第7話 秘めたる力
「走れ!」
メナスの怒号に、シルドはアイナの手を握り直した。
路地の出口まで、あと十歩もない。
屋根の上で、いくつもの弓が引き絞られる音がした。
風を切る音。
一本、二本。石畳に矢が弾ける。メナスが杖で払い落とすが、数が多すぎた。
「ぐっ……!」
三本目が、メナスの太腿を貫いた。
彼は声を殺して膝をつく。
「メナス!」
アイナの悲鳴が、路地に反響する。
その時、屋根の端にいた一つの影が、静かに弓を構え直した。
鏃の向かう先に、シルドは気づいてしまった。
――アイナの胸だ。
考えるより先に、体が動いていた。
アイナの前に飛び出し、両腕を広げる。
乾いた音が、胸元で弾けた。
矢は、襟元のロケットを撃ち抜いていた。
くすんだ銀の蓋が粉々に砕け、その奥の鏃が、シルドの胸に浅く食い込む。
熱い。血が、服に滲んでいく。
痛みよりも先に、胸の奥で何かが、ぱきん、と外れた気がした。
砕けた蓋の内側から、小さな絵が一枚、ひらりと舞い落ちる。
色褪せた絵の中で、若い男女が寄り添って微笑んでいた。
父さんと、母さん。
一瞬、そう思った。
けれど、違う。
隣で笑う女の顔を、シルドは知っている。物心ついた頃から、一番近くにあった顔だ。
その隣に寄り添う男は、色褪せた絵の中で、霞がかかったように輪郭がぼやけていた。
「……アリ、ア」
その名が、勝手に唇から零れ落ちた。
その瞬間、頭の中に、何かが一気に流れ込んできた。
黄金に輝く都。見渡す限りの緑。玉座と、冠の重み。
空を焦がす歯車の光。裂けていく大地。
泣きながら自分の頬に触れる、アリアの白い手。
彼女は、何かを言った。
けれど、その声だけが霞んで届かない。
「……ユルド・マイス」
名前が、舌の上に落ちた。
それが誰の名なのか、考えることはできなかった。
同時に、腰の短剣が熱を帯びる。
刃に刻まれた封印の紋が、ひび割れるように白く光った。
「シルドさん……?」
アイナの声が、ひどく遠くに聞こえた。
意識が、白く塗り潰されていく。
白。
刃が、柔らかなものに沈む感触で、意識が戻った。
目の前に、アイナがいた。
自分の右手に握られた短剣が、彼女の胸に深く埋まっている。
何が起きたのか、分からなかった。
頭上から、赤いものが雨のように降り注いでいる。
屋根瓦は無残に削げ落ち、その縁に、もう誰の影も立っていなかった。
「魔法……? 人間が、どうして……」
メナスの掠れた声が聞こえる。
けれど、シルドの耳には、何も入ってこなかった。
自分の手が、自分のものではないようだった。
握りしめた短剣の奥から、低い声が頭に響く。
――ニンゲンノ、セイデ。
アイナは、驚いたようにシルドを見上げた。
抵抗は、しなかった。
その唇が、微かに動く。
「……シルド……さん」
言葉は、そこで途切れた。
アイナの身体から、血が溢れた。
頬を伝った最後の涙が、胸から溢れる血の上に落ちる。
血と混じり合った一滴が、石畳へ零れ落ちた。
滴が触れた場所に、小さな種が生まれた。
崩れ落ちるアイナの身体を、地の底から伸びた根が抱きとめる。
同時に、足元の石畳が突き上がった。
「――っ!」
根の一撃が、シルドの身体を弾き飛ばす。
刃が、アイナの胸から抜けた。
石畳に背中を叩きつけられ、息が詰まる。
遠ざかった視界の中で、根に抱かれたアイナの身体から、芽が伸びていく。
芽は見る間に幹となり、石畳を割って天へ伸びた。
家々の屋根を越え、塔を越え、雲に届かんばかりの大樹となって枝を広げていく。
その根元から、緑が爆ぜた。
石の隙間から芽が噴き出し、草が路地を駆け抜ける。
蔦が壁を這い上がり、枯れた井戸の縁に白い花が咲いた。
通りの緑鉢の、青白い水で育てられた葉の傍らで、本物の緑が、砂になることなく風に揺れている。
「姫さま……っ!」
メナスの絶叫が聞こえた。
「貴様……よくも、姫さまを……!」
答えようとしたが、声が出ない。
足元の草が、ひどく眩しかった。
「シルド!」
誰かが、自分の肩を掴んだ。
ミレイアの顔が、滲む視界に映る。
髪は乱れ、外套の袖が裂けていた。
「しっかりしなさい、シルド! ここを離れるわ!」
遠ざかる意識の中で、シルドは、自分の手を見た。
刃を握っていた手は、血に濡れていた。その血に混じって、小さな緑の葉が一枚、貼りついていた。
***
頬を撫でる風が、草の匂いがした。
目を開けると、空が見えた。
知らない色の空だった。薄い朝焼けが、地平線から広がっている。
背中の下には、柔らかなものが敷かれていた。
シルドはゆっくりと身を起こし、掌で、それに触れる。
草だった。
見渡す限り、草原が広がっていた。
朝露を宿した葉が、風に波打っている。遠くには、若木の影がいくつも並んでいた。
遥か遠くに、王都の石壁が小さく見える。壁の内側からは、空を突くほどの大樹が、緑の梢を朝焼けに染めてそびえていた。
「……起きたのね」
背後から、ミレイアの声がした。
彼女は膝を抱えるようにして、草の上に座っていた。
「ここは……」
「王都から離れた草原よ。あなたを担いで、門を抜けて、ここまで逃げたの。重かったわ」
「砂塵衆は?」
「足止めだけして、振り切ってきたわ。あの騒ぎで、それどころじゃないでしょうけど」
「みんなは?」
「ユリアとははぐれたわ。あの男なら、勝手に追いついてくるでしょう。……面倒になりそうだったから、神官は、置いてきたわ」
そこで、ミレイアは言葉を切った。
シルドは、自分の手を見つめる。
血は拭われ、胸の浅い傷にも布が巻かれていた。けれど、あの感触だけは、はっきりと残っていた。
それ以外にも、何か大切なものを見た気がする。思い出そうとするほど、指の間から零れ落ちていった。
「アイナは?」
問いかけに、ミレイアは答えなかった。
答えがないことが、答えだった。
「……僕が、やったんだ。気づいたら刺していたなんて、言い訳にもならない」
ミレイアは何も言わず、先を促すように視線を向けた。
「刃が沈んだ感触も、アイナの手の温かさも、まだ残ってるんだ。それから、最後の涙も――」
声が、喉の奥で潰れた。
目の前には、緑があった。
自分が焦がれた、あの緑だ。
絵本の中でしか知らなかった景色が、足元いっぱいに広がっている。
美しい、と思ってしまった。
胸が震えるほど、嬉しいと思ってしまった。
同時に、涙が止まらなかった。
「嬉しいんだ……」
シルドは、顔を覆った。
「アイナが死んだのに、嬉しいと思ったんだ、僕は。これを見て」
ミレイアは、何も言わなかった。
慰めの言葉も、咎める言葉もなかった。
ただ、泣き続けるシルドの横で、朝の風が吹き抜けるのを、黙って聞いていた。
***
薄暗い部屋に、燭台の灯りが一つだけ揺れていた。
窓のない石の部屋の中央で、一人の女が、掌を見つめている。
そこには、シルドが持っていたものと同じ形の、銀のロケットがあった。
ただ、女のそれは蓋が開いている。内側の鏡面には、朝焼けの草原が、小さく映っていた。
草原の上で、少年が膝を折っている。
その傍らには、エルフの女が黙って座っていた。
女はしばらくの間、鏡面の中の少年を見つめていた。
やがて、静かな声が、誰もいない部屋に落ちる。
「……順調のようね」
声は穏やかだった。
けれど、ロケットを握る指先は、小さく震えていた。
女は、ゆっくりと蓋を閉じた。




