『沈黙を破る足音』
ほんの数日だけだった。
けれど、たしかにあの村には平穏があった。
朝には鶏が鳴き、畑を耕す音が響き、子どもたちは道端にしゃがみこんで虫を追いかけていた。
アヴェルとルアも、村の一角で手伝いをしながら穏やかな時を過ごしていた。
ルアの顔からは緊張の色がやや和らぎ、
土に触れた小さな手は、かつて命を奪うことしか知らなかったその掌とは思えないほど、柔らかだった。
だが――。
その静けさを、足音が破った。
*
それは、村の外れの森で。
いつもと違う気配に、最初に気づいたのは、犬だった。
吠えるでもなく、しっぽを振るでもなく、ただ耳を伏せ、森の方角を見つめている。
アヴェルもすぐに気づいた。
風の向きが変わっていた。
呪の気配が、わずかに漂っている。
「……来たか」
それは兵士ではなかった。
武装もせず、ただ身軽な衣に身を包んだ、人影。
斥候。
呪術を用いた追跡と観測に特化した、黒鎖連邦の“目”。
あるいは、人の姿を真似た呪物の可能性すらある。
その存在は、気配だけで分かる。
呪いを知る者だけが、直感的に理解する“異質さ”だった。
「ルアの呪力、反応を拾われたな……」
あのとき、魔獣を殲滅するために放った呪。
抑えきれず溢れ出した力。
沈黙を貫くために必要だった破壊の咆哮。
それが“見つける者”たちを呼び寄せてしまった。
*
その夜、村の集会所にて。
アヴェルは村の長老たちと対面していた。
静かに、しかし重く、言葉が交わされていた。
「……すまない。俺の判断が遅れた」
アヴェルが頭を下げると、村の男が肩をすくめた。
「いや。あれで守られた命もある。責めるつもりはないよ」
別の老女が、火をくべながらぽつりと漏らす。
「問題は、これ以上は隠しきれないということじゃな」
沈黙。
だれもがその現実を受け入れていた。
黒鎖がこの地に興味を持ったなら、
それはいつか“兵”を連れて戻ってくることを意味している。
村の者たちに、戦う術はない。
あるのは畑と、祈りと、わずかな記憶。
それでも、誰ひとりとして、こうは言わなかった。
――「出ていってくれ」
代わりに、村の若い父親が口を開いた。
「……だからこそ、この子を逃がしてやってくれないか」
火の明かりが、アヴェルの顔に揺れる。
「この村じゃ、もう守りきれない。けど……」
その言葉を、老いた長が引き継いだ。
「わしらは、あの子を怪物だなんて思っておらん。
むしろ、守ってもらった。命を救われた。
それを……忘れたくないんじゃ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
アヴェルはゆっくりと頷いた。
「ありがとう……。必ず、安全な場所に連れていく」
「すまないな」
「謝るのは俺の方だ。
もっと……静かに暮らせるはずだったのに」
「ふたりで、ちゃんと生きるんだよ」
集会所の火が、静かに燃えていた。
*
翌朝。
村の外れ。まだ薄暗い森の道。
背負い袋を担ぎ直しながら、アヴェルは後ろを振り返った。
ルアが、小さな靴音を鳴らしながら、彼の背中を追っていた。
その手には、小さなペンダントのついたネックレスが握られていた。
村の少女――名をティナという――が、別れ際にそっと差し出したものだった。
「お守り。私のお気に入りだけど、ルアにあげる」
そう言って微笑んだ少女の顔が、ルアの瞳に焼きついていた。
ルアは何も言えなかった。
けれど、その瞬間、胸の奥に何かが灯った。
“あたたかい”という感覚。
それが何なのか、彼女はまだ知らない。
けれど――手の中のネックレスは、不思議なほどに、冷たくなかった。
「行こうか、ルア」
「……うん」
短い返事。
けれど、それは震えていなかった。
ふたりの足音が、朝霧のなかへ消えていく。
――旅が、始まった。
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