第11話 牙の裏切り
結局、翌朝になっても、シルドはフェアリアを出られなかった。
朝食のあと、ルカたちに「屋根の修繕を手伝って」とせがまれ、断りきれなかったのだ。
昼には井戸の水汲みを、夕方には薪割りを。
子どもたちに囲まれて動き回っているうちに、一日が過ぎてしまった。
「出ていく、と言っていたのは誰だったかしら」
「……僕です」
「そう。覚えていたのね」
ミレイアは、窓辺で水を飲みながら、横目でシルドを見た。
その口元が、ほんのわずかに緩んでいる。
「お兄ちゃん、明日は川遊びごっこしよう!」
「川はないでしょ、ミナ」
「じゃあ、泥遊び!」
シルドは、笑った。
今度の笑いは、少しだけ、本物に近かった。
そのことに気づいて、胸の奥が、ずきりと痛んだ。
笑ってはいけない、と思った。
アイナは、もう笑えないのに。
***
その夜、シルドは眠れず、また教会の石段に腰を下ろしていた。
月のない夜だった。窪地の縁に、星だけが降っている。
ふと、靄の向こうに、人影が立っているのに気づいた。
「……誰?」
外套の裾を風になびかせて、ユリアが、窪地の縁に立っていた。
シルドは思わず立ち上がる。
「ユリア! どうしてここに?」
「ああ。お前に会いに来たんだ」
ゆっくりと、ユリアが石段の方へ歩いてくる。
月明かりのない闇の中で、その瞳が、赤くぎらりと光った。
足が、止まった。
「……ユリア?」
「驚いたか」
ユリアの口元が、静かに笑う。
唇の隙間から、鋭く尖った牙が、覗いていた。
「牙の……おばけ」
シルドが呟くと、ユリアは喉の奥で、くっくっと笑った。
「ああ。……俺は、ドラキュアだ。夜に生きて、人を喰う種族さ」
「どうして、今まで」
「言えるわけがないだろう。言えば、お前は俺を助けなかった」
「助けたよ」
シルドは、即答した。
ユリアは一瞬、目を見開いて、それから、ふいと目を逸らした。
「……ほんと、おめでたい奴だな」
「ユリア」
「お前を迎えに来たんだ、シルド」
「迎えに……? この里は、誰にも知られていないはずなのに」
「別れたふりをして、後をつけてた。夜の荒れ地は、俺の庭だ」
ユリアが、指を鳴らした。
窪地の縁に、いくつもの影が浮かび上がる。
赤い瞳が、闇の中に、点々と並んだ。
その一つが、小さな女の子の襟首を、掴んでいる。
「お兄ちゃん……!」
「ミナ!」
駆け出そうとしたシルドの足元に、ユリアの投げた針が突き立った。
「動くな。あの子がどうなってもいいのか」
「ユリア……!」
「姫さま殺しは大罪だ。お前の首には、国をまたいで賞金がかかってる。大樹のせいで、エルシオンは今、大騒ぎでね。牢のあるライトベナンの王城まで、ついてきてもらうぞ」
「……」
「悪く思うな。こんな大金をもらえる機会なんて滅多にないからな」
淡々と、ユリアは告げた。
いつもの軽口と同じ調子だった。ただ、目だけが、シルドを見ようとしなかった。
シルドは、唇を噛んだ。
言い返す言葉は、一つも浮かばなかった。
「大人しくついてくるなら、この里に手を出すつもりはない」
「分かった」
シルドは、顔を上げた。
「ついて行く。だから、その子を放してくれ」
「人殺しなのに素直なもんだな」
「僕が、殺したから」
ユリアの眉が、わずかに動いた。
「だから、裁かれに行くってのか」
「どこかで裁かれなきゃ、いけないと思ってた」
「……死にたがりが」
吐き捨てるように、ユリアは呟いた。
「……調子が狂うな。大人しく、ついてこい」
「うん」
シルドは、ゆっくりと両手を上げた。
腰の短剣が、白く光らないことを、ひどく静かな気持ちで確かめながら。
***
悲鳴を聞いて、ミレイアは、跳ね起きた。
窓の外に、赤い瞳が並んでいる。
その中央で、シルドが、両手を上げて立っていた。
(あの子……っ)
手近な短剣を掴んで、窓から飛び出す。
外へ降り立つなり、目の前の影に刃を振るったが、軽く躱された。
速い。人間の目では追えない速さだ。
「ミレイア!」
シルドの声が、遠くで響く。
「来ないで! 来たら、ミナが……!」
「卑怯な真似を……!」
二人めの影の拳が、肩を打った。
痛みに耐えながら、ミレイアは必死に体勢を立て直す。
けれど、三人、四人と、影は増えていく。
「悪いな、姐さん」
ユリアが、背後から低く囁いた。
「あんたは来るな。……俺のことを黙っていてくれた借りだ。命までは取らない」
次の瞬間、脇腹に、鈍い衝撃が走った。
息が、止まる。
膝が、崩れた。
薄れていく視界の端で、シルドが、静かにこちらを見ていた。
泣いてはいなかった。笑ってもいなかった。
(違う)
ミレイアは、唇を動かした。
声が出なかった。
(あなた、本当は、連れて行ってほしいんでしょう)
闇が、すべてを塗り潰した。
***
目を開けると、天井が見えた。
石組みの、古い天井だった。
「気がつかれましたか」
覗き込んでいたのは、灰色の修道衣の少女だった。
ノエルが、冷たい布で、ミレイアの額を押さえている。
「ここは」
「教会の、奥の部屋です。夜明け前に、子どもたちが見つけてくれて」
「あの子は」
「連れていかれました。赤い目の人たちに」
ノエルは、膝の上で手を握りしめた。
「行き先は、ライトベナンの王城だそうです。ミナが聞いていました」
「その子は」
「ミナは、無事です」
ミレイアは、深く息を吐いた。
脇腹が、ずきずきと痛む。
「……あの男。やっぱり、ね」
「ご存じだったんですか」
「人間じゃないことは、前から。ただ、裏切るとまでは思わなかったわ」
自嘲するように笑って、ミレイアは身を起こした。
「追いかけなきゃ」
「ええ。私も、同じ場所へ行くつもりです」
ノエルは、静かに言った。
その声音は、これまで聞いた中で、一番まっすぐだった。
「私が、いるべき場所ですから」
「……あなた」
ミレイアは、目を細める。
ノエルは、頭巾にそっと手を掛けると、ゆっくりと外した。
淡い色の長い髪が、肩にこぼれる。
「私は、ノエル・ライティア。ライティア王国の王女です」
「……やっぱりね」
ミレイアは、頭を抱えるように、額に手を当てた。
「また、王女なのね」
「また?」
「こっちの話。……あなた、あの子の事情は、知っているのでしょう」
「はい。エルシオンのアイナ王女のことも、商人の噂で聞きました」
ノエルは、まっすぐにミレイアを見た。
「それに、シルドさんの短剣が光るのも、この目で見ました。何なのかは、分かりませんが」
ミレイアは、言葉を飲み込んだ。
あの光は、次の王女が現れた合図かもしれない。そう告げれば、この娘は思いとどまるだろうか。
けれど、確証はない。それに、口にすれば、シルドは自分を「王女を殺す者」としか見られなくなる気がした。
「それでも、行きます」
「どうして? あなたには、関係のないことでしょう」
「シルドさんは、誰かを傷つけたくて行ったのではありません。自分を罰したくて、行ったのです」
ノエルの声は、静かだった。
「そんな人を、放ってはおけません」
「……お人好しが過ぎるわね」
「あなたも、ここまで彼に付き合っているではありませんか」
反論できなかった。
ミレイアは、小さく息を吐く。
「子どもたちは?」
「年長のルカに、任せます。水も備蓄も、十日は持ちますから」
ノエルは立ち上がり、窓の外を見た。
「王城には、私なら入れます。……行きましょう、ミレイアさん」
***
ライトベナンは、白い街だった。
遠くから見ると、石の壁も塔も、すべてが淡く光を宿しているように見える。
けれどシルドが運ばれたのは、その光の届かない、城の地下深くだった。
「身柄、確かに受け取った。賞金だ」
白髪混じりの近衛隊長が、金貨の袋を差し出した。
それをユリアが受け取るのを、シルドは、手錠をかけられたまま見ていた。
ユリアは、振り返らずに言う。
「恨むなら、好きなだけ恨め」
「恨んでないよ」
「……そういうところだ」
ユリアの肩が、ほんの少し、揺れた気がした。
けれどそれを確かめる前に、彼の背は、石の廊下の闇へ消えていった。
薄暗い牢に、シルドは押し込まれる。
看守の一人が、腰の短剣に手を伸ばした。
「これは預かる」
鞘ごと引き抜いた、その瞬間だった。
看守が悲鳴を上げて、短剣を放り投げる。
石の床を転がった短剣が、シルドの足元で止まった。
看守の手のひらは、赤く焼けただれていた。
「こ、こいつ、魔法を……!」
「触るな! 放っておけ!」
看守たちは青ざめて牢の鍵を閉め、足早に去っていく。
シルドは、手錠をかけられた手で足元の短剣を拾い上げ、腰に戻した。
静寂が、降りた。
石の壁に背を預け、シルドは、床に座り込む。
(これでいい)
そう思った。
ここなら、誰も傷つけずに済む。
誰かに裁かれて、命が終わるのかもしれない。
腰の短剣は、冷たいままだった。
何日が過ぎたのか、分からなかった。
食事が運ばれるたびに、看守が怯えた目でこちらを見る。
外の音は、何も聞こえない。
ある夜、廊下に、足音が響いた。
二つ、いや、三つ。
鍵束が鳴る。誰かが、牢の前で足を止めた。
「こちらでございます」
「ご苦労さまです。下がっていなさい」
扉が、軋みながら開く。
暗がりの向こうに、小さな灯りを掲げた人影が立っていた。
白い、美しい衣。
淡い色の髪に、細い銀の冠。
見慣れた顔だった。
けれど、見慣れない姿だった。
「お迎えに、上がりました」
静かな声が、牢の闇に響く。
「シルドさん」
その背後で、ミレイアが、真剣な眼差しでこちらを見ていた。
シルドは、息を呑んだ。
外套の下で、短剣が、これまでにないほど強く、白く、光っていた。




