第9話 涸れた道の先で
行き先を決めない旅は、やがて道そのものを失った。
王都を離れて六日目。
地図の上では川が流れているはずの場所は、ひび割れた砂の筋になっていた。
水袋は、とうに空だ。
王都を飛び出した時から、ほとんど入っていなかった。
「……この先にも、水場はなさそうね」
ミレイアが、乾いた唇で呟く。
さすがに、いつもの涼しい顔は影を潜めていた。
「大丈夫だよ。歩いてれば、そのうち何か見つかる」
「それ、昨日も言ったわよ」
「昨日より、今日の方が見つかる気がする」
軽口を叩いたつもりだったが、声は掠れて、自分の耳にもみっともなく響いた。
照りつける陽が、容赦なく頭上から降ってくる。
舌が上顎に貼りついていた。足を一歩出すたびに、地面が少しずつ揺れる。
――罰、なのかもしれない。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
人を殺した人間が、のうのうと水を飲んで、飯を食って、旅を続けていいはずがない。
このまま、ここで干からびるのが、相応しい終わりなのかもしれない。
(アイナ)
視界の端で、茶色の髪が揺れた気がした。
笑って、籠を差し出してくる。花が、咲いている。
「……アイナ」
手を伸ばした瞬間、膝から力が抜けた。
熱い砂の上に倒れ込む。
「シルド!」
ミレイアの声が、水の底から聞こえるように遠かった。
***
「これを。ゆっくり、少しずつ飲んでください」
冷たいものが、唇に触れた。
水だった。
喉を鳴らして飲み込む。
一口ごとに、世界の輪郭が戻ってくる。
「慌てないで。急に飲むと、体を壊してしまいます」
穏やかな声だった。
ぼやけた視界の中で、灰色の修道衣を纏った人影が、自分の頭を支えているのが見えた。
被った頭巾の下から覗く瞳は、陽の光を透かしたように淡い色をしている。
「あなたは……」
「通りがかりの者です。枯れ木を拾いに来たところで、お二人を見つけました」
見れば、彼女の傍らに、乾いた枝を束ねた背負い籠が置かれていた。
腰には革の水筒。そこから、水を分けてくれたらしい。
「もう少し休めば、歩けるようになります。パンもありますから、無理のない分だけ」
そう言って差し出されたパンの欠片を受け取ろうとして、シルドは、ぎくりと手を止めた。
視界の下で、何かが白く光っている。
自分の腰の、短剣だった。
刃の紋が、微かに白く脈打っている。
王都の路地で見た、あの光と同じ色だ。
(……なんで)
シルドは慌てて外套の裾を引き寄せ、短剣を覆い隠した。
胸の鼓動が、耳の奥で大きく鳴る。
視線を上げると、ミレイアと目が合った。
彼女は、短剣と、目の前の修道女を、順に見ていた。
それから、何も言わずに視線を逸らす。
「……助かったわ。ありがとう」
「お気になさらず。倒れている人を、見捨てられないだけですから」
その言葉に、シルドの胸が、小さく軋んだ。
かつて自分が、ユリアに言った言葉と、どこか似ていたからだ。
倒れてたから。それだけ。
(僕は、こんな優しさを受け取っていい人間じゃない)
手の中のパンが、ひどく重かった。
「私は、ノエルと申します。この先の里の教会で、シスターをしています」
「里? この辺りに、人の住む場所があるのか?」
ミレイアが眉を寄せる。
ノエルは、少し困ったように微笑んだ。
「地図には載っていませんから。ここから半日ほど歩いた先に、小さな里があるんです。フェアリア、と呼んでいます」
「フェアリア……」
「身寄りをなくした子どもたちを引き取って、教会で育てているんです。戦で親を亡くした子、飢えで捨てられた子……この荒れ地には、たくさんいますから」
ノエルは、籠の枯れ木にそっと触れた。
「夜は冷えますから、薪がいくらあっても足りなくて。こうして、毎日拾い歩いているんです」
「お一人で?」
「ええ。子どもたちは、まだ小さいですから」
彼女の手は、荒れ地の風に晒されて、ところどころ赤く擦り切れていた。
けれど、指の運びには、どこか気品があった。
「里のことは、外の方にはお話ししないでいただけますか。見つかれば、子どもたちが奪われてしまうかもしれません」
「どうして、僕たちに教えてくれるんですか」
シルドは思わず尋ねた。
ノエルは、不思議そうに首を傾げる。
「放ってはおけないだけです。行き場のない人のための里ですから」
何でもないことのように、彼女は言った。
「それに、あなたの目が、少し……」
言いかけて、ノエルは口を閉ざした。
「いえ、何でもありません。良ければ、里へご案内します。今夜は、教会で休んでいってください」
シルドは、何も言えなかった。
返事の代わりに、握りしめたパンを、ぐっと噛みちぎる。
しょっぱい味がした。いつの間にか、涙が混じっていた。
***
日が傾き始めた荒れ地を、三人は並んで歩いた。
前を行くノエルの背中は、籠の重みで少し傾いている。
その歩みに合わせて、外套の下の短剣が、また白く脈打った。
「……ミレイア」
シルドは、声を潜めた。
「また、光ってる」
「ええ。見ているわ」
ミレイアは、前を見たまま答える。
「僕は、何もしてない」
「分かってる」
沈黙が落ちた。
風が、乾いた砂を巻き上げていく。
「王都の路地で見たのと、同じ光なんだ。あの時、僕は……」
言葉が、喉に詰まる。
シルドは、拳を握りしめた。
「あの人のそばにいると、短剣が光るんだ。……また、あの時みたいに、自分が自分じゃなくなる気がするんだ」
「……」
「僕は、近づいちゃいけない」
ミレイアは、何も答えなかった。
答えられなかったのだと、シルドは気づいた。
腰の短剣が、とく、と脈を打つ。
外套の下で、シルドはその柄を、爪が食い込むほど強く握った。
(もう、誰も殺さない)
心の中で、そう誓った。
誓えば誓うほど、その言葉が、ひどく脆く思えた。
遠くの丘の向こうに、小さな灯りがいくつも浮かび始めていた。




