トモダチはフウフに
この耳を柔らかく食み、舌でなぞりたいという衝動をいったい何度こらえたか、もう覚えてはいない。
想像していたよりもコリコリと弾み、とろりと甘い声が響く。
そのまま、首筋に唇を這わせ、鎖骨の上まで舌でなぞる。きつく吸うと面白いように、赤い痕が散る。
手のひらにピタリと吸い付く肌は、少し冷たい、けれども触れれば、触れるほど、熱を帯びてくる。
彼女の息は、いつものような規則正しさはなく、乱れていて、静かに閉じられている瞳は、熱を宿して空を漂う。
「悪いな……、先に謝っとく」
「んっ……な、何?」
「今まで我慢しすぎたから、もう今日は無理、マジで」
「結婚しちゃえば?」
ニヤニヤと口元を歪めながら、冗談混じりに言う大崎さんの言葉は、突拍子もなく、俺は含んでいたビールを吹き出した。
とうとう、頭がおかしくなったのかとため息をこぼしながら、床を拭いていると、また大崎さんは言葉を吐く。
「お前、いっつも待ってないで、行けばいいのに。状況を変えるには、行動を変えるのがいいんだぞ?何か違うものが見えるかもしれないしな。……それにお前、あの子が他のヤツと結婚したらどうするや?お払い箱だぞ?」
いつもくだらない言葉ばかり吐き出す大崎さんは、かなり酔っぱらっているのだろう。
暗い夜は時間が経てば、必ず朝がやってくるけれど、変わらない状況はいくら待っていても明るくはならない。
朝日が昇り明るくなるためには、何かをしなければならないのかもしれない。
ピンポーン
日曜日の夕方、インターフォンが鳴り響く。
こんな時間に自分に用事のある客を思い浮かべられない。
居留守確定で、モニターを覗くと珍しい人が小さく映ったいた。
「孝志?いる?」
「あぁ、今、開けるわ」
ほどなくして、部屋のドアの向こうに人の気配がして、インターフォンが鳴る。
ドアを開けるとそこには、姉の麻美がにこやかに立っていた。
「悪かったわね、急に来て。ちょっと近くまで来たから……」
「あぁ、うん。どうかした?」
結婚後、近くに住んでいるにも関わらず、姉がここを訪ねてきたことはほとんどない。また、こうして事前の連絡がないことも、珍しい。
「ちょっと、上がっても大丈夫?」
「あぁ」
麻美は奥の様子を伺うように、視線を遠くに飛ばし、キョロキョロと落ち着かない。
廊下を進み、リビングのソファーに浅く腰かけると、キッチンでコーヒーを淹れる姿をじっと見つめてくる。
「……どうかした?」
「孝志、彼女できた?」
「……何だよ?いきなり」
「いや……、さっき友達と会ってて、あんたが女の子と歩いてるのを見たって聞いて。いてもたってもいられなくなっちゃってね」
「……」
「嬉しかったから。あんた、母さん、いなくなってから、離婚して。どうなることかと思ってたのよ?どんよりしてるし、イライラしてるし……。あれから、ずいぶん表情も良くなってきたとは思ってたけど、彼女どんな人?今日、会えるかもしれないって、ちょっと楽しみにきたんだけど、いないみたいで残念」
麻美は肩をすくめて笑う。今からながらに、心配をかけていたことを知る。
「……彼女じゃないんだ」
「え?そうなの?手をつないで、ニコニコしてたって聞いたよ?……そうなの、彼女じゃないのか……。母さんも喜んでると思ったのに」
「……」
俺は何と言えばいいのかわからない。けれども、母の若い頃にそっくりと言われている姉の下がった眉が、一瞬、母の姿と重なる。
ーー母さん
「孝志?」
「あぁ、うん。……何か言った?」
「まだ、若いんだし、好い人見つけて楽しみなさいよね?……でもあんた、かなりマザコンだし、なかなか見つからないわね?」
「……うるさい」
カラカラと笑って、さっさと姉は部屋を出ていく。
旦那が子供みてるから、あんまりのんびりしてられないのよねと、冷たい風をもろともせず、ぶんぶんと手を振る。
俺は一人キッチンに立ち、だし巻き卵を焼く。
部屋に来る度に食べたいと言うニコニコ笑う彼女。
もう二度と来なくなるかもしれない、彼女が結婚すれば。
自分の思いを伝えても、もうここには来ない。
明日かあさってか、でもいつかきっと、彼女は誰かのものになる。自分以外の誰かと結婚してしまう。
ーーなら、伝えたい。
俺は、スマホを手にしてから車に乗った。風は止み、空気がキンと張りつめるような夜、天気予報は雪だった。
彼女の小さなアパートは、朝になっても陽は射し込まない。雪のせいかカーテンの隙間から漏れるぼんやりとした光が部屋全体を明るくする。
部屋は寒く吐き出す息が白い、眠ったままの彼女の柔らかな肩をしっかりと抱きしめ、布団を引っ張る。彼女のほんの少し開いた唇を指でそっとなぞり、丸く柔らかな頬から耳を撫で、長い髪をすく。
結局、もうダメと言う彼女の言葉を全く聞き入れることはできなかった。
二度と彼女を離したくはない、他の誰にも触れさせたくはない。
彼女の髪に顔を埋めて、耳元で呟く。
「もう、俺のいないところで酒は飲むな。絶対に」
これにて完結となります。
楽しんでいただけると嬉しいです。
思い付いて勢いで書きはじめ、かるーく終わるはずが、なかなか、かるーく書き終えられませんね……。
また、お会いできますように。




