第13話:カシアンの接近
黄金色に磨き上げられた真鍮の燭台から、蜜蝋の甘い香りが燻ぶるように立ち上っていた。
王都随一の貴族街の一角、高い石壁に囲まれた豪奢な館の二階。そこが、選ばれた特権階級の者しか足を踏み入れることを許されない秘密の社交場――イザベラ・フォン・クランツ伯爵夫人が主宰する会員制高級サロン『白百合の間』だった。
床には東方諸国から輸入された最高級のペルシャ絨毯が敷き詰められ、足音を不気味なほど完璧に吸い込んでいる。
壁面を飾るのは、金泥で縁取られた神話画や、前世紀の巨匠の手によるものとされる豪奢な油彩画の数々。大理石の円柱の陰には、クリスタルの酒瓶と繊細なカットグラスがずらりと並び、甘美なリキュールと輸入葉巻の紫煙が、サロンの空気を退廃的な夢のように澱ませていた。
歓談する貴族たちの囁き声に耳を澄ませば、流れているのは数日前のモルガン伯爵邸での大スキャンダルの噂話だ。
「……聞いたかしら? クライン子爵家の愚息、ユリアンの破滅劇を」
「ええ、とんでもない無能でしたわね。身の程知らずにも南方航路の投機に全財産を突っ込み、船団の沈没とともに一族揃って一文無しだとか」
「モルガン伯爵令嬢のヴィヴィアン様も、あの男に騙されて夜会で大立ち回りを演じた挙句、領地の修道院へ送られたそうですわ。自業自得ですけれど」
「それにしても……あの場にいたという、グラナート子爵家の令嬢こそお気の毒ではありませんこと? 婚約破棄された上に、あんな借金塗れの男の見栄の巻き添えを食いそうになっていたなんて……」
貴族たちの会話を、ルチア・フォン・グラナートはグラスに口をつけるふりをしながら、壁際の大理石の柱の影で静かに拾い集めていた。
(よし……。情報統制は完璧ね)
ルチアは内心で冷ややかな笑みをこぼした。
社交界における認識は、ルチアの描いたシナリオ通りに完全に固定されていた。
すなわち――「ユリアンが己の見栄と強欲で勝手に投機に手を出し、自爆して破滅した」。
ルチア自身は、その愚かな男に裏切られ、捨てられ、それでも健気に耐え忍んでいた「可哀想な被害者の没落令嬢」。
彼女が裏でセレーナを使って空売りを仕掛け、金貨九百枚以上の差益を根こそぎ奪い取った張本人であるなどとは、神ならぬ貴族たちの誰一人として疑っていなかった。
犯罪者として警戒されることなく、完璧な『無害な子羊』としてこのサロンに潜入するための土台は、すでに完全に整っていたのだ。
今宵のルチアの装いは、モルガン邸の夜会で見せたものと寸分違わぬ、計算し尽くされた『純白のモスリンドレス』だった。
サロンに集まる貴婦人たちが、競うように重厚なサテンやベルベット、ギラギラとした宝石で己を飾り立てている中、装飾を極限まで削ぎ落とした白一色の佇まいは、まるで色鮮やかな花壇の片隅にぽつんと咲いた、露に濡れる百合のようだった。
ネックレスも、指輪も、ブレスレットもない。
ただ、透き通るような白磁のデコルテと、華奢な鎖骨の陰影。そして、夜風に吹かれた小鳥のように、どこか居心地悪そうに身を縮めて伏し目がちに佇むその姿――。
これこそが、詐欺の古典的手法にして最強の擬態、『トロイの木馬』である。
相手にとって「最も組みしやすく、警戒する必要がなく、簡単に騙せる獲物」の姿を演じること。
自らを無防備な肉片として差し出すことで、獲物を狙う肉食獣の警戒心を完全にゼロにし、自らの懐へと喜んで飛び込ませるのだ。
(さあ……お出でなさいな、放蕩侯爵)
ルチアが心の中で秒読みを始めた、その時だった。
ふわりと、甘ったるく鼻腔をつく香水の匂いが、背後から漂ってきた。
安物のコロンではない。薔薇の精油にアンバーグリスを微量にブレンドした、王都の高級調香師が仕立てた特注の香り。
続いて、ペルシャ絨毯を踏みしめる、軽やかで優雅極まる足音。
「――夜空にぽつんと浮かぶ、孤独な月のような令嬢だ」
まるで舞台俳優が吟遊詩人の詩を朗読するかのような、低く甘い美声が耳朶を打った。
「こんな華やかで喧騒に満ちた場所で、君のような清らかな花が一人、寂しそうに咲いているのを見過ごすことなど、紳士として到底できるはずがないよ」
ルチアは小さく肩を跳ねさせ、怯えたように振り返った。
目の前に立っていたのは、銀のトレイから取った二つのシャンパングラスを優美に掲げ、極上の甘い微笑みを浮かべている青年だった。
波打つ金髪を肩口まで優雅に遊ばせ、蜂蜜色のヘーゼルアイを細めて見つめてくる美男子。
近衛騎士団の儀仗用礼服を華麗に着崩し、首元には純白のスカーフ。
社交界の令嬢たちが『憂いの白馬の騎士』と呼んで熱狂する男――カシアン・フォン・ベルンハルト侯爵その人だった。
「お名前を聞かせてもらえないかい、美しい君?」
カシアンはルチアの瞳を真っ直ぐに覗き込み、わずかに首を傾げた。
女性のパーソナルスペースへと躊躇なく半歩踏み込み、自らの美貌と香りを暴力的なまでに浴びせかける、女慣れした完璧な距離感。
(――はい、プロファイリング開始)
ルチアの脳内で、冷徹無比な計算機が音を立てて火花を散らした。
伏し目がちに怯えた表情を作りながら、その紫紺の瞳は、男の全身を一瞬にしてスキャンしていた。
第一に、匂いと身なり。
高級な薔薇とアンバーの香水だが、首筋の香りがわずかに強すぎる。
(昨夜、別の女の部屋で朝まで過ごし、その女の残り香を隠すために出がけに大量に吹き付けたわね。礼服の袖口のレースは上質だけれど、カフスボタンの裏側に微かな緑青が浮いている。……本物の貴金属ではなく、真鍮に金メッキを施した安物。本物の宝石カフスは、とっくに賭博のカタに手放した証拠ね)
第二に、手元と爪。
磨き上げられ、ピカピカに手入れされた爪。近衛騎士を名乗っているくせに、剣ダコや弓ダコが一切ない、白く柔らかい掌。
(騎士団の任務などサボり倒し、女の体を撫で回すことしかしていない証拠。原価ゼロの口先と、生まれ持った顔面偏差値だけで生きてきた典型的な自己愛性パーソナリティ)
第三に、視線の泳ぎ方。
愛おしそうにルチアを見つめているように見せかけて、男の視線はコンマ数秒ごとに、ルチアの耳元、首元、そして指先を素早く舐め回している。
(身につけている装飾品を値踏みしているわね。『宝石をつけていない=金に困っている=孤独でつけ込みやすい=甘い言葉を囁けば簡単に手に入る』。……私の狙い通りに、完璧に誤認してくれたわ)
(投資対効果(ROI)――測定不能、完全なるマイナス無限大。
生きているだけで周囲の富を浪費し、他人の善意と恋心を食い潰すだけの、ただの『粗大ゴミ』ね)
ルチアは内心で冷酷に吐き捨てた。
前世でも、歌舞伎町や六本木に腐るほどいたタイプの男だ。自分を「選ばれた特別な男」だと信じ込み、女を騙して金を巻き上げているつもりが、最後は自らの見栄と浪費で借金まみれになって破滅していく哀れなヒモ男。
――だが。
ルチアの表層の仮面は、寸分の狂いもなく『可憐な薄幸令嬢』のそれを維持していた。
「あ……あ、あの……」
ルチアは頬を林檎のように真っ赤に染め、狼狽したように視線を泳がせた。
そして、胸元で両手をぎゅっと握りしめ、細い肩を小さく震わせて後ずさる。
「ぐ、グラナート子爵家が娘……ルチア、と申します……。あの、私のような……このような場に不慣れな田舎者が、侯爵閣下のような高貴な殿方に、お声をかけていただけるなんて……」
消え入りそうな、今にも泣き出しそうなほどか細い声。
ルチアは伏し目がちに上目遣いでカシアンを見上げ、怯えた小鹿のようにその薄い唇を震わせてみせた。
その瞬間――カシアンのヘーゼル色の瞳の奥に、獲物を捕らえた狩人の下卑た歓喜がギラリと閃いたのを、ルチアは見逃さなかった。
(かかった……! 噂通りのウブな没落令嬢だ!)
カシアンの脳内で、傲慢な計算が弾き出されていた。
元婚約者のユリアンに捨てられ、実家は借金まみれで没落寸前。
社交界のルールも知らず、男に甘い言葉を囁かれた経験すらない、世間知らずの世を儚む小娘。
しかも――この息を呑むような美貌だ。
粗末なモスリンのドレスを着ていようと、透き通るような白肌と、夜空のような黒髪、そして庇護欲を激しくそそる紫紺の瞳は、社交界のどんな着飾った令嬢よりも男の独占欲を刺激する。
(最高の上玉じゃないか……! 手負いの小鳥ほど、落とすのが簡単な獲物はいない。少し優しくしてやり、『君を守ってあげる』と囁いてやれば、すぐに俺に心酔して足元に縋り付いてくる。実家のグラナート領は寒村だが、先祖伝来の土地を担保にさせれば、金貨数千枚の借用書くらいは簡単に書かせられるぞ……!)
カシアンの口元に、さらに甘美で、蕩けるような笑みが深まった。
彼は差し出したシャンパングラスを、ルチアの震える指先へとそっと握らせた。
指先が触れ合う瞬間、わざと自らの温かい体温を伝えるように、優しくその白い手を包み込む。
「グラナート子爵令嬢……ルチア嬢、か。美しい名前だ。……怯えることはないよ、可憐なルチア」
カシアンは声を甘く低く落とし、ルチアの耳元へと顔を寄せた。
熱い吐息が、ルチアの耳朶をかすめる。
「君の身の上については、風の噂で耳にしているよ。……不実な元婚約者に裏切られ、どれほど辛く、冷たい夜を過ごしてきたことだろう。あのような下劣な男の言葉に、君のような気高く清らかな百合の花が傷つけられたのかと思うと……僕の胸は、張り裂けそうに痛むんだ」
「か、カシアン様……」
ルチアは潤んだ瞳でカシアンを見つめ返した。
胸元に手を当て、息を詰まらせる。
「私の……私のような者のことを、そんな風に思ってくださるなんて……」
「当然のことさ」
カシアンは胸を張り、自信に満ちた『英雄の眼差し』をルチアへと注いだ。
これこそが、数多の女性を狂わせてきたカシアンの常套手段――『メサイア・コンプレックス(救済者願望)の押し売り』である。
傷つき、孤立している女性に対し、「世界中が君を裏切っても、僕だけは君の味方だ」「僕が君を救い出す光になってあげる」と語りかけることで、相手の依存心を極限まで高め、精神的な主従関係を構築するのだ。
「もう一人で泣く必要はないよ、ルチア。今日、この瞬間から……僕が君の盾となり、剣となろう。君の世界を覆う暗雲を払い、僕が君の世界を眩い光で照らし出してあげる」
キザで、反吐が出るほど陳腐な口説き文句。
前世の一条玲奈であれば、吹き出してシャンパンを男の顔面にぶちまけていたところだ。
だが――ルチア・フォン・グラナートは、完璧な女優だった。
「あ……ああ……!」
ルチアの紫紺の瞳から、ぽろぽろと、真珠のような大粒の涙が零れ落ちた。
まるで、暗闇の底で初めて差し伸べられた光の手に触れ、魂を救済された聖女のように。
彼女は持っていたグラスを取り落としそうになりながら、カシアンの逞しい腕を、すがるようにその華奢な手で握りしめたのだ。
「信じられません……! カシアン様のような……こんなにもお優しく、立派な殿方が、私のような惨めな女を気にかけてくださるなんて……! 夢……夢を見ているようですわ……!」
「夢ではないさ、ルチア」
カシアンは内心でガッツポーズを突き上げていた。
落ちた。完全に落ちた。
わずか五分の会話で、この美しく世間知らずな没落令嬢は、自分という存在に完全に心を奪われ、心酔したのだと。
男の狩猟本能と肥大化したプライドが、最高の満足感で満たされていく。
「さあ、涙をお拭き。君の美しい瞳に、涙の雫は似合わない。……今宵は僕が、君のエスコートを務めさせてもらえないかい? このサロンには、君に見せたい素晴らしい芸術品がたくさんあるんだ」
「は、はい……! 喜んで、カシアン様……!」
ルチアは頬を染め、恥じらうように俯きながら、カシアンの差し出した腕に、そっと自らの細い腕を絡ませた。
カシアンは勝ち誇った笑みを浮かべ、ルチアを引き連れてサロンの中央へと歩き出した。
己が極上の獲物を手に入れたと信じて疑わない、哀れな羊の足取りで。
男が前を向いた、その刹那――。
カシアンの腕に寄り添うルチアの顔から、可憐な少女の羞恥も、涙の熱も、一切の表情が跡形もなく消え失せた。
伏せられた長い睫毛の奥。
月光を反射する紫紺の瞳に宿っていたのは――氷河の底よりも冷酷で、獲物の喉笛に静かに牙を立てる、完全なる捕食者の光だった。
(……ええ、たっぷりとお喋りなさいな、カシアン侯爵)
ルチアは心の中で、誰にも聞こえない冷笑を紡いだ。
甘い言葉で女を騙し、純情を食い物にしてきたその汚らわしい舌。
自分の虚栄心を満たすために、どれほど多くの女性を絶望の淵へと叩き落としてきたことか。
だが、安心していい。
あなたのその甘い舌は、これ以上ないほど有効に活用してあげる。
あなたが自分から全財産を差し出し、破滅の契約書にサインするその瞬間まで――たっぷりと、甘い夢を語らせてあげるから。
「甘い言葉を囁く男の舌は、切り落とす前にたっぷり喋らせておくのが一番ですわ」
二人の背後、サロンの奥のプライベートルームの扉が、音もなくわずかに開いた。
紫紺のドレスを纏ったサロンの女王――イザベラ・フォン・クランツ伯爵夫人の鋭い視線が、カシアンとルチアの姿を値踏みするように捉えたことにも、ルチアはとっくに気づいていた。
舞台の役者は、すべて揃った。
さあ――女ペテン師同士の、喰うか喰われるかの騙し合いの火蓋が切って落とされようとしていた。




