第4話 麻衣先生のパトロール
私の名前は、白瀬麻衣。みんなからは「麻衣先生」と呼ばれている。この小学校で司書をはじめて、もう三年になる。
図書室は、私にとって大切な場所だ。本に囲まれていると落ち着くし、静かな空気が好きだ。子どもたちに「せんせい、この本おもしろいよ」って教えてもらうのも、読み聞かせで目を輝かせてくれるのも、全部が宝物みたいにうれしい。
でも、ひとつだけ、どうしても慣れない仕事がある。
夜の見回りだ。
私たち先生は、当番制で校舎の見回りをしなければならない。すべての教室の鍵が閉まっているか、窓が開いていないか、火の元は大丈夫か、そういうことを確認して回る仕事だ。
それが、私には本当に、本当に怖い。
夜の学校って、どうしてあんなに不気味なんだろう。昼間はあんなに明るくて、子どもたちの声が響いているのに、夜になるとまるで別の建物みたいだ。廊下は真っ暗で、自分の足音がやけに大きく響く。窓ガラスに映る自分の姿にさえ、ぎょっとしてしまう。
しかも、最近は特に嫌な噂がある。
「夜の学校の階段には、くすぐり幽霊が出る」
その噂を初めて聞いたとき、私は心臓が止まるかと思った。だって、その「くすぐり幽霊」の正体は、他でもない、私なのだから。
先週の金曜日、私は夜の見回りをしていた。一階から順に教室をチェックして、最後に三階へ向かおうと階段をのぼっていた。そのとき、上の方から誰かの気配がしたのだ。
私は怖くなった。真夜中の学校に、誰かがいるはずがない。もし誰かがいるのなら、
……それは幽霊に違いない。
だとしても、逃げるわけにはいかない。見回りは私の仕事だ。それに、逃げようとして背中を向けた瞬間に、なにかされるかもしれない。そんなの、もっと怖い。
だから、私は考えた。
子どものころ、母が教えてくれた手遊び歌がある。
「一本橋こちょこちょ」っていう、くすぐり遊びの歌だ。あれを歌いながら歩いたら、いつもちょっとだけ怖くなくなったのを思い出す。
それに、巫女をしている友だちが言っていた。
「幽霊って、笑顔になったら成仏するんだよ」
だとしたら……そこにいるのが子どもの幽霊なら、くすぐって笑わせれば成仏してくれるんじゃないだろうか。
というか、そうでも思わないと、怖くて見回りなんてできない。
私はとっさに、こちょこちょ遊びの歌を歌うことにした。
「かいだんのぼって……こちょこちょこちょ」
そうしたら、階段の上の踊り場に、人影があったのだ。
私は、もう必死だった。怖くて怖くて、頭の中が真っ白になって、気がついたら「キャー!」って叫びながら、その影に飛びかかっていた。そして、夢中でくすぐりまくった。
相手は、くすぐりに弱いみたいで、それはもうすごい勢いで大笑いしてくれた。ジタバタして、床を転げ回って、涙を流して笑っていた。
効いてる!このままくすぐり続ければ、成仏してくれる!
私は、そう信じて、ありったけのテクニックを駆使した。子どものころ、年の離れた妹をくすぐって遊んでいたのが、こんなところで役に立つなんて。
でも、ふと気がつくと、相手は気絶していた。そして、私はというと、くすぐっている最中にバランスを崩して、頭を壁にぶつけて、一緒に気を失っていた。
朝になって目が覚めたとき、そこには誰もいなかった。私はほっとして、そのまま職員室に戻った。
それから数日後、「夜の階段でくすぐり幽霊に捕まったら、夜が明けるまでこちょこちょされ続ける」なんて噂が広がっているのを聞いて、私はもう、穴があったら入りたい気持ちになった。
しかも、その噂を話していた六年生の顔を見て、ぞっとした。あのときの相手は、幽霊じゃなくて、夜に忍び込んだ六年生の颯太くんだったのだ。
私は、恥ずかしくて本当のことを言い出せなかった。まさか「私がくすぐり幽霊です」なんて、口が裂けても言えない。
それ以来、私は見回りのたびにビクビクしていた。もう二度と、生徒を幽霊と間違えてくすぐったりしませんように。今日は何も起きませんように。
そう願いながら、今夜も私は、校舎の見回りに来ていた。
外は曇り空で、月明かりもほとんどない。いつもより、さらに暗い夜だった。私は、職員室でカギを取って握りしめると、ふるえる足で廊下に出た。
「よし……行こう」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、一歩、足を踏み出す。
一階の廊下は、しんと静まりかえっていた。心臓がドキドキして、自分の息づかいまではっきりと聞こえてくる。
ひとつひとつ、教室のドアを確認していく。一年一組、鍵よし。一年二組、鍵よし。図工室、窓よし。
なるべく手早く、でも、全部の教室を回らなきゃいけない。それが見回りの基本だ。
一階が終わって、二階へ向かう。階段にさしかかると、私は祈るような気持ちで上を見上げた。お願い、今日は何もなく、静かに見回りを終えたい……。
二階の廊下も、静かだった。家庭科室、理科室、音楽室、すべて異常なし。音楽室の窓から、かすかに月が顔を出して、空っぽの机を青白く照らしていた。
さあ、あとは三階だけ。
三階には、図書室がある。私の大事な場所。そこへ行くためには、あの階段をのぼらなければならない。
西側の階段。
例の、「くすぐり幽霊」が出るという、あの階段だ。
私は、階段の入り口に立って、ごくりとつばを飲み込んだ。大丈夫、今日はきっと何もない。先週のことは、ただの偶然だ。幽霊の噂だって広がっているのだ。夜の学校に忍び込むような子どもは、もういないはず。
そう自分に言い聞かせて、一段目に足をかけた。
コツっ。
階段に、小さく音が響く。
二段、三段とのぼっていく。自分の足音が、やけに大きく聞こえる。一歩一歩、のぼるたびに、鼓動が速くなっていく。
そのときだった。
……ガサッ。
上の方から、何かが動く音がした。
私は、ぴたりと足を止めた。心臓が、口から飛び出しそうなくらいドキドキしている。
気のせいかな。風で窓が揺れただけかもしれない。物音なんて、しょっちゅうあることじゃない。校舎は古いから、あちこちがきしむのだ。
私は、自分を落ち着かせようと、深呼吸をした。そして、もう一歩、足を出そうとした。
……ゴソゴソ。
また聞こえた。
今度ははっきりしている。確実に、階段の上の方からだ。しかも、物が落ちたような音じゃない。何かが動いている。生き物が、身じろぎしているような、そんな音。
私の頭の中に、一瞬で「幽霊」の二文字が浮かんだ。
……パタン。
足音だ。
幽霊の足音だ。
私は、階段の手すりをぎゅっと握りしめた。足が震えて、これ以上のぼっていく勇気がわいてこない。
逃げようか。いや、でも、見回りを放り出すわけにはいかない。それに、もし本当に幽霊なら、背中を見せた瞬間に襲ってくるかもしれない。そんなの、考えただけで気が遠くなりそうだ。
大丈夫。私には、この歌がある。
「一本橋こちょこちょ」の力で、幽霊を成仏させればいい。先週だって、そうしようとしたんだ。
相手が生きてただけで、やり方は間違ってなかったはず。というか、もう、そうでも思わないと、怖くてこの場に立っていられない。
私は、無理やり息を吸い込んだ。
そして、自分自身に勇気を振り絞るように、小さな声で歌いはじめた。
「♪かいだんのぼって……こちょこちょこちょ……」
一歩、踏み出す。一段のぼる。
「♪いちだんのぼって……こちょこちょこちょ……」
もう一歩。歌に合わせて、ゆっくりと、でも確実にのぼっていく。声が震えているのは、自分でもわかっていた。でも、歌うのをやめたら、その瞬間に怖さに押しつぶされてしまいそうだった。
踊り場が近づいてくる。二階と三階の間の、あの薄暗い空間。
音は、そこから聞こえていた。
「♪に~だんのぼって……こちょこちょこちょ……」
私は、踊り場の手前で立ち止まった。恐る恐る踊り場を覗き込む。
外の街灯のわずかな光が、掃除用具のロッカーを照らし出す。
そして、私は見つけてしまった。
ロッカーの影に、うずくまっている小さな影があった。
子どもだ。
背が低くて、ひざを抱えて縮こまっている。真っ暗で顔は見えないけど、確かに人の形をしている。肩が小刻みに震えているのが、かすかに見えた。
……幽霊だ。
間違いない。
だって、こんな夜中に子どもが学校にいるはずがない。これは、生徒の幽霊に違いない。
そうに決まっている。そうじゃなきゃ、私の心がもたない。
私の頭の中はもう、パニックだった。
呪われる。何かされる。怖い。怖い。怖い。
でも、逃げちゃダメだ。逃げたら、背中を見せたら、私まで幽霊にされちゃう。私から仕掛けなきゃ。呪われる前に、こっちから攻撃するんだ。
「キャーーー!」
私は、自分でも驚くくらい大きな声で叫んで、うずくまっている影に飛びかかった。
「こ、こちょこちょこちょー!」
悲鳴に近い声をあげながら、手を伸ばす。子どもの幽霊の、小さな体に手が触れた。ひんやりしているかと思ったけど、それどころじゃない。もう必死で、私は指を動かした。
まずは、わきの下だ。
私の指が、子どもの腕の下にするっと入り込む。くすぐりの基本は、わきの下。ここは誰でもくすぐったい場所だ。私は、指をこちょこちょこちょこちょって、すごい速さで動かした。ただ動かすだけじゃなくて、指先でつんつんってつついたり、指の腹でぐりぐりって押したり、動きに緩急をつけるのがポイントだ。妹で散々練習したから、これだけは自信がある。
「あははははは!」
子どもの幽霊が、大声で笑い出した。
効いてる!こちょこちょ、効いてる!
私は、少しだけ勇気が湧いてきた。幽霊だって、くすぐられれば笑うんだ。だったら、もっともっと笑わせて、成仏させてあげなくちゃ。
「成仏してくださーい!こちょこちょこちょ!」
私は、わきの下をくすぐりながら、次の攻撃場所を考える。わきの下だけじゃ、ダメだ。幽霊を完全に笑わせるには、もっとたくさんの場所を攻めなきゃ。
幽霊は、じたばたともがいて、床の上を転がった。私は、その動きに合わせて、今度はわき腹を狙った。
「こちょこちょ!わき腹もこちょこちょ!」
私の指が、幽霊のわき腹をこしょこしょって這い回る。すると、幽霊は「ひゃあああ!」って叫んで、体をくねらせた。どうやら、わき腹もかなり弱いみたいだ。
「あはははは!ちょ、ちょっと、まっ……!」
幽霊が何か言っているけど、聞こえないふりをした。だって、こうでもしないと、呪われちゃう。手を止めるわけにはいかないの。
私は、さらに攻撃範囲を広げた。わきの下、わき腹、そしてお腹。指が、幽霊の体の上を縦横無尽に動き回る。お腹のあたりをこちょこちょすると、幽霊はお腹をかばって丸まろうとした。すかさず、私は背中に手を回す。
「こっちも、こちょこちょこちょ!」
背中をすーっとなぞると、幽霊はぞわぞわっと震えて、また大笑いした。
この子、くすぐりにすごく弱いんだ。
私は、なんだかちょっと楽しくなってきた。怖い相手のはずなのに、くすぐって笑わせていると、こっちまで笑えてくる。それに、この子の反応がとっても素直で、くすぐりがいがあるというか……。あ、いけない。これはあくまでも自己防衛、なんだから。
でも、もっと笑わせたい。もっとくすぐりたい。
そう思って、私は次の弱点を探した。子どものくすぐったい場所は、だいたい決まっている。わきの下、わき腹、お腹、背中、ひざの裏、足の裏、そして……。
耳の後ろ。
私は、幽霊の耳の後ろに指を伸ばした。こしょこしょこしょって、やさしくくすぐってみる。
「ひゃんっ!?」
幽霊が、変な声をあげた。そして、体がビクンと大きく跳ねる。
「あ、ここが弱いんだ」
私は、思わず声に出していた。見つけてしまった、最大の弱点を。
これはもう、攻めないわけにはいかない。私は、幽霊の耳の後ろを集中攻撃しはじめた。左右同時に、指先でこしょこしょこしょこしょ。さらに、ときどき耳たぶのうしろを、つんつんってつつく。
「は、はは……ひ、ひぃ……!」
幽霊は、もう笑い声にならない声をあげて、体をビクビクさせている。すごい、こんなに効くなんて。この子、耳の後ろが本当に弱点なんだ。
「こちょこちょこちょ!もう少しで成仏できそう!がんばれ、わたし!」
私は、自分を励ましながら、くすぐり続けた。
でも、そのときだった。
ぐったりしていた幽霊が、突然むくりと起き上がったのだ。そして、ふらふらしながら、こっちに向かって立ち上がろうとしている。
「ひっ!?」
私は、心臓が凍りつくかと思った。幽霊が、急に動き出した。これって、もしかして怒ったんじゃない?呪われる?何かされる?
「こ、こちょこちょこちょこちょ!!」
私は、恐怖のあまり、さっきよりもさらに激しく幽霊のわきの下をくすぐった。もう、なりふり構っていられない。ここでくすぐり倒さなきゃ、こっちがやられてしまう。
「ぎゃははははは!!」
幽霊が、今までで一番大きな笑い声をあげた。そして、立ち上がりかけた体が、くずれるように傾いていく。
あっ、と思う間もなく、幽霊は私の方に倒れ込んできた。
どすん。
私は、その場に尻餅をついてしまった。そして、幽霊が私の胸のあたりに、すっぽりと収まるように倒れ込んできた。
あたたかい。
どくどくどくどく。
心臓の音がする。私のじゃない。この子のだ。
「え……?」
私は、混乱した。幽霊って、体温があるんだろうか。心臓って、動いているんだろうか。
違う。これは、幽霊じゃない。
「……麻衣……先生……?」
かすれた声で、その子がつぶやいた。
私の名前。
この声、聞いたことがある。毎日、図書室で聞いている声だ。
私は、恐る恐る、その子の顔を見た。
月明かりが、ぼんやりとその顔を照らし出す。
「ゆ、ゆ、ゆうとくん!?」
そこにいたのは、幽霊でもなんでもなくて、四年生の優人くんだった。図書室によく来てくれる、本が大好きな、あの優人くんだ。
私は、もう、何が何だかわからなくなって、壁にぴったりと背中をくっつけた。
「な、なんでゆうとくんがここに!?そ、それより、生きてるの!?幽霊じゃないの!?」
「生きてますよ!最初からずっとそう言ってたのに!」
優人くんは、床にへたりこんだまま、ぜえぜえ息をしながら言った。さっきまで大笑いしていたから、まだお腹がひくひくしているみたいだ。よく見ると、目に涙が浮かんでいる。あんなにくすぐったら、そりゃあ涙も出るだろう。
私は、口を押さえて、がくがくと震えた。
「じゃ、じゃあ、私……また、生きてる生徒をくすぐっちゃったの……?」
「またって……」
優人くんが、何かに気づいたような顔をした。
「もしかして、颯太先輩も、先生が?」
私は、こくこくと小さくうなずいた。そして、その場にしゃがみこんで、両手で顔を覆った。
「うう……もう、どうしよう……またやっちゃった……」
何てことだ。私はまた、同じ失敗を繰り返してしまった。しかも、今度はちゃんと顔も知っている子だ。
毎日図書室で会っている子に、幽霊と間違えてこちょこちょの嵐をお見舞いしてしまった。
弱点をあんなに集中攻撃されたら、相当くすぐったかっただろう。
ああ、もう、クビだ。間違いなくクビだ。教師失格だ。こんなドジで怖がりな司書、誰が許してくれるだろう。
「私、ほんとに怖がりで、夜の見回りが怖くて怖くて、それで、もし幽霊が出ても楽しい歌で成仏できたらいいなって思って、一本橋こちょこちょの歌、歌いながら見回りしてただけなのに……
そしたら、先週も夜に来てた六年生の子をくすぐっちゃって、その子が気絶してる間に私も転んで頭を打って、朝まで気を失っちゃって……その子、『夜が明けるまでくすぐられた』って噂を広めちゃって……もう、恥ずかしくて、本当のことも言い出せなくて……」
私は、堰を切ったように、全部を告白していた。もう隠し通せない。こうなったら、正直に話して謝るしかない。
優人くんは、しばらく黙っていた。それから、大の字になって床に寝転がると、天井を見上げて言った。
「なんだ……そういうことだったんだ……」
私は、おそるおそる優人くんに声をかけた。
「あの、ゆうとくん……ほんとにごめんなさい。くすぐりすぎたよね……。私、くすぐるの、昔からなぜか得意で……妹がいるんだけど、子どものころからよくくすぐって遊んでて、それで指が勝手に動いちゃうというか……」
「た、たしかに、ものすごく上手でした……」
優人くんがそう言うのを聞いて、私はますます小さくなった。くすぐりが上手だなんて、ちっともほめられてない。むしろ、こんなのただの変態だ。
「迷惑だよね……。先生なのに、生徒をくすぐっちゃうなんて……。しかも二回も……。もう、クビかな……」
私の声が、だんだん涙声になっていく。情けない。大人なのに、生徒の前で泣くなんて。でも、どうしようもなかった。怖かったのと、恥ずかしいのと、申し訳ないのとで、胸がいっぱいだった。
すると、優人くんがあわてて起き上がった。
「だ、大丈夫です!ぼく、別に怒ってないし!それに、先生が悪いわけじゃないです!ぼくが勝手に夜の学校に来たのが悪いんです!」
「でも……ゆうとくん、あんなに笑ってたのに……」
「それは、くすぐったかったからで……」
「やっぱり迷惑だったんだ……!」
私は、さらに落ち込んで、もう今にも床にめそめそと字を書き出しそうだった。優人くんは、なんだか困った顔をして、それから急に明るい声で言った。
「せ、先生!あの、その歌、すごくいい歌だと思います!」
「え?」
「『かいだんのぼって、こちょこちょこちょ』ってやつです。なんか、聞いてると、くすぐったくなるけど、楽しい気持ちになるっていうか……。だから、もし本当に幽霊がいたら、きっと成仏してくれると思いますよ」
私は、顔を上げて、ぽかんと優人くんを見た。
「……ほんとに?」
「ほんとです。颯太先輩も、怖かったけど、なんか楽しかったって言ってましたし」
颯太くんが楽しかったかどうかはわからないけど、でも、優人くんの目は真剣だった。
私は、しばらく優人くんの顔をじっと見ていた。夜の学校で、くすぐられて大笑いしたあとだというのに、この子はちっとも私を責めたりしない。むしろ、私の歌をほめてくれて、私のことを気遣ってくれている。
なんだか、胸のあたりが、ほわっとあたたかくなった。
「……ありがとう、ゆうとくん」
私は、ようやく、いつものようにほほえむことができた。
優人くんが、ほっとした顔で、また床に座り込む。
「でも、どうしてゆうとくんは夜の学校に?」
「え、あ、それは……くすぐり幽霊の噂を確かめたくて。颯太先輩から話を聞いて、本当にいるのかなって思って」
「そうだったんだ……ごめんね、幽霊じゃなくて」
「いえ、むしろ、先生でよかったです。本当の幽霊だったら、ぼく、どうなってたか……」
優人くんがそう言って、ちょっと笑った。その笑顔を見ていたら、私も、少しだけ気持ちが軽くなった。
「でも、私、ゆうとくんを幽霊だと思って、すごく激しくくすぐっちゃったよね。ほんとにごめんね。あとでお詫びに、図書室で好きな本を一冊貸してあげる」
「え、いいんですか?やった!」
優人くんが、子どもらしい無邪気な声で喜ぶ。その顔を見ていたら、なんだかこっちまでうれしくなってきた。
でも、やっぱりここは夜の学校だ。先生として、ちゃんと言わなければならないことがある。
「でも、ゆうとくん。夜の学校は、本当に危ないから、もう来ちゃだめだよ。今度やったら、ほんとに朝までこちょこちょしちゃうからね?」
「は、はい……」
「いいお返事」
私は、そう言って立ち上がると、床に何かが転がっているのを見つけた。鈴……?
優人くんに渡すと、彼は大切そうに鈴をポケットにしまった。お守りなのかな。
「立てる?くすぐりすぎて、立てなくなっちゃった?」
「あ、大丈夫です……たぶん」
優人くんは、私の手を借りて、なんとか立ち上がった。まだ足がふらふらしている。体中が笑い疲れて、ぐったりしているみたいだ。あんなにくすぐってしまって、本当に申し訳ないことをした。
「送っていこうか?」
「いえ、自転車で来てるので大丈夫です」
「そう。気をつけて帰ってね」
私は、にこにこしながら手を振った。優人くんは、ぺこりとお辞儀をして、階段を降りていく。
一歩、一歩、ゆっくりと。
その後ろ姿を見送りながら、私は、なんだか不思議な気持ちになっていた。
さっきまであんなに怖かったのに、今は、なんだか心がぽかぽかしている。たくさん謝って、でも優人くんは許してくれて、私の歌までほめてくれた。
「かいだんのぼって、こちょこちょこちょ」
私は、小さくつぶやいてみた。
そのとき、階段の下の方から、優人くんの声が聞こえた。
「おやすみなさい、先生。見回り、がんばってください」
私は、なんだかじーんとして、声がちょっとうわずった。
「うん。ありがとう。ゆうとくん、おやすみなさい」
優人くんは、小さく笑った気がした。それから、足音がだんだん遠ざかっていって、最後に玄関のドアが閉まる音がした。
私は、階段のいちばん上の段に腰を下ろした。まだ見回りの途中だったけど、ちょっとだけ休憩したかった。
両手の指を広げて、まじまじと見つめる。私のくすぐりが上手すぎるせいで、というか、怖がりで、幽霊に向かってくすぐりなんてしようとしたせいで、私は「くすぐり幽霊」って呼ばれるようになってしまった。
でも、不思議と、もう恥ずかしい気持ちはなかった。
「……よし」
私は、立ち上がった。まだ見回りは終わっていない。三階の図書室も、確認しなくちゃ。
私は、一歩一歩、階段をのぼった。もう歌わなくても、不思議と怖くなかった。なぜかは、わからない。
優人くんに会えたからかもしれない。
そう思うと、自然と口もとがほころんだ。
「こんど図書室に来たら、ちゃんとおすすめの本を選んであげなくちゃ」
私は、そうつぶやいて、また一歩、階段をのぼるのだった。




