第5話 王都到着
港町エクレールを出て四日。
荒れ地の向こうに、石壁の影が見え始めた。
「あれが、王都……」
シルドは目を細めて遠くを見つめる。
これまで見てきたどの村よりも大きな、幾重にも積まれた石壁が、地平線をぐるりと区切っていた。壁の向こうからは、細い煙がいくつも立ちのぼっている。
「エルラルド王国の王都、エルシオン。この辺りでは一番の街よ」
ミレイアが淡々と説明する。
「人間がこんなに集まって暮らしてるなんて、想像もつかないな」
「近づけば嫌でも分かるわ。洞窟に慣れた耳には、少し堪えそうね」
そんなやり取りの横で、籠を抱えたアイナは、少し表情を強張らせながら壁を見上げていた。
「アイナ、大丈夫か? 顔色が悪いけど」
「……いえ、なんでもありません。やっと花を届けられると思って、ほっとしているだけです」
その声は、どこか作られたもののようにシルドには聞こえたが、それ以上は聞かなかった。
***
王都の門は、二人の衛兵に守られていた。
門前には荷車や旅人の列ができていて、一行もその最後尾に並ぶ。
順番が来ると、衛兵の一人がじろりとこちらを見た。
「旅の者か。身分証は」
「持っていません。荒れ地の村から来ました」
ユリアが前に出て、慣れた様子で対応する。
「通行料を払えば、通していただけますよね」
「……ああ、規定通りならな。四人分だ」
ユリアは屈み込むと、ブーツの踵に指を差し入れ、小さな銀貨を数枚取り出した。
衛兵は呆れた顔をしながらも、それを受け取る。
その後ろで、アイナは三人の陰に身を寄せていた。
俯いたまま、籠を抱え直し、息を殺すように静かにしている。
衛兵の視線は、最後まで彼女に向かなかった。
「……通れ。近頃は物騒だ。盗賊の類が増えている。日が落ちたら、あまり出歩くなよ」
門をくぐりながら、シルドは小声でユリアに尋ねる。
「持ってたのか、お金」
「踵に縫い込んでた、最後の非常用さ。盗まれずに済んだ」
「金も食い物も渡せないって、言ってなかったか」
「三日も食ってないと、頭が回らなくなるんだよ。思い出したのも、今さっきだ」
軽く笑うユリアを、ミレイアが横目で見ていた。
けれど、何も言わなかった。
「これで、一宿一飯の借りは半分返したことにしてくれ」
「半分?」
「残りは、旅の間に少しずつな」
***
門の内側は、シルドが今まで見たどの光景とも違っていた。
石畳の道、両側に並ぶ商店、行き交う人々の数。
シルドの生まれた村の全員を集めても、この通りの一角にすら足りないだろう。
露店の呼び声、荷車の軋み、子供たちの笑い声。
音と匂いが、いっぺんに押し寄せてくる。
「すごい……」
それ以上、言葉が続かなかった。
立ち尽くすシルドの背中を、ミレイアが軽く押す。
「立ち止まらない。後ろの人の邪魔よ」
何より目を引いたのは、街のあちこちに置かれた植木鉢だった。
通りの角では、白い法衣を着た人々が、鉢に柄杓で水をやっている。淡く青みがかった、見慣れない色の水だった。
「これは……緑?」
シルドは思わず足を止め、鉢植えに顔を近づけた。
小さな葉が、鉢の中で控えめに茂っている。
「王都では、緑鉢というものが普及しているの。魔力に頼らず、特殊な水を少しずつ与えて育てる技術よ。……数日経つと、砂になるけどね。維持できないのよ」
ミレイアの説明に、シルドは食い入るように葉を見つめた。
たとえ数日の命でも、ここにある緑は確かに根を張り、風に揺れている。
「こんなものが、あったんだ……」
呟くシルドの横で、アイナが小さく微笑んだ。
「王都なら、シルドさんの見たかったものが、もっとたくさん見られると思いますよ」
その笑みには、どこか申し訳なさそうな影が差していたが、シルドは気づかなかった。
***
大通りを抜けた先に、水の枯れかけた噴水のある広場があった。
その手前で、アイナがふと足を止める。
「私は、ここで一度離れます」
「え?」
「どうしても、一人で行きたいんです」
「一緒に行くよ。一人じゃ危ないだろ」
「大丈夫です」
アイナは首を横に振った。
やわらかな声だったが、それ以上は何も付け足さなかった。
ミレイアが、籠に視線を落とす。
「その籠、随分と重そうだけど。本当に一人でいいの?」
「平気です。ここまでも、ずっと自分で運んできましたから」
籠を抱え直す仕草には、どこか頑ななものがあった。
それ以上は、誰も踏み込めなかった。
アイナは少し間を置いて、三人を順に見渡す。
「それと……ここまで連れてきてくださって、本当にありがとうございました。私一人だったら、きっと辿り着けませんでした」
深々と頭を下げるアイナに、シルドは慌てて手を振った。
「やめてくれよ、そんな大げさな。まだ終わりじゃないだろ」
「お礼を、ちゃんとさせてください。夕方には戻ります。西門の近くに『月見亭』という宿があるので、そこで待っていていただけませんか」
「分かった。宿で待ってる」
アイナは、ほっとしたように小さく笑った。
「……はい。必ず」
そう言い残すと、アイナは足早に人混みの中へ消えていった。
ユリアだけが、何も言わず、その背中が見えなくなった方をじっと見つめていた。
その後ろ姿を見送りながら、ミレイアがぽつりと呟く。
「随分と、様になった歩き方をするわね」
「え?」
「……いえ、何でもないわ」
その言葉の意味を、シルドはまだ理解していなかった。
「さて」
ユリアがぱんと手を叩く。
「夕方まで時間がある。先に宿を押さえておこう。日が落ちると、どこも満室になるぞ」
「そうね。ここまで野営続きだったもの。王都に着いたのだし、今夜くらいは屋根の下で休みましょう」
「屋根のある所で寝るの、村を出てから初めてだ」
***
三人は、西門を目指して歩き出した。
大通りから一本入った市場通りは、さらに人の密度が増している。
軒先に雑多な品を並べた雑貨屋の前で、シルドの足が止まった。
欠けた皿、錆びた鍋、色褪せた布。その隅に、一冊の古びた本が置かれている。
擦れかけた表紙には、見たこともないほど大きな樹と、その足元に広がる一面の緑が描かれていた。
「絵本……?」
「お、兄ちゃん、お目が高いね」
店主が愛想よく笑う。
「荒廃前の世界を描いた絵本だって話でね。まあ、本当かどうかは知らんが」
シルドは頁をそっとめくった。
青い空、揺れる草原、花に群がる小さな虫たち。どれも、歴史書の挿絵でしか知らない景色だった。
「いくら?」
「銀貨二枚」
「二枚……」
手持ちはない。シルドは名残惜しそうに絵本を閉じた。
「欲しいなら、また今度ね。誰も買わないから、当分はあるよ」
シルドが歩き出すと、ミレイアの視線が、表紙の大樹の上でほんの一瞬だけ止まったように見えた。
けれど、振り返った時にはもう、彼女はいつもの涼しい顔で前を向いていた。
***
昼を過ぎ、シルドの腹が大きく鳴った。
「すぐそこに酒場がある。何か腹に入れよう」
ユリアの案内で、路地の奥の酒場に入る。
薄暗い店内には、昼間から杯を傾ける男たちの声が満ちていた。
シルドは湯気の立つ煮込みを、ミレイアは黒パンと水を頼む。
ユリアは、赤い果実酒を一杯だけ注文した。
「食わないのか」
「言っただろ。慣らしてる最中なんだ」
グラスの中で、深い赤色がゆらりと揺れる。
隣の卓の話し声が、耳に入ってきた。
「聞いたか。また街道で商隊がやられたらしい」
「人まで攫っていくって話だ。このまま増えたら、王都の外にも出られなくなるぞ」
「衛兵も手が回らんとさ」
シルドはスプーンを止める。
「盗賊……。アイナも、攫われたって言ってたよな」
「ええ。だからこそ、一人で行かせたのは気にかかるわね」
ミレイアは水の入った杯を置いた。
「でも、夕方には戻ると言っていたわ。今は信じて待つしかない」
「そうだな」
ユリアは酒を一口含み、静かに頷いた。
***
西門の近くに、その宿はあった。
古い石造りの二階建て。軒先に、三日月を象った木の看板が揺れている。『月見亭』。
「いらっしゃい。お泊まりかい」
出てきたのは、恰幅のいい女将だった。
「部屋を二つ。男部屋と、女部屋で」
ミレイアが銀貨を数え、カウンターに置く。
「宿代は私が持つわ。研究費の一部よ」
「研究費?」
「こっちの話。……それと、夕方にもう一人、連れが来るの。茶色い髪の娘よ」
「あいよ。覚えておくよ」
通された部屋の窓からは、西門と、その向こうの荒れ地が見えた。
陽は、少しずつ傾き始めている。
「夕方には戻る、か」
シルドは窓辺に頬杖をつき、人の行き交う通りを眺めた。
どの人影も、アイナではなかった。




