い息を吐きながら、最後列のセレーナを睨みつけた。
「どうだ……! どうだ、言ってみろ! これ以上が出せるか、この売女がァッ!」
勝利を確信した狂人の咆哮。
――だが。
最後列のセレーナ・ハイドは、その絶叫を受け止めると。
ヴェールの下で、ふっと――心底から憐れむようなため息を一つ吐いた。
そして。
持っていた競売札を、カチャリと膝の上に下ろしたのだ。
何食わぬ顔でショールを整え、両手を膝の上で揃える。
その唇から漏れたのは、一言。
「……パス」
「え……?」
カシアンの表情が、間抜けに固まった。
カーン――ッ!!
静寂を切り裂き、壇上で木槌が高らかに打ち鳴らされた。
「金貨三千枚! 三度コール! ……落札ッ!! 前世紀の巨匠の幻の傑作『聖母の嘆き』は、ベルンハルト侯爵閣下の手へと渡りましたァァッ!!」
拍手は起きなかった。
ただ、異様な、不気味なまでの静寂だけが競売室を支配していた。
落札。
勝負はついた。
カシアン・フォン・ベルンハルトが勝ったのだ。
金貨三千枚の負債と引き換えに。
カシアンはよろめくようにその場にへたり込み、汗まみれの顔で、壇上のキャンバスを見つめた。
勝った。俺は勝ったのだ。
これでルチアは俺のものだ。金貨三万枚の遺産は俺のものだ――。
その背後で。
純白のドレスを纏ったルチア・フォン・グラナートは、静かに立ち上がり、何事もなかったかのようにショールを羽織り直した。
伏せられた紫紺の瞳の奥底で、残酷なまでの冷笑を浮かべながら。
(おめでとうございます、侯爵閣下。
あなたが大枚をはたいて買ったのは、ただのキャンバスと――破滅への特等席ですわ)
セレーナが札を下ろしたその動作こそが、サロンの外で待機していた財務省の監査部隊への、突入のゴーサインだったことなど、男は知る由もなかった。




