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『沈黙を破る足音』

ほんの数日だけだった。


けれど、たしかにあの村には平穏があった。


朝には鶏が鳴き、畑を耕す音が響き、子どもたちは道端にしゃがみこんで虫を追いかけていた。


アヴェルとルアも、村の一角で手伝いをしながら穏やかな時を過ごしていた。


ルアの顔からは緊張の色がやや和らぎ、

土に触れた小さな手は、かつて命を奪うことしか知らなかったその掌とは思えないほど、柔らかだった。


だが――。


その静けさを、足音が破った。



それは、村の外れの森で。


いつもと違う気配に、最初に気づいたのは、犬だった。


吠えるでもなく、しっぽを振るでもなく、ただ耳を伏せ、森の方角を見つめている。


アヴェルもすぐに気づいた。


風の向きが変わっていた。

呪の気配が、わずかに漂っている。


「……来たか」


それは兵士ではなかった。


武装もせず、ただ身軽な衣に身を包んだ、人影。


斥候。

呪術を用いた追跡と観測に特化した、黒鎖連邦の“目”。


あるいは、人の姿を真似た呪物の可能性すらある。


その存在は、気配だけで分かる。


呪いを知る者だけが、直感的に理解する“異質さ”だった。


「ルアの呪力、反応を拾われたな……」


あのとき、魔獣を殲滅するために放った呪。


抑えきれず溢れ出した力。


沈黙を貫くために必要だった破壊の咆哮。


それが“見つける者”たちを呼び寄せてしまった。



その夜、村の集会所にて。


アヴェルは村の長老たちと対面していた。


静かに、しかし重く、言葉が交わされていた。


「……すまない。俺の判断が遅れた」


アヴェルが頭を下げると、村の男が肩をすくめた。


「いや。あれで守られた命もある。責めるつもりはないよ」


別の老女が、火をくべながらぽつりと漏らす。


「問題は、これ以上は隠しきれないということじゃな」


沈黙。


だれもがその現実を受け入れていた。


黒鎖がこの地に興味を持ったなら、

それはいつか“兵”を連れて戻ってくることを意味している。


村の者たちに、戦う術はない。

あるのは畑と、祈りと、わずかな記憶。


それでも、誰ひとりとして、こうは言わなかった。


――「出ていってくれ」


代わりに、村の若い父親が口を開いた。


「……だからこそ、この子を逃がしてやってくれないか」


火の明かりが、アヴェルの顔に揺れる。


「この村じゃ、もう守りきれない。けど……」


その言葉を、老いた長が引き継いだ。


「わしらは、あの子を怪物だなんて思っておらん。

むしろ、守ってもらった。命を救われた。

それを……忘れたくないんじゃ」


その言葉に、誰も反論しなかった。


アヴェルはゆっくりと頷いた。


「ありがとう……。必ず、安全な場所に連れていく」


「すまないな」


「謝るのは俺の方だ。

もっと……静かに暮らせるはずだったのに」


「ふたりで、ちゃんと生きるんだよ」


集会所の火が、静かに燃えていた。



翌朝。


村の外れ。まだ薄暗い森の道。


背負い袋を担ぎ直しながら、アヴェルは後ろを振り返った。


ルアが、小さな靴音を鳴らしながら、彼の背中を追っていた。


その手には、小さなペンダントのついたネックレスが握られていた。


村の少女――名をティナという――が、別れ際にそっと差し出したものだった。


「お守り。私のお気に入りだけど、ルアにあげる」


そう言って微笑んだ少女の顔が、ルアの瞳に焼きついていた。


ルアは何も言えなかった。


けれど、その瞬間、胸の奥に何かが灯った。


“あたたかい”という感覚。


それが何なのか、彼女はまだ知らない。


けれど――手の中のネックレスは、不思議なほどに、冷たくなかった。


「行こうか、ルア」


「……うん」


短い返事。


けれど、それは震えていなかった。


ふたりの足音が、朝霧のなかへ消えていく。


――旅が、始まった。

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