第10話 隠れ里フェアリア
日が落ちる頃、荒れ地の底が、不意に口を開けた。
岩肌に隠された細い道を下ると、すり鉢状の窪地の底に、小さな灯りが寄り集まっていた。
窪地の中央からは、うっすらと白い靄が立ちのぼっている。
「水の匂いがするわ」
ミレイアが、鼻を鳴らした。
「底に湧き水があるんです。この里が、荒れ地の中でも生きていられるのは、そのおかげで」
ノエルは、背負い籠を揺すり上げながら言った。
「外からは、窪みの縁が岩に隠れて見えません。だから、誰も気づかないんです」
「確かに、地図に載るはずがないわね」
家々は、石を積んだだけの簡素なものばかりだった。
その中で、一番奥にある建物だけが、苔むした尖塔を戴いている。
欠けた鐘が、軒下で風に揺れていた。
「ノエルさまだ!」
誰かが叫んだ途端、教会の扉が開いて、子どもたちが一斉に飛び出してきた。
十人、いや、もっといる。
裸足の子、擦り切れた服の子。年長の少年から、よちよち歩きの幼子まで。
「おかえりなさい、ノエルさま!」
「薪、たくさんあった?」
「その人たち、だあれ?」
足元に群がる子どもたちを、ノエルは嬉しそうに受け止める。
荒れ地で見せていた静かな微笑みとは違う、年相応の笑顔だった。
「道に迷っていた旅人さんですよ。今夜は、教会に泊まっていただきますからね」
「ほんとに? やった!」
くるりと、子どもたちの視線が、シルドとミレイアに集まる。
「このお姉ちゃん、耳がとがってる!」
「ほんとだ! 魔法使いかなあ」
「……エルフよ。あまり引っ張らないでちょうだい」
ミレイアの顔が、わずかにひきつった。
その横で、シルドはひそかに半歩下がる。
外套の下で、短剣が白く脈打っていた。
ノエルが笑うたびに、強くなる気がした。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
小さな女の子が、シルドの裾を引いた。
五、六歳くらいだろうか。くせのある髪に、枯れ草が絡まっている。
「あ、ううん。なんでもないよ」
「ミナだよ。お兄ちゃんは?」
「……シルド」
名前を口にするだけで、胸の奥がちくりとした。
この子の目に、自分はどう映っているのだろう。
その夜の夕食は、薄い豆の汁と、固いパンだった。
長い卓の端に、ミレイアとシルドは並んで腰を下ろす。
ノエルは卓の向こう端で、子どもたちのお椀に汁を注いで回っていた。
遠い。それだけが、救いだった。
「ねえ、知ってる? 夜に外に出ると、牙のおばけが来るんだよ」
年長の少年が、得意げに声を潜めた。
「ルカ。旅人さんの前で、怖がらせるようなことを言わないの」
「でも、本当だもん。昔、東の村がやられたって、ノエルさまが言ってた」
「夜の荒れ地は、危ないという話ですよ。それだけです」
ノエルは穏やかに窘めたが、その手元が、一瞬だけ止まった気がした。
ミレイアの視線が、静かに少年を捉えている。
「……牙のおばけ、ね」
ミレイアが小さく呟くのを、シルドは聞いた。
けれど、それ以上は、誰も何も言わなかった。
***
食事のあと、暖炉のそばで、子どもたちは落ち着きなく走り回っていた。
ミナが、シルドの荷袋の口から覗いた、擦れた表紙に目を留める。
「それ、なあに?」
「あ、それは」
「絵本だ!」
あっという間に、子どもたちが集まってきた。
「見せて、見せて!」
「読んでよ、お兄ちゃん」
「ほら、出してあげなさい」
ミレイアが、顔も上げずに言う。
「……ミレイア」
「減るものじゃないでしょう」
観念して、シルドは絵本を取り出した。
ミナを膝に乗せ、ルカたちを周りに座らせ、表紙を開く。
「昔、荒れ地になる前の世界には、見渡す限りの緑があったんだ」
ページをめくる。
青い空、揺れる草原、花に群がる小さな虫たち。
子どもたちが、息を呑んで絵に見入っている。
「すごい……これ、ほんとにあったの?」
「これが、草?」
「こっちのおっきいのは、木?」
「うん。世界樹って言うんだ」
最後のページには、空へ枝を広げる大樹が描かれていた。
つい数日前、自分が見たものとは、似ても似つかないほど、優しい絵だった。
「ねえ、お兄ちゃん」
ミナが、シルドを見上げる。
「この木、まだどこかにあるの?」
喉が、詰まった。
「……あるよ」
気づけば、答えていた。
「僕は、見たことがある。大きくて、空まで届くような……」
「ほんと? どこで?」
「遠くで。ずっと、遠くで」
声が、震えそうになる。
その大樹の根元に、自分が殺した人が眠っているのだと、この子たちには、言えるはずもなかった。
「見たいなあ」
ミナが、絵本の大樹に、小さな手を伸ばす。
「私も、見に行きたい」
「……大きくなったらね」
シルドは、笑ってみせた。
笑えているのか、自分では分からなかった。
「さあ、そろそろ寝る時間ですよ」
背後から、ノエルの柔らかな声がした。
気がつくと、彼女はすぐそばに立っていた。
シルドは弾かれたように、外套の前を掻き合わせる。
布の下で、短剣が、ひときわ強く光った。
「……すみません。夜風にあたってきます」
そう言い残して、シルドは足早に教会の外へ出た。
***
子どもたちを寝かしつけ、最後の灯りを落とした頃、ノエルは玄関の扉を、そっと押し開けた。
外には、星が降るように瞬いている。
教会の石段に、少年の背中が、膝を抱えて小さく座っていた。
「風邪を引きますよ」
差し出した毛布を、シルドは慌てて受け取った。
外套の端から、白い光が、ちらりと漏れる。
彼は、すぐに裾を引いて光を隠した。
こちらを見ようとしない。強く、握りしめた手が、微かに震えている。
(やっぱり)
ノエルは、静かに目を伏せた。
数日前、この里に立ち寄った旅の商人が、噂話をしていった。
エルシオンの王都に、巨大な樹が立ったこと。
王女アイナが、緑花教の神官の目の前で、短剣を持った少年に殺されたこと。
その少年は、エルフの女を連れている、ということ。
幼い頃、一度だけ、舞踏会で言葉を交わしたことがある。
茶色の髪を結った、はにかみ屋の少女だった。
あの子が、と思った時、胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
けれど、石段に座る少年の背中は、あまりにも小さかった。
誰かを殺した人間の背中とは、とても思えなかった。
「ご迷惑でしたら、中に入りますが」
「……いえ」
シルドは、ようやく小さな声を出した。
「ノエルさん。僕は、あなたに優しくしてもらう資格が、ない」
「資格、ですか」
「はい。だから、明日の朝には、出ていきます」
ノエルは、ふっと微笑んだ。
「そうですか。では、朝食はお出ししますね」
「え」
「出ていくにしても、お腹が空いたままでは、行けませんから」
シルドが、虚を突かれたように顔を上げる。
その腰で、短剣が白く脈打っているのが、はっきりと見えた。
見ないふりを、しようと思った。
けれど、もう遅かった。
(あの光は……)
ノエルは、胸の前で、そっと手を組んだ。
あの刃が何なのかは、分からない。けれど、あれはアイナ姫を殺した刃だ。
もしそれが、子どもたちに向けられる日が来るのなら。
その時は、この身を盾にしてでも。
静かに、そう心に決めた。
それでも、今夜だけは。
「おやすみなさい、シルドさん」
穏やかにそう告げて、ノエルは扉の内側へ消えていった。
取り残されたシルドは、握りしめた拳の中で、毛布の端を、ぎゅっと掴んだ。
空には、荒れ地で見るよりも、ずっと多くの星が、静かに瞬いていた。




