第12話 二人目の緑
「ここを、出ましょう」
ノエルは、牢の鉄格子の向こうから、まっすぐに言った。
灯りに照らされた白い衣と銀の冠が、薄暗い地下には不釣り合いなほど、眩しく見える。
シルドは、石の壁に背中を押しつけたまま、首を横に振った。
「出ません」
「シルドさん」
「僕が旅に出なければ、こんなことには……。それに」
言葉が、喉に引っかかる。
腰の短剣は、まるで脈を打つように、白い光を放ち続けていた。
「近づかないでください。お願いです。この光が強くなると、僕は、僕じゃなくなってしまう」
「……ええ」
ノエルは、静かに微笑んだ。
その穏やかさが、胸に痛かった。
「短剣が光るのは、里でも見ました。……あなたが、その光を怖がっていることも」
「だったら、どうして」
「あなたに死んでほしくないからです」
ノエルは、鍵束を握った手に、きゅっと力を込める。
「ここで裁かれて、あなたが亡くなれば、あなたを憎んでいる人たちは満足するかもしれません。でも、それでアイナ姫は、帰ってきますか」
シルドは、息を呑んだ。
アイナの名が出ただけで、胸の奥が、きしむ。
「償いは、死ぬことでしかできないものではありません。生きて、考えて、探すことでも、償えるはずです」
「……そんなの」
「あなたが、そう思えるまで、私が待ちます」
その時、ミレイアが、ノエルの肩にそっと手を置いた。
「時間がないわ。夜が明ける前に出ないと」
ミレイアはシルドを見た。
その視線には、何かを言いかけてやめた、ためらいの色が混じっていた。
「シルド。あなたがここで死んでも、あの子は喜ばないわよ」
あの子、とだけ言われて、シルドの肩が揺れる。
長い沈黙のあと、彼は、震える手で鉄格子を掴んだ。
「……ずるいよね」
「何がですか」
「罰を受けるなんて言っておいて、本当は、死にたくないんだ」
声が、掠れていた。
「ずるくありません」
ノエルは、首を横に振った。
「生きたいと思うのは、悪いことではありませんから」
シルドは、唇を噛んで、小さく頷いた。
鍵が、がちゃりと音を立てて外れた。
***
ライトベナンの城は、夜でも淡く光っていた。
壁一面に埋め込まれた白い石が、灯りの余韻を吸って、ぼんやりと輝いているのだ。
ミレイアは、シルドのすぐ後ろを歩きながら、前を行くノエルの背を見ていた。
王女の姿に戻った彼女の足取りは、里にいた頃よりもずっと、迷いがなかった。
「裏の回廊を抜けて、中庭を横切れば、城壁の外へ出られます。ただ」
ノエルが、足を止める。
「牢から囚人が逃げたと分かれば、すぐに警鐘が鳴ります。それまでに、できるだけ遠くへ」
「看守は?」
「眠り薬を、少し。三刻は目を覚まさないはずです」
さらりと言ってのける王女に、ミレイアは内心で舌を巻いた。
フェアリアで子どもたちを育てていたのは、伊達ではないらしい。
ミレイアは、短剣の光を見やった。
外套の下から漏れる白い光は、ノエルに近づくほど強くなる。
シルドが、外套の端を握りしめて、必死に光を押さえつけているのが分かった。
(光が強くなるのは、いつも王女の近く)
アイナの時も、そうだった。ノエルが現れた今も。
ミレイアは、唇を噛んだ。
もしも、あの光に、別の意味があったなら。
誰も死なせずに済む道が、あったなら。
けれど、それを裏付けるものは、何も見つかっていない。
ただ、嫌な予感だけが、はっきりしていた。
回廊を抜けて、中庭へ出た、その時だった。
「殿下」
低い声が、闇から響いた。
月明かりの下、整った石畳の中庭に、鎧の騎士たちが並んでいた。
その先頭に立つ白髪混じりの男が、一歩、前へ出る。
「ジェイド……」
「牢の看守が、持ち場で眠っておりました。殿下が地下へ降りられたとの報せも。……そちらの者が、囚人ですな」
隊長の視線が、シルドを射抜く。
「アイナ・エルラルド王女を殺した大罪人。陛下より、捕縛の命が出ております」
「待ってください。この方は、自らの罪を悔いて」
「殿下」
隊長は、遮るように首を横に振った。
「殿下のお気持ちは、お察しします。ですが、エルラルドの王女を殺した者を逃がしたとあっては、我が国の信義が問われます。どうか、そこをお退きください」
騎士たちが、一斉に剣を抜いた。
ノエルは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと振り返り、シルドを見る。
「ノエルさん、近づかないで……!」
シルドの叫びが、中庭に反響した。
白い光が、外套を突き破った。
「ぐ、あ……っ」
短剣が、手の中で脈打っている。
刃が、勝手に、鞘から抜けようとしていた。
(嫌だ)
柄を握りしめ、シルドは足を踏ん張る。
爪が掌に食い込む。それでも、腕が、ゆっくりと持ち上がっていく。
(嫌だ、やめろ、僕はもう)
もう、誰も傷つけたくない。
その願いが、白い光に呑まれていくのが分かった。
――ニンゲンノ、セイデ。
あの声が、頭の中に響く。
――……ユルサナイ。
微かに、違う響きが混じった気がした。
けれど、それを考える余裕は、もうなかった。
「シルドさん」
穏やかな声が、すぐ近くで聞こえた。
ノエルが、騎士たちとシルドの間に立っていた。
白い衣の裾を揺らして、騎士たちに背を向けている。
「剣を収めなさい。この方に、手を出してはいけません」
「殿下、お下がりください! その者は、大罪人です!」
「下がりません」
ノエルは、ゆっくりと振り返った。
怖がっている顔では、なかった。
「大丈夫です、シルドさん。私が、ここにいます」
「だめだ、離れて……! お願いだ、離れて……!」
ノエルが、シルドの震える両手に、自分の手を重ねた。
冷たくて、小さな手だった。
その瞬間、短剣が、爆ぜるように光った。
白。
また、刃が柔らかなものに沈む感触で、意識が戻った。
足元の石畳が、深くえぐれている。
倒れ伏した騎士たち。壁際まで吹き飛ばされ、呻いている白髪混じりの隊長。
砕けた鎧の欠片が、月明かりに散らばっていた。
何が起きたのか、分からなかった。
目の前に、ノエルがいた。
自分の右手に握られた短剣が、彼女の胸に深く沈んでいる。
「殿下――っ!」
壁際で身を起こした隊長の絶叫が、中庭を裂いた。
シルドの手に、温かいものが伝った。
アイナの時と同じ、あの感触だった。
「ごめん、なさい……」
声が、勝手に漏れる。
「ごめんなさい、ノエルさん、ごめんなさい」
「あなたのせいでは、ありません。……泣かないで」
ノエルは、ふっと微笑んだ。
その唇の端から、一筋の血が零れる。
「フェアリアの、子どもたちを、どうか」
「うん、守る。絶対に、守るから」
「それから……ライトベナンの、みんなに」
最後の言葉は、息に溶けた。
頬を伝った涙が、血と混じり合い、一滴となって、石畳に落ちる。
滴が触れた場所に、小さな種が生まれた。
崩れ落ちるノエルの身体を、石の隙間から伸びた根が抱きとめる。
芽は幹となり、中庭の石畳を割って、夜空へと伸びていった。
城壁の白石が砕け、枝が広がり、葉が茂る。
遠く、ライトベナンの街並みが、一斉に緑に染まっていくのが見えた。
倒れ伏した騎士たちは、起き上がることも忘れて、凍りついていた。
その中で、ただ一人、白髪混じりの男が、よろめきながら立ち上がった。
ジェイド隊長だった。
隊長は、中庭の中央にそびえる大樹を見上げ、それから、根元に抱かれた主君の娘の姿を見た。
「……殿下」
膝から、崩れ落ちた。
抱き起こそうと伸ばした腕を、根が優しく押し返す。
拳が、石畳を叩いた。
「貴様……!」
顔を上げた隊長の目は、血走っていた。
「殿下が、どれほどの思いで、貴様を……!」
「行くわよ!」
ミレイアが、シルドの腕を掴んだ。
「シルド、立ちなさい! ここにいたら殺されるわ!」
「ノエルさんが、ノエルさんが……」
「分かってる! だから、立つの!」
ミレイアに引きずられて、シルドは、中庭の暗がりへ駆け出した。
「その少年を……逃がすな……!」
背後で、隊長が、絞り出すように叫んだ。
「必ず、捕らえよ! 我が騎士の誇りにかけて、必ず……!」
その声が、いつまでも耳に残った。
手の中の短剣は、もう光っていなかった。
ただ、冷たい刃が、血に濡れているだけだった。




