第8話 笑えているうちは
二度目の朝は、驚くほど晴れていた。
草原の向こうでは、王都を覆い隠すほどの大樹が、朝日を浴びて揺れている。
風が吹くたびに、葉擦れの音がここまで届くようだった。
「おはよう、ミレイア! 今日もいい天気だね」
シルドは焚き火の前にしゃがみ込み、干した根芋を炙りながら、努めて明るい声を出した。
「……随分と、元気ね」
「うん。泣くだけ泣いたからさ。ほら、もう全然平気」
シルドは、炙った芋を掲げて見せた。
口を動かし続けていないと、何かが零れてしまいそうだった。
自分の口から出る声が、少し高い。それに気づかないふりをして、芋をひっくり返す。
「お母さん、お腹空いた」
いつもの冗談だった。
いつもなら、低い声で「シルド」と叱られるはずの。
けれどミレイアは、何も言わなかった。
ただ黙って、炙りかけの芋を一つ、シルドの手に押しつける。
怒られなかったことが、胸のどこかに、小さく刺さった。
昼が近づくにつれて、遠くの街道に人影が増えていった。
王都から逃げてきた者、大樹を一目見ようと駆けつけた者。
草原の端に膝をつき、泣きながら土に額を押しつけている老人もいる。
「緑だ……本物の緑だ……」
「神の御業だ。きっと、王都が救われたんだ」
人々のざわめきが、風に乗って聞こえてくる。
シルドは岩陰に身を隠したまま、それを聞いていた。
「聞いたか。王女様が、お隠れになったそうだ」
「樹になられたんだと。ご自分の命と引き換えに、王都を緑に変えたんだってよ」
「違うだろ。殺されたんだ。旅の小僧が、短剣で」
息が、止まった。
「緑花教の神官様が、そう仰ってる。短剣を持った黒髪の少年だと。エルフの女を連れてるらしい」
「王女殺しの賊か。懸賞金が出るって話だぞ」
「でも、あの樹は……」
「樹は樹だ。殺しは殺しだろう」
シルドの口元が、ひきつった。
けれど次の瞬間には、無理やり笑みの形に整えて、ミレイアを振り返る。
「参ったな。僕、有名人になっちゃったよ」
ミレイアは、やはり何も言わなかった。
その時だった。
「探したぜ」
岩陰の背後から、聞き慣れた声がした。
外套の裾を裂き、頬に擦り傷をこしらえたユリアが、片手を上げて立っていた。
「ユリア! 無事だったのか!」
「当たり前だろ。……いや、正直ぎりぎりだった」
ユリアはその場にどさりと腰を下ろし、息をつく。
「大樹が生えた時の混乱に紛れて、砂塵衆は散った。頭目のデミスも、配下を連れて逃げたよ。あの神官は、仲間に運ばれていった。あんたの名前も顔も、街中に触れ回ってるぞ」
「聞こえてた」
シルドは、笑った。
「じゃあ、王都にはもう戻れないね」
「そういうことだ」
ユリアはしばらくシルドを見つめていたが、やがて懐から、布に包んだ何かを取り出した。
「ほら、受け取れ」
「え?」
包みを解くと、擦れた表紙が現れた。
大きな樹と、足元に広がる一面の緑。
市場通りの雑貨屋で、シルドが指を離せなかったあの絵本だった。
「宿を押さえた後、少し一人で出てな。銀貨二枚、きっかり払ってきた」
「どうして……」
「借りの一部だ。言っただろ、残りは旅の間に少しずつ、ってな」
シルドは、表紙の大樹を見つめた。
目の前の草原の向こうに、本物の大樹が立っている。
絵本の中の大樹は、もっとずっと、優しい顔をしていた。
「ありがとう。大事にする」
声は、笑っていた。
笑いすぎなくらいだった。
ユリアはふと、草原の向こうの大樹に目をやった。
眩しいものを見るように、目を細める。
「……あれが、緑ってやつか」
「うん」
「そうか。……綺麗なもんだな」
その言い方は、どこか遠かった。
横顔には、笑みとも苦みともつかない影が差している。
「ただ、俺はここまでだ」
ユリアが、静かに告げる。
「懸賞金のかかった連中と歩けば、嫌でも目立つ。俺は別行動で動く。それに、少し野暮用もあってな」
「そっか。寂しくなるな」
「どうせ、また会うさ」
ユリアはそう言って、片頬だけで笑った。
***
夜になると、草原は驚くほど静かだった。
ミレイアは焚き火の番をしながら、少し離れた場所で横になっているシルドの背中を見ていた。
規則正しい呼吸。けれど、あまりにも規則正しすぎた。眠っている人間の息ではない。
「寝たふりが下手ね」
聞こえないほどの声で呟くと、背後で足音がした。
「あの坊やは、まだ起きてるのか」
ユリアが、闇の中から現れた。
彼は焚き火の向こう側に腰を下ろし、揺れる炎を見つめる。
「ええ。笑ってる間は、眠れないものよ」
「……あれは、笑ってるって言うのか」
「あの子にとっては、そうなのでしょうね。笑えている間は、まだ立っていられるから」
沈黙が、火の爆ぜる音で埋まった。
「なあ、エルフの姐さん」
「何」
「あんた、俺のことを人間じゃないと思ってるだろう」
ミレイアは、薪を一本くべた。
「三日食べなくても平気な顔をして、日が落ちると血色がよくなる人間なんて、聞いたことがないわ」
「……見逃してくれるのか」
「今はあの子で手一杯よ。……全部片付いたら、あなたも捕まえに行くわ」
ユリアは、喉の奥で小さく笑った。
「恩に着る。あの坊やの前では、まだ黙っていてくれ」
「私は何も言うつもりはないわ。……ただ」
ミレイアは、横たわるシルドの腰に目をやった。
「あの短剣、あのときはもっと光っていたのよ」
眠るシルドの傍らで、短剣の刃に刻まれた紋が、呼吸に合わせるように、かすかに明滅している。
路地で見た白い輝きには、まだ遠い。けれど、消えてはいない。
彼女の目は、そこから離れなかった。
血を吸って、あの路地に緑を呼んだ刃。
光が残っているなら、あれで終わりとは限らない。
もし次があるのなら、それはいつ、何をきっかけに起きるのか。確かめる術は――。
そこまで考えて、ミレイアは自分の思考を打ち切った。
唇を、固く結ぶ。
口にしてはならない類の考えだった。
研究者としては、喉から手が出るほど知りたい。
けれど、その先にいるのは、あの子だ。
「どうした」
「……何でもないわ」
ミレイアは、炎に視線を戻した。
言えない言葉を、飲み下すようにして。
***
夜明け前、ユリアの姿は、もう草原のどこにもなかった。
焚き火のそばに、昨夜まで彼が座っていた跡だけが、薄く残っている。
「行ってしまったのね」
「うん。またどこかで会えるさ」
シルドは荷袋に、絵本をそっとしまった。
背負い直す手が、ほんの少しだけ、震えていた。
「ミレイア、行こう。ここにいたら、あの神官が追ってくるだろ。懸賞金もかかってるし」
そう言って、シルドは笑ってみせた。
「それに、ミレイアの研究に付き合うって言ったろ。この短剣のことも、僕のことも、一緒に調べてよ」
その声は、驚くほど明るかった。
明るくなければ、足が止まってしまいそうだった。
ミレイアは、しばらく黙っていた。
それから、短く答える。
「……そうね」
シルドは、一度だけ振り返った。
朝日の中で、大樹が静かに枝を揺らしている。
その根元には、もう会えない人が眠っている。
何か言おうとして、唇が動いた。
けれど、声にはならなかった。声にしてしまえば、笑顔が崩れてしまう気がした。
シルドは、唇を噛んで、前を向く。
腰の短剣が、とく、と一度だけ脈打った。
シルドは気づかないふりをして、柄を強く握りしめ、歩き出した。




