第25話 法は誰のためにある
辺境都市ラステルの南通りにある雑貨屋、《からすの止まり木》。
その薄暗い店内で、カウンター越しに向かい合う二人の間には、ひりつくような静寂が落ちていた。
「……もう一度聞きます。ヴェイン男爵の失脚、そして結界魔術師の撃破。あなたが関与しているのではないですか?」
王都から派遣された女監察官イリス・フローラは、鋭く冷たい視線で無精髭の店主を射抜いた。
男爵邸の地下で見つかった、巧妙に隠されていたはずの帝国向けの密貿易記録。それらが一夜にして商人組合の前に山積みになり、男爵は社会的に抹殺された。
ただの偶然や、義賊の仕業で片付けられる規模ではない。
「……知らないな。俺はただの、辺境の雑貨屋だ」
グレンは半分閉じた眠そうな目のまま、古びた布でカウンターの木目を拭き続けている。
「ただの雑貨屋が、魔法陣の線を油と灰で汚すような専門的な真似をするとでも? 診療記録にあった灰冠局の黒塗りの印、そして悪党を狩る『黒い縄』の噂。すべてがあなたに繋がっている」
「……縄なら、そこの棚で売ってる」
のらりくらりと核心を躱し続けるグレンに、イリスは苛立たしげに小さくため息をついた。
法の番人である彼女にとって、私刑を下す存在は決して容認できない。それがどれほど街を救う結果になっていようとも、だ。
その時、店の外――南通りの路地裏から、鋭い悲鳴と怒号が響いた。
「やめろよ! 離せ!」
ノアの声だ。
グレンの手がピタリと止まり、イリスも即座に踵を返して店を飛び出した。
「お前らが余計な証言なんかしたせいで、俺たちは終わりだ! 少し痛い目を見てもらうぞ!」
路地裏のどん詰まり。
そこでノアたち数人の孤児を壁際に追い詰めていたのは、見覚えのある制服を着崩した男たちだった。
先の事件で失脚したドラン衛兵隊長の部下たち。不当なみかじめ料や利権を失い、自暴自棄になった衛兵の残党だった。
男の一人が、悪意に満ちた顔でノアの胸ぐらを掴み上げている。
「そこまでです! 剣を引きなさい!」
イリスが凛とした声を張り上げ、残党たちと孤児の間に割って入った。
「私は王都監察官、イリス・フローラ! あなたたちの行為は明確な法への反逆です。直ちに子どもたちを解放し、正規の尋問を受けなさい!」
彼女は王都の紋章が刻まれた身分証を掲げ、法と手続きに則って事態を収拾しようとした。
本来であれば、その権威の前に末端の衛兵などはひれ伏すはずだ。
だが、すべてを失って破れかぶれになった残党たちに、王都の権威は逆効果でしかなかった。
「か、監察官だと……!?」
「ええい、クソッ! どうせ俺たちは終わりなんだ! 王都の犬も、このガキ共も、ここで殺して逃げりゃあいい!」
男が血走った目で腰の短剣を抜き放ち、ノアの腹部へと突き立てようと腕を振りかぶる。
法が定めた警告と手続きの時間は、悪党が凶行に及ぶだけの『致命的な隙』を与えてしまったのだ。
イリスが「あっ」と息を呑み、腰の剣に手をかけたが、抜刀するよりも男の刃がノアに届く方が圧倒的に早い。
間に合わない。
そう直感した瞬間だった。
ヒュッ。
イリスの横を、エプロン姿の影が音もなくすり抜けた。
グレンだ。
彼は自らの拳を振り上げることも、相手の手首を極めに行くような派手な体術に出ることもなかった。
ただ歩み寄りざまに、路地の脇に置かれていた『打ち水用の古い木桶』の縁を、革靴の爪先で軽く跳ね上げただけだ。
バシャァッ!
木桶がひっくり返り、中に溜まっていた冷たい水が、冬の石畳の上にぶちまけられる。
ノアを刺そうと強く踏み込んだ男の靴底が、その水で濡れた石畳に激しく滑った。
グレンが狙ったのは、ただの水溜りではない。
長年の荷馬車の往来で削れ、わずかに『段差』が生じている敷石の隙間だった。
「うおっ!?」
滑った男の足が段差の縁に不自然に引っかかり、前傾姿勢のまま全体重がその一点に集中する。
グレンは男の背中に軽く掌を添え、転倒のベクトルを『真下』へと押し込んだ。
ゴキィッ!!
「ぎゃあああああッ!!」
石畳の段差に全体重を乗せて叩きつけられた男の膝の関節が、嫌な音を立てて完全にへし折れた。
痛覚を貫く激痛に、男は短剣を取り落とし、膝を抱えてのたうち回る。
「な、てめえ!」
残る二人の残党が逆上し、グレンへと飛びかかってこようとする。
だがグレンは、空になった木桶を足で踏み抜き、外れた『金属のタガ(輪)』を足の甲で掬い上げた。
飛んできたタガが、二番目の男の両足の脛にクリーンヒットする。
「あだっ!?」
「……足元がお留守だ」
足がもつれて前のめりに倒れ込んできた男の膝裏を、グレンは無造作に踏み抜いた。
崩れ落ちた男の膝が、同じく敷石の段差に鋭く叩きつけられ、活動機能を完全に奪われる。
たった数秒。
剣を抜く暇も、呪詛を吐く暇も与えない。
ただ路地裏の環境――桶と水と敷石の段差を利用しただけで、衛兵の残党たちは二度と立ち上がれない状態に処理された。
「ノア。怪我はないか」
「う、うん……! ありがとう、店主さん!」
ノアたち孤児が弾かれたように路地から逃げ出し、安全な場所へと去っていく。
後に残されたのは、砕けた膝を押さえて呻き声を上げる男たちと、それを見下ろすグレン、そして唖然として立ち尽くすイリスだけだった。
イリスは震える唇を開き、法の守護者としての矜持を振り絞るように言った。
「……なぜです。彼らを制圧するにしても、正規の手続きと捕縛の手段があったはずです。あなたは、警告もせずに彼らの身体を破壊した」
彼女の真っ直ぐな瞳が、グレンを射抜く。
「あなたは法を無視して人を裁いている」
その強い非難の言葉を浴びても、グレンの眠そうな目は微塵も揺らがなかった。
彼は壊れた木桶を足で路地の端に寄せながら、極めて平坦な声で答える。
「……違う」
それは、王都の暗部で数え切れないほどの命を奪い、凄惨な現実を見続けてきた元処刑人の、重く冷たい真実の声だった。
「法が捨てた死体を片づけている」
悪党を野放しにし、手続きを守るために弱者が傷つくのを待ってから動く法など、被害者にとっては死体袋と同じだ。
グレンはただ、自分の手の届く範囲で泣く子どもを出さないために、悪党の暴力が発動する前に『後始末』をしているに過ぎない。
イリスはその言葉の圧倒的な重さと冷酷な真理に息を詰まらせ、手から剣を離したまま、何も言い返すことができなかった。
*
その日の深い夜。
ラステルの街に滞在しているイリスの宿の一室。
机の上で揺れる蝋燭の明かりの下、彼女は一通の密書を開いていた。
それは、昼間に王都からの特使が、彼女の部屋の窓辺に密かに残していったものだ。
封を切り、丸められた羊皮紙を広げる。
そこに記されているのは、彼女が所属する監察局のものではなく、王命直属の秘密処刑機関『灰冠局』の正式な印だった。
そして、そこにはたった一文、冷酷な命令だけが記されていた。
『――黒縄を確認次第、処分せよ』
イリスの顔から血の気が引く。
それは、かつての王国最強の処刑人を、国家の不都合な存在として暗殺せよという、王都の中枢からの正式な死刑宣告であった。




