第4話 港町での出会い
ヴェスタル村を出て三日。王都へ続く道は、起伏の少ない荒れ地がどこまでも続いていた。
乾いた風が、足元の砂を巻き上げていく。
「重くないか? やっぱり少し持つよ」
「大丈夫です。……慣れていますから」
「慣れてる?」
「えっと、村では、よく荷物運びを手伝っていたので」
少し早口になったアイナは、籠を抱え直して前を向いた。
後ろを歩くミレイアは何も言わず、ただ籠にちらりと視線を投げただけだった。
しばらく黙って歩いた後、アイナがふとシルドの胸元に目を留める。
「シルドさん、それは?」
「ああ、これ? お守りみたいなもの」
シルドは襟元から、小さなロケットを引き出した。
くすんだ銀色の表面に、細かな傷がいくつも走っている。蓋は固く閉じたままだ。
「開けてみても、いいですか?」
「開かないんだ。昔から。爪を立てても、石で叩いても、びくともしない」
「中身は?」
「僕も知らない。でも、手放す気にはなれなくて」
アイナは少しだけ目を細めた。
「大切なものなんですね」
「うん。……たぶん」
自分でも曖昧な返事だと思った。
どうして大切なのか、その理由を、シルドはうまく言葉にできなかった。
***
潮の匂いが風に混じり始めたのは、四日目の昼過ぎだった。
荒れ地の稜線を越えた先に、灰色の海が広がっている。
「海……初めて見た」
シルドは思わず足を止めた。
空と見分けがつかないほどの灰色が、地平線までうねっている。井戸水しか知らないシルドにとって、これだけの水が一か所に集まっている光景は、想像の外だった。
「全部、水なのか?」
「飲めないけどね。塩辛いから」
ミレイアの淡々とした答えも耳に入らないまま、シルドは波打ち際へ駆け出しそうになる。
その襟首を、ミレイアがすかさず掴んだ。
「はしゃぐのは後にして。まずは町へ入りましょう」
「分かってるよ」
「どうだか」
港町エクレールは、荒れ地の中では珍しく活気のある場所だった。
桟橋には小舟が並び、漁師たちの威勢のいい声が飛び交っている。軒先には干物が吊るされ、塩の山が白く積まれていた。
アイナは籠にかけた布の端を気にしながら、そっと中を覗き込む。
「もう半分近く、色が褪せてきてしまいました」
「急いだ方がよさそうね。王都まではあと四日ほどよ」
ミレイアの言葉に、アイナは小さく頷いた。
その時、すれ違った白髪の老漁師が、ふと足を止めた。
布の隙間から覗いた花の色に、目を奪われたようだった。
「……花、か」
節くれだった手が、おそるおそる伸びてくる。
「触っても、いいかい」
「はい。もう、長くは持たないんですけど」
老漁師は褪せかけた花びらに指先を触れ、しばらく黙っていた。
「ああ……子供の頃に、絵本で見た色じゃ。まさか、この目で拝める日が来るとはなぁ」
「差し上げます。よろしければ」
アイナが一本を差し出すと、老漁師は目尻の皺を深くして、大事そうにそれを受け取った。
去っていく背中を見送りながら、シルドは胸の奥が、きゅっと締めつけられるのを感じていた。
緑を見たい、というのは、きっと自分だけの願いではないのだ。
「……行きましょうか」
アイナの声に促され、一行は町の中へと歩き出した。
***
町の入り口を抜けようとしたところで、シルドの足が再び止まった。
路地の隅の日陰に、人が倒れている。
「おい、大丈夫か!」
駆け寄って肩を揺すると、男は小さく呻いた。
痩せた体に、ぼろぼろの外套。顔は青白く、唇はひび割れている。
「シルド、迂闊に近づかない方が」
ミレイアの警戒した声を背に、シルドはすでに男の背に手を添えていた。
「水、飲めるか?」
水筒を差し出すと、男はかすれた声で礼を言い、震える手でそれを受け取る。
一口、二口と喉を鳴らし、ようやく人心地ついたように息を吐いた。
「……助かった。恩に着る」
「僕はシルド。あんたは?」
「ユリア。ユリア・シャペル」
体を起こしたユリアは、シルドたちを順に見回した。
どこか値踏みするような、それでいて用心深い視線だった。
「あんたたち、旅の一行か。……随分と変わった組み合わせだな」
「よく言われる」
シルドが苦笑すると、ユリアも釣られたように口元を緩める。
「それにしても、どうしてこんな所で倒れてたんだ」
ユリアは力なく笑った。
「旅の途中で、路銀を全部盗まれてね。食い扶持もなくなって、ここまで来て力尽きた、ってわけさ。……三日、何も口にしてなくてな」
「三日も? ほら、腹も減ってるだろ。これ、食べな」
シルドが干した根芋を差し出すと、ユリアは両手で受け取った。
けれど、一口かじったきり、顔をわずかにしかめて手を止めてしまう。
「……悪い。ありがたいんだが、どうも喉を通らなくてな」
「三日も食べてないのに?」
「食べてないから、体が受け付けないんだ。ゆっくり、慣らしていくよ」
そう言って根芋を懐にしまうユリアを、ミレイアが黙って見つめていた。
「助けてもらった礼を、何かしたいんだが。今の俺には、金も食い物も渡せそうにない」
「気にしなくていい。困ってる時はお互い様だろ」
あっさりとしたシルドの返事に、ユリアは意外そうな顔をする。
「……そういうやつ、久しぶりに見た」
小さな呟きは、潮風にさらわれて、誰の耳にも届かなかった。
***
日が傾き始めた港町は、荷下ろしを終えた商人や船乗りで賑わっていた。
軒を連ねる宿の看板を横目に、ミレイアが言う。
「補給でだいぶ使ったわ。ここで宿まで取ると、路銀が持たなくなる。王都までまだ四日もあるのだし、今夜は町外れで野営にしましょう」
「僕は野宿の方がいいな。海の音も聞けるし」
「私も、それで大丈夫です」
ミレイアは頷き、一行は町外れへと向かった。
港の外れ、波の音が届く砂地に腰を下ろし、焚き火を囲む。
水平線の向こうへ沈んでいく夕日が、灰色の海をほんのり橙に染めていた。
「拾い物が、また一つ増えたわね」
ミレイアが、焚き火に枝をくべながらぼそりと言う。
「お母さん、飼ってもいい?」
「元の場所に返してきなさい」
「ひどい」
ユリアが堪えきれずに吹き出した。
「あんたたち、いつもこうなのか」
「いつもこうよ。迷惑でしょう」
「いや。……悪くない」
笑いを引っ込めたユリアは、焚き火の揺れる炎を見つめたまま、少し間を置いて口を開いた。
「俺は行商をしていてね。あちこちの町を渡り歩いてる」
「一人で?」
「まあ、性分に合ってるんだ。誰かと長く一緒にいるのは、あまり得意じゃなくてね。……それでも、一宿一飯の恩は返す主義でね。次の町まで、俺も同行させてもらえないか」
「見ず知らずの人を、連れて行く余裕はないわ」
ミレイアが即座に言い切る。
けれど、シルドは首を横に振った。
「いいじゃないか。倒れてる人を放って行く方が、僕は嫌だ」
「私も、賛成です。人数が多い方が、きっと安全ですし」
アイナの言葉に、ミレイアは小さく息を吐いた。
「……好きになさい。ただし、妙な真似をしたらすぐ分かるわよ」
「肝に銘じておくよ」
ユリアは肩をすくめ、それから夜空を見上げた。
雲の切れ間から、いくつかの星が瞬いている。
「恩を返したいってのは本当さ。それに――あんたたちみたいな一行、見たことがなかったから。少し、興味が湧いた」
その口元に、笑みが浮かんだように見えた。
けれど、火の揺らめきのせいだろうと、シルドは気にも留めなかった。
アイナは籠の花にそっと目を落とす。
褪せかけた花びらが、焚き火の灯りに照らされていた。
「……あと、四日」
小さな呟きは、焚き火の爆ぜる音にまぎれて、誰の耳にも届かなかった。
その横顔には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
***
夜更け、シルドは寝つけずに身を起こした。
初めて聞く波の音が、眠りの縁を何度も揺らすのだ。
焚き火はすっかり小さくなり、ミレイアとアイナは毛布にくるまって眠っている。
少し離れた波打ち際に、人影があった。
「眠れないのか」
声をかけると、ユリアが振り返った。
月明かりに照らされたその顔は、昼間よりもずっと血色がよく見えた。
「夜は、昔から目が冴えるたちでね。あんたも、波の音か」
「うん。初めて聞くから、うるさいのか心地いいのか、よく分からなくて」
シルドは隣に腰を下ろし、足元の砂をすくった。指の間から、さらさらとこぼれ落ちていく。
――アイナの花が崩れた後も、こんな砂になるのだろうか。ふと、そんなことを思った。
「なあ、一つ聞いていいか」
ユリアが、海を見つめたまま言う。
「どうして、俺を助けた。見ず知らずの男を」
「倒れてたから」
「それだけか?」
「それだけ」
即答だった。
ユリアは目を丸くして、それから喉の奥で、くっくっと笑った。
「……そうか。それだけ、か」
その笑い声は、どこか遠くを見ているようで、少しだけ寂しげに聞こえた。
「あんたは、長生きできないタイプだな」
「えっ、なんで」
「いい意味で言ってるよ」
ユリアは立ち上がり、砂を払う。
「寝とけ、少年。明日からは、また歩くんだろう」
シルドは釈然としないまま、焚き火の方へ戻っていった。
振り返ると、ユリアはまだ海を見つめていた。
その背中は、人間にしては、やけに夜に馴染んで見えた。
夜が更けていく中、四人になった一行の旅は、静かに次の日を迎えようとしていた。




