第15話:オークションの甘い罠
サロン『白百合の間』の最深部、重厚なベルベットのカーテンで覆われた隠し扉の先には、限られた選民貴族だけが入室を許される地下の『秘密競売室』が存在していた。
地上のサロンが甘美なリキュールと談笑の場であるならば、ここは剥き出しの虚栄心と投機の狂気が渦巻く、貴族社会の秘密の賭場だった。
半円形のすり鉢状に設計された競売室には、最高級の真紅のビロードが張られたボックス席が階段状に配置され、天井のドームからは無数の蝋燭を灯した真鍮のシャンデリアが、鈍く重々しい黄金の光を投げ下ろしている。
席を埋めているのは、王都でも指折りの資産家貴族や、怪しげな利権に群がる成金貴族たち。誰もが扇子や仮面で素性を隠しながら、これから始まる非合法オークションへの期待に目をぎらつかせていた。
そして――壇上の中央、黒いビロードの覆いが掛けられたイーゼルの横には、純白のドレスを纏ったルチア・フォン・グラナートが、所在なげに佇んでいた。
「……ふう」
ルチアは伏し目がちにショールを整えるふりをしながら、紫紺の瞳を研ぎ澄まし、周囲の空気と壇上の気配を冷静にサンプリングしていた。
前世――警視庁を翻弄した伝説の結婚詐欺師、一条玲奈の知識と嗅覚が、即座にこの部屋の異常性を炙り出す。
(……漂ってくるわね。特有の薬品臭が)
貴族たちが嗅いでいるのは、会場に焚かれた甘い乳香の香りだろう。
だが、ルチアの鼻腔は、その甘い香りの奥底に潜む、わずかな違和感を逃さなかった。
揮発性の高い乾性油、人工的に古色をつけるためのアンモニア蒸気、そして――塗料を急速に乾燥させるために使われる酸化鉛の微かな金属臭。
(壇上に置かれた目玉商品……前世紀の巨匠の幻の傑作『聖母の嘆き』。まだ描かれてから半年も経っていないわね)
ルチアは視線をわずかに壇上のイーゼルへ走らせ、額縁の木枠を凝視した。
重厚なオーク材のアンティーク調の額縁。虫食い穴や経年劣化によるひび割れが精巧に再現されているが、木材の切断面の角がわずかに鋭すぎる。本物の百年前の額縁ならば、手の脂や空気の摩擦で角が丸く擦り減っているはずなのだ。
絵の表面に走る細かいひび割れ(クラクリュール)も、経年変化による自然な亀裂ではなく、急速乾燥剤を使って人工的に焼き付けた不自然な均一さ。
(イザベラが地下工房で専属の贋作職人に描かせた、粗悪な模造品。原価など、額縁代を含めても金貨五枚にも満たないゴミ屑よ)
事前にオスカーから渡されていた捜査資料の記述通りの代物だった。
ルチアの口元に、冷徹な確信が微かに宿る。
これなら、王立最高美術鑑定局の専門家が特殊な溶剤を垂らせば、一分も経たずに化けの皮を剥ぎ取ることができる。舞台装置の「爆弾」は、すでに完璧にセットされていた。
「――お待たせしてしまったかい、僕の愛しい百合の花」
甘く、蕩けるような美声とともに、ルチアの隣のボックス席に滑り込んできたのは、カシアン・フォン・ベルンハルト侯爵だった。
波打つ金髪をかき上げ、蜂蜜色のヘーゼルアイを熱っぽく輝かせている。
その瞳の奥に宿っていたのは、先ほどサロンでルチアに声をかけてきた時のような単なる女漁りの軽薄さではなかった。
剥き出しの強欲と、何としてもこの女を手中に収めてみせるという、狂気じみた執着の炎だった。
(……ふふ。イザベラから、たっぷりと吹き込まれたようね)
ルチアは内心で冷笑した。
第14話で、ルチアがイザベラに信じ込ませた壮大な虚構。
――『南方自由都市同盟の大富豪の後見人から、金貨三万枚の信託遺産を引き継ぐ直前である』という情報。
イザベラは間違いなく、プライベートルームを出た直後にカシアンを呼び出し、「あの娘を絶対に逃すな、何としてでも籠絡して遺産を丸ごと奪い取れ」と厳命したはずなのだ。
借金まみれで首が回らないカシアンにとって、ルチアはもはや単なる「可憐な没落令嬢」ではない。
抱くだけで数万枚の黄金をもたらし、自らの負債を綺麗さっぱり帳消しにしてくれる、生涯最高の『黄金の金蔓』へと格上げされていたのだ。
「カシアン様……」
ルチアは頬を林檎のように赤らめ、怯えるように身を寄せた。
胸元で両手を合わせ、今にも消え入りそうな声で囁く。
「このような、選ばれた高貴な方々ばかりのお席に……私のような身の上の者が座っていてよろしいのでしょうか? 周りの皆様の視線が、怖くて……」
「何を言うんだい、ルチア」
カシアンは愛おしそうに目を細め、ルチアの華奢な肩へとそっと手を回した。
厚手の革手袋越しに、男の所有欲の熱が伝わってくる。
「君ほど高貴で、清らかな魂を持つ令嬢は、この部屋のどこを探しても見当たらないよ。見栄と宝石で塗り固めた有象無象の貴婦人たちなど、君の足元にも及ばない。……僕が隣にいるんだ。誰にも君を蔑ませたりはさせないよ」
カシアンは至近距離でルチアの耳元に唇を寄せ、吐息を吹きかけながら囁いた。
その視線は、壇上の覆われたイーゼルへと向けられている。
「見てごらん、ルチア。今夜のオークションの目玉……あれこそが、前世紀の幻の巨匠が遺したとされる名画『聖母の嘆き』だ。教会の奥深くに封印され、失われたと信じられていた奇跡の傑作だよ」
「まあ……『聖母の嘆き』……」
「ああ。天上の光を浴びて涙を流す、慈愛に満ちた聖母の肖像画だ。……先ほど、サロンで君の涙を見た瞬間、僕の魂は雷に打たれたように震えたんだよ。あの聖母の気高さ、澄んだ瞳の美しさは、まるで君そのものじゃないか、とね」
カシアンはルチアの手を取り、その白磁の甲にそっと唇を落とす真似をした。
そして、獲物を完全に仕留めるための、決定的な口説き文句を放った。
「ルチア。あの絵画を、僕が競り落として君にプレゼントしよう。……僕からの、真実の愛の証として受け取ってほしい」
(――来たわね)
ルチアの脳内の計算機が、冷徹にカチリと音を立てた。
カシアンの計算は透けて見えていた。
ここで金貨数百枚の見栄を切って絵画を買い与え、ルチアの心を完全に奪っておけば、数ヶ月後に彼女が手にする「金貨三万枚の遺産」から何十倍ものリターンとなって返ってくる。
男にとって、これは愛の告白などではない。
将来の莫大な果実をもぎ取るための、極めて打算的な先行投資に過ぎないのだ。
もし、ここでルチアが「まあ嬉しい! ありがとうございます!」と無邪気に喜んでしまえばどうなるか?
カシアンは満足し、「安い女だ」と内心で見下し、オークションで価格が高騰した際に「やはり無理だ」と冷静に手を引いてしまうリスクが生じる。
だからこそ――ここで使うべき心理技術は、受諾ではない。
『リアクタンス(心理的抵抗の誘導)』による、徹底的な拒絶だった。
「め、滅相もございません……!」
ルチアは弾かれたようにカシアンの手から自らの手を引き抜き、激しく首を横に振った。
その紫紺の瞳に、深い絶望と困惑の涙を溢れさせながら。
「カシアン様、お気持ちだけで胸がいっぱいです! ですが……そのような恐れ多いこと、決して受けるわけにはまいりません!」
「な……なぜだい、ルチア? 君への愛の証なんだよ?」
カシアンが虚を突かれたように目を見張る。
ルチアは両手で自らの胸元を抱きしめ、か細い肩を震わせて懇願した。
「幻の名画など、どれほど途方もないお値段がつきますことか……! 我がグラナート家は、借金に追われる貧乏子爵家です。私のような身の上の女のために、侯爵家の大切な財産を削るなど……もし、私のせいでカシアン様が無理をなさって、ご実家や騎士団でお立場を悪くなさったら……! 私、申し訳なくて生きていけませんわ……!」
ぽろり、と。
真珠のような大粒の涙が、ルチアの白磁の頬を伝って零れ落ちた。
「お願いです、カシアン様……! 私のために無茶をなさらないでください! やめてくださいまし……!」
――やめてください。
――無理をしないでください。
――私なんかのために、お金を使わないで。
その言葉は、弱者の切実な懇願のように響いた。
だが、自己愛性パーソナリティの塊であるカシアンという男の脳髄にとっては――これ以上なく強烈な『侮辱』であり、同時に抗いようのない『挑発』の劇薬だった。
(無理……だと? この俺が、無理をしているだと……!?)
ドクン、とカシアンの胸の中で、黒い自尊心の炎が爆発した。
人間は、行動を禁止されたり制止されたりすると、自らの自由と能力を証明するために、かえってその行動を貫徹したくなる強い心理的抵抗を抱く。
ましてやカシアンは、社交界で名門侯爵家の跡取りとしてちやほやされ、「金のない無能な男」と思われることを何よりも恐れている男だ。
惚れさせたはずの女から、「あなたには無理だ」「財産が心配だ」と哀れみの目で見られたのだ。
男のプライドが、猛烈な勢いで沸騰しないはずがなかった。
「何を言うんだ、ルチア!」
カシアンは思わず声を荒らげ、ルチアの細い両肩を力任せに抱き寄せた。
そのヘーゼルアイは血走り、呼吸は荒く乱れている。
「僕を誰だと思っているんだい!? 名門ベルンハルト侯爵家の跡取りであり、近衛騎士団の幹部たるこのカシアンだぞ! 絵画の一枚や二枚、競り落とすことなど造作もないことだ! 僕の財力を甘く見てもらっては困るな!」
「で、でも……高利貸しや借金のお噂も……」
「あんなものは下民どものくだらないデマだ!」
痛いところを突かれたカシアンは、激昂して唾を飛ばした。
「いいかい、ルチア。君のように気品に満ちた、大富豪の……いや、至高の令嬢に相応しいのは、本物の芸術品だけだ! 僕が君をどれほど深く愛しているか、このカシアンの器量がどれほどのものか……今宵、この場で王都中の貴族たちに見せつけてやる! あの絵は、必ず僕が競り落として君の足元に捧げてみせる!」
「カシアン様……そんな……!」
ルチアは困惑と感動に言葉を失ったように、潤んだ瞳でカシアンを見つめ返した。
胸元に手を当て、小さく息を呑む。
その可憐な仕草に、カシアンは完全に理性を焼き切られていた。
引くことなど、もはや絶対にできない。
ここで絵を諦めれば、自分はルチアの前で「口先だけの貧乏男」として恥を晒し、彼女が将来手にする金貨三万枚の遺産へのアクセス権も永遠に失ってしまうのだから。
(完璧。アクセルはベタ踏みされたわね)
ルチアは伏せられた長い睫毛の奥底で、冷酷極まる狩人の笑みを深めた。
男の見栄という生き物は、煽れば煽るほど、自ら火の中に飛び込んで灰になる愚かさを持っている。
カーン――ッ!
その時、壇上で真鍮の木槌が甲高く打ち鳴らされた。
すり鉢状の競売室の明かりが一斉に絞られ、中央のステージだけが、白く眩いスポットライトに照らし出される。
「紳士淑女の皆様! お待たせいたしました!」
燕尾服を着た競売人が登壇し、大仰な身振りで壇上の黒いビロードの覆いを一気に引き剥がした。
サァッ――!
現れたのは、黄金の額縁に収められた、縦一メートル半ほどの巨大な油彩画だった。
薄暗い背景の中、天からの光を浴びて涙を零す聖母マリアの姿。
客席の貴族たちから、どよめきと感嘆の息が漏れる。
「今宵の至高の目玉! 前世紀の巨匠の手により描かれ、歴史の闇に埋もれていた奇跡の幻の傑作――『聖母の嘆き』でございます! 王立絵画院の鑑定書、ならびに由緒正しき来歴証明書付きの逸品! 開始価格は……金貨三百枚よりスタートいたします!!」
金貨三百枚。
第1話でグラナート家を破滅の淵へと追い詰めていた、あの借金元本と同額の巨額。
平民の家が百軒建つほどの開始価格に、客席の貴族たちが息を呑み、値踏みするようにざわめいた。
だが――競売人の声が響き終わるよりも早く。
誰よりも素早く、誰よりも傲慢に、客席の最前列で高らかに札を掲げた男がいた。
「――金貨三百枚だ!」
カシアン・フォン・ベルンハルト侯爵だった。
彼は胸を反らせ、周囲の貴族たちを見下ろすように冷笑を浮かべ、隣のルチアに向かって「見たかい?」と言わんばかりに得意満面の笑みを投げかけた。
競売室の視線が一斉にカシアンへと集中する。
会場の隅、二階席の暗がりから、紫紺のドレスを着たイザベラ伯爵夫人が、獲物が罠に飛び込んだのを見届けて満足げに扇子を揺らしているのが見えた。
だが――ルチアの視線は、カシアンでも、イザベラでもない。
競売室の最後列、影の差した壁際に座る、黒いヴェールを深く被った小柄な女性へと向けられていた。
セレーナ・ハイド。
王都中央為替座の天才数学者であり、ルチアの最高の共犯者。
ヴェールの下で、セレーナが手にした競売札を指先で弄び、ルチアに向けて微かに顎を引いてみせるのを、ルチアは見逃さなかった。
(準備は完了ね、セレーナ)
ルチアはカシアンの腕にそっと触れ、震える声で囁いた。
「カシアン様……本当に、よろしいのですか……?」
「もちろんだとも、ルチア! 君のためなら、金貨三百枚など安いものさ!」
愚かな男の咆哮。
金貨三百枚など、まだただの序章に過ぎない。
これからこの部屋で繰り広げられるのは、美術品の売買などではない。
天才数学者が数字の力で男の虚栄心を極限まで釣り上げ、骨の髄まで搾り取る――残酷な公開処刑劇の幕開けだった。
「男の見栄という生き物は、『やめて』と懇願されると、喜んで火の中に飛び込む愚かさを持っていますの」
木槌の音が、破滅のカウントダウンのように、再び高く鳴り響いた。




