第12話:次なる獲物(ターゲット)
黒檀の執務机の上に置かれた銀の燭台が、微かにパチリと音を立てて火花を散らした。
深夜のヴァルハイト公爵邸北棟。副官レオンハルトが去ったあとの執務室には、再び冷徹な静寂が満ちていたが、先ほどまでの刺々しい緊張感は変質していた。
部屋を支配しているのは、冷酷な雇い主と、法外な報酬を要求するペテン師による――極めて精緻で、一切の甘さを排した戦略会議の熱気だった。
「座れ、ルチア。本題に入ろう」
オスカー・フォン・ヴァルハイト公爵は、机の引き出しから取り出したもう一冊の黒革のファイルを、ローテーブルの真ん中へと押し出した。
表紙には財務省の特務監査印とともに、赤インクで『至急・極秘指定』のスタンプが押されている。
ルチアは促されるまま、深いグリーンの革張りソファへと腰を落ち着けた。
指先を伸ばし、革の紐を解いてファイルを開く。
中に綴じられていたのは、王立絵画院が描いた二枚の精巧な肖像画と、それに付随する膨大な身元調査書、資産目録、そして被害者たちの悲痛な告発状の写しだった。
「……ほう」
ルチアの紫紺の瞳が、獲物を検分する鷹のように細められた。
一枚目の肖像画に描かれていたのは、波打つ金髪を肩まで伸ばし、憂いを帯びた甘いヘーゼル色の瞳をした、社交界随一の美男子だった。近衛騎士団の儀仗用甲冑を優美に着崩し、薄い唇には女性なら誰もが見惚れるような蠱惑的な笑みを湛えている。
「カシアン・フォン・ベルンハルト侯爵。二十七歳」
オスカーが、氷のように淡々とした声で解説を始めた。
「名門ベルンハルト侯爵家の次男にして、近衛騎士団の幹部。社交界では『憂いの白馬の騎士』などと呼ばれ、令嬢や未亡人たちの憧れの的だ。だが……実態は、毎夜の高級クラブでの豪遊、非合法賭博、そして際限のない贅沢品への浪費によって、実家の資産を食いつぶし、首が回らなくなっている借金塗れの寄生虫だ」
「見栄と浪費で膨れ上がった負債を、女の財布で埋め合わせているわけですわね」
ルチアは肖像画の男の袖口、指輪の数、胸元の装飾を一瞥し、即座にその人物像をラベリングした。
「典型的な自己愛性の浪費家。家柄と顔立ちという、生まれ持った減価償却資産だけを切り売りして生きている粗大ゴミですわ。……そして、もう一人は?」
二枚目の肖像画に視線を移す。
そこに描かれていたのは、三十歳前後の、息を呑むほど艶やかな美貌を持つ貴婦人だった。
豊満な肢体を締め上げるような紫紺のドレス、胸元に光る大粒のサファイア、そして何よりも――冷たい知性と底知れぬ強欲を隠した、切れ長の切れ味鋭い瞳。
「イザベラ・フォン・クランツ伯爵夫人。三十歳」
オスカーの声に、わずかな嫌悪が混じった。
「王都の貴族街の一等地に構える、会員制高級サロン『白百合の間』の主宰者だ。前王の時代に老齢のクランツ伯爵の後妻となり、夫の死後は膨大な遺産を相続して社交界の文化の庇護者として君臨している。……表向きは芸術を愛するサロンの女王だが、その実態は貴族たちの弱みを握り、裏の資金洗浄や非合法取引を差配する社交界の女衒だ」
「なるほど。甘い顔の男たらしと、冷徹な女ペテン師のタッグ、というわけですわね」
ルチアは調査書の束をめくり、二人が手を組んで行っている『ビジネス』の数字を読み解き始めた。
ページをめくる指が止まるごとに、ルチアの頭の中で、その手口の醜悪な全貌が鮮明に浮かび上がってくる。
「……古典的ですが、極めて悪質ですわね。ロマンス詐欺とポンジ・スキーム(出資金詐欺)のハイブリッドですわ」
「手口を説明してみろ。財務官たちの見解とお前の分析が一致するか確かめたい」
オスカーが腕を組み、試すようにルチアを促す。
ルチアは冷笑を浮かべ、ファイルの一節を指先でトントンと叩いた。
「舞台は、イザベラ伯爵夫人のサロン『白百合の間』。彼女はサロンに集まる若い世間知らずの令嬢や、夫を亡くしたばかりで孤独な富裕層の未亡人に近づき、こう囁くのです。『今、大陸東方の情勢不安により、前世紀の巨匠の美術品の価値が跳ね上がっている。信頼できる筋から、幻の名画を極秘裏に入手できるルートがある』と」
美術品投資という、貴族特有の文化的好奇心と虚栄心をくすぐる餌。
だが、名画の価格は金貨数百枚から数千枚。令嬢や未亡人が個人でポンと出せる金額ではない。
そこで登場するのが――『憂いの騎士』カシアン侯爵だ。
「カシアン侯爵は、ターゲットの女性に甘い言葉で近づき、熱烈な求愛を仕掛けるのです。『君の澄んだ瞳に、この名画を捧げたい。だが、今の僕には手持ちの現金が少し足りないんだ。……二人で半分ずつ出資して、この絵を共同購入しないかい? これは、僕たちの愛の共同資産だ』と」
「……反吐が出るな」
オスカーが吐き捨てるように呟く。
「ええ、聞くだけで虫酸が走る三流の口説き文句ですわ。ですが、恋に盲目になった世間知らずの女性にとっては、最高の甘美な毒になります。『半分は彼が出してくれる』という安心感、そして『二人の愛の証』というロマンティシズム。女性は喜んで自らの貯金を差し出す。足りない分は、イザベラ夫人が親切な顔をして紹介する『提携の高利貸し』から、領地や実家の資産を担保に借用書を書かせる」
そして、絵画を購入したあと――。
イザベラ夫人は数ヶ月間、少額の「絵画の価値上昇に伴う配当金」を女性に支払うのだ。もちろん、それは出資された金の一部を横流ししているだけの、ポンジ・スキーム特有のタコ足配当である。
女性は「本当に儲かっている、彼との愛も本物だ」と完全に信じ込み、さらに高額な絵画の共同購入へと誘い込まれる。
「そうして限界まで借金を膨らませたところで……カシアン侯爵は忽然と冷たくなり、音信不通になる。残された女性の手元にあるのは、法外な利息がついた借用書と――最初からイザベラが地下工房で作らせていた、原価金貨五枚にも満たない『精巧な贋作絵画』だけ」
ルチアは調査書に添付されていた、被害者女性の一覧を見つめた。
婚約破棄に追い込まれた子爵令嬢。
先祖伝来の屋敷を差し押さえられ、王都を追われた伯爵未亡人。
中には、借金を苦にして自ら命を絶った若い女性の名すらあった。
「カシアンとイザベラが巻き上げた被害総額は、過去二年で金貨一万枚を超える。……そして、その金の大半は、地下のマネーロンダリング口座を経由して、ある一人の男の懐へと流れ込んでいる」
オスカーの青い瞳が、凍てつくような冷気を帯びた。
「貴族院予算委員長、ロベルト・デュラン公爵だな」
「ええ。昨夜、閣下が仰った通りですわね」
ルチアは静かに頷いた。
ロベルト・デュラン公爵。前王時代から貴族院を牛耳る守旧派の首魁。
彼がカシアンとイザベラという二匹のハイエナを放し飼いにし、社交界の富を吸い上げさせているのだ。
「閣下。財務省の監査部隊を率いて、その『白百合の間』とやらに直接踏み込むことはできないのですの? 贋作の工房さえ押さえれば、詐欺罪と脱税で現行犯逮捕できるはずですけれど」
「それができれば、わざわざお前のようなペテン師を雇う必要はない」
オスカーは苦々しく眉根を寄せた。
「サロン『白百合の間』は、貴族院が定めた『貴族特権保護法』に基づく聖域指定を受けている。貴族院予算委員会の承認がなければ、財務省はおろか近衛兵部隊であっても令状なしの臨検や家宅捜索は不可能だ。そして、その承認権を握っているのが他ならぬロベルト公爵本人だ。俺が動こうとした瞬間、証拠はすべて地下の焼却炉で灰にされ、逆に俺が職権乱用で貴族院から告発される」
鉄壁の法的防壁。
国家権力の頂点にいるはずの財務卿ですら、特権階級の張り巡らせた古臭い法律の壁に阻まれ、手も足も出ないのだ。
正義の剣を振るおうとすれば、自らの首が飛ぶ。
だからこそ、オスカーはこれまで、この腐敗の温床を前に唇を噛み締めるしかなかった。
「……なるほど。法の番人とは、実に不自由な生き物ですわね」
ルチアは小さく笑い、背もたれに深く体重を預けた。
その紫紺の瞳には、困難を前にした怯えなど微塵もない。
むしろ、獲物の防御力が高ければ高いほど、それを内側から粉々に砕いて解体したときの快感(ROI)を想像して、ゾクゾクとした歓喜に身を震わせていた。
「正面から扉を蹴破れないのでしたら、答えは簡単ですわ、閣下」
「何だと?」
「彼ら自身に、内側から鍵を開けさせればよろしいのです」
ルチアは身を乗り出し、机の上に置かれていたペーパーナイフを指先で弄んだ。
冷たい鋼の刃先が、カシアンとイザベラの肖像画の間をピタリと指し示す。
「強欲な詐欺師という生き物はね、他人の金を騙し取っている時が一番警戒心が薄れるのです。そして何より――『これまで一度も失敗したことがない』という傲慢さが、最大の盲点になります。彼らにとって、私は格好の獲物に見えるはずですわ」
「……お前自身が、新たなカモとしてサロンへ潜入する気か?」
「ええ、当然ですわ。没落したグラナート家の薄幸の令嬢。男の甘い言葉にコロリと騙されそうな、世間知らずで世を儚む可憐な少女の皮を被ってね」
ルチアの口元に、冷酷極まる狩人の笑みが浮かぶ。
「カシアン侯爵には、私を新たな獲物として口説かせます。イザベラ夫人には、私を借金漬けにして骨までしゃぶる獲物として値踏みさせます。そして――彼らが『もっと大きな獲物を釣るために、全私財と隠し資産をすべて投じるしかない』という極限の状況を、舞台の上に作り上げるのです」
「……奴ら自身に、全財産を賭けさせるだと?」
「自滅ほど、美しく、合法的な終わり方はありませんわ。
相手が自ら望んで契約書に署名し、自ら望んで金庫の金を叩きつけ、そして自らの愚かさによって破滅する。そうすれば、ロベルト公爵であろうと庇い立てすることはできません。公衆の面前で詐欺の現場が暴かれれば、貴族特権など一瞬で吹き飛びますもの」
流れるような論理の展開。
相手の攻撃衝動をそのまま利用して投げ飛ばす、合気道のような詐欺の逆転構造。
オスカーは息を呑み、目の前に座る少女の横顔を凝視した。
恐怖も、躊躇いもない。
悪辣な犯罪者たちを、まるで盤上のチェスの駒のように冷徹に配置し、破滅のチェックメイトへと誘導していく圧倒的な胆力。
「……面白い。貴様のそのシナリオ、乗ってやろう」
オスカーの薄い唇が、獰猛な弧を描いた。
「必要な舞台装置は何だ? 財務省の極秘予算と情報網の範囲内であれば、可能な限りの便宜を図ってやる」
「では、まず一つ目。サロン『白百合の間』への正規の紹介状を手配していただきます。怪しまれないよう、カシアン侯爵が思わず食いつきたくなるような、絶妙なタイミングでね」
「問題ない。サロンに出入りしている中立派の伯爵夫人を通じて、自然な形で招待状をグラナート家へ届けさせよう」
「二つ目。潜入作戦の当日、王立最高美術鑑定局の最も腕の立つ鑑定士を、一名極秘裏に待機させてください。合図とともに突入し、その場で贋作の動かぬ証拠を突きつけるための『本物の専門家』が必要です」
「了解した。鑑定局長直属の、決して買収されない頑固な首席鑑定士を用意する」
「そして――三つ目」
ルチアは立ち上がり、ドレスの裾を優雅に整えた。
「私の最高の相棒と、合流する手はずを整えていただきますわ」
「相棒だと?」
「ええ。先日のユリアン様の件でも見事な手腕を発揮してくれた、王都中央為替座の敏腕ディーラー――セレーナ・ハイドですわ」
ルチアの紫紺の瞳が、妖艶な光を放つ。
「今回の獲物を料理するには、サロンの内部での心理戦だけでは足りません。競売の現場で価格を神懸かり的なペースで吊り上げ、カシアン侯爵を『勝者の呪い』の底なし沼へと引きずり込む、完璧なサクラが必要なのです。数学と市場の数字を完全に掌握できる女……セレーナの計算能力が不可欠ですわ」
「……セレーナ・ハイドか。平民出身でありながら、為替座の数字を牛耳る天才数学者だな。すでに身元調査は済んでいる。レオンハルトを通じて、今夜のうちに極秘の接触ポイントを設定させよう」
「助かりますわ、閣下」
ルチアは深々と、非の打ち所のないカーテシーを執った。
深夜の執務室の窓の向こう、東の空がかすかに白み始めている。
新たな獲物たちの首に、目に見えない死の縄がかけられようとしていた。
カシアン・フォン・ベルンハルト侯爵。
イザベラ・フォン・クランツ伯爵夫人。
女たちの涙と絶望を糧にして肥え太ってきた、社交界のハイエナども。
ルチアは唇を舐め、心の中で冷酷に舌なめずりをした。
「女の恋心を食い物にする男ですか。……ふふ、最高の獲物ですわね。料理のしがいがありますわ」
氷の執務室をあとにしたルチアの足音は、夜明けの冷たい廊下に、確かな勝利のリズムを刻んでいた。




