第二章:霧の向こうの鼓動
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青木ヶ原の樹海内の温度が急激に下がった。這い寄る霧はもはや単なる水蒸気ではなく、たった今沈黙したバスから彼らの視界を遮断する、白い帳となっていた。
「江戸くん、私の手を離さないで」冥がささやいた。
冥の手は氷のように冷たかったが、不自然なほどの力で江戸の指を握りしめていた。守るべき立場であるはずの如月 江戸は、逆に冥の手のひらから自分の心臓へと、奇妙な電流が流れるのを感じていた。
「ここにいるよ、冥ちゃん。何があっても君には触れさせない」江戸は勇気を振り絞り、震える声で答えた。
背後では、朱莉が電源の切れたスマホで電波を探しながら毒づき続けていた。「信じられない! なんであの負け犬の赤目のカバンがこんなところにあるのよ? 誰かが私たちをからかってるに決まってるわ!」
江戸は朱莉を無視した。彼の意識は冥だけに向けられていた。この暗い森の中で、冥だけが唯一の安らぎだった。しかし、その静けさはどこか異様だった。冥は怯えている様子がなかった。むしろ、湿った土と……何かが腐ったような臭いが混じる森の空気を、懐かしい香水でも嗅ぐかのように深く吸い込んでいた。
「江戸くん、聞こえる?」冥が突然問いかけた。彼女が足を止めたため、江戸も人の内臓のように根がうねる檜の木の下で立ち止まった。
「何が聞こえるの? 風の音だけでしょ?」
冥が近づき、江戸の肩に頭を預けた。本来ならロマンチックなはずの光景だが、江戸は鳥肌が立つのを感じた。彼女の呼吸が正常ではなかったからだ。少女は、まるで時を刻むタイマーを確かめるかのように、江戸の鼓動を聴いていた。
「風じゃないわ。爪が木と擦れ合う音よ。テケ……テケ……。彼女、あなたを見ているわよ、江戸くん。私に嫉妬してるのね」
江戸は凍りついた。「嫉妬? 誰が――」
「赤目ちゃんよ」冥は、恐ろしいほどの慈しみを含んだ声で呟いた。「彼女も昔、あなたのことが好きだったんでしょ? 朱莉があの有刺鉄線に彼女を突き落とす前はね。今の彼女には体半分しかないけれど、あなたへの愛は……ああ、まだそのまま。以前よりもずっと大きくなっているわ」
その瞬間、隣の茂みが激しく揺れた。
ズサァッ……ズサァッ……
それは足音ではない。乾燥した落ち葉の上を、何かが重々しく引きずられる音だ。江戸が暗闇に目を凝らすと、一瞬、爪が剥がれ血に染まった青白い両手が、人間の腰ほどの高さの幹を掴むのが見えた。
「江戸くん、知ってる?」冥が江戸の方を振り向いた。細い月明かりの下で、彼女の漆黒の瞳がぎらりと光る。「この村にあの鉄線を張る許可を出したのは、あなたの家族なのよ。だから、技術的に言えば……赤目ちゃんを真っ二つに斬ったのは、あなたの手なの」
冥は江戸の蒼白な頬に口づけをした。その唇は冷たい金属のような感触だった。
「でも、怖がらないで。私が彼女の『半分』からあなたを守ってあげる。あなたが私のもの(・・・・)でいてくれる限りね」
遠くで、朱莉の悲鳴が静寂を切り裂いた。捕食者は今、獲物を見つけ出したのだ。




