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『ちいさな来訪者、ちいさな異変』

夜の底を割って、ほのかに光が差し込む。




冷えた空気が、ひんやりと頬を撫でるような朝だった。




 




山あいのこの家は、陽が届くのが遅い。




けれど一度光が差せば、窓辺は金色に満ちる。




 




鉄鍋の中では、昨日の根菜と豆がことことと煮えていた。




その香りが、そっと家の奥へと流れていく。




 




しばらくして、足音が一つ。




ふらふらと現れたのは、まだ眠気の残るルアだった。




 




髪は寝癖で跳ね、足元はおぼつかず。




鼻先をくすぐる匂いに、吸い寄せられるように歩いてくるその姿は、まるで猫のようだった。




 




「……猫か、お前は」




 




呟いたアヴェルの隣に、無言で腰を下ろすルア。




 




パンを手に取り、はむ、と一口。




温もりに反応するように、ほんのわずか、頬がゆるんだ。




 




言葉はなかった。




けれどそれは――確かに、ここで生きている証だった。




 




アヴェルはふと視線を逸らす。




 




言葉にするほどのことじゃない。




でも、少しだけ。




 




この数日で、あの少女は落ち着いてきたように見えた。




初めて出会った時の、獣のような目はもうない。




その代わりにあるのは、食べること、眠ること、そして生きることを知ろうとする目だった。




 




***




 




風に揺れる枝の音と、薪を割る音が、交互に響いていた。




空は薄く曇り、陽は時折、木漏れ日のように差し込んでくる。




 




アヴェルが庭で斧を振るう。




その後ろを、ルアが静かに歩く。




 




手に枝を抱え、何度も足を取られながら、それでも前を向いて。




斧を構える仕草を真似て、そっと薪の上に手を添える。




 




ぎこちない。けれど、その動きには確かな意志があった。




 




――その時、遠くで声がした。




 




「化け物だ!」




 




振り返ると、小さな子どもが泣きながら走っていく。




ルアはその場で動けなくなり、目を伏せたまま、風に吹かれていた。




 




アヴェルは何も言わず、ただ空を仰ぐ。




晴れきらない空。どこか、あの日の戦場を思い出させる灰色だった。




 




「……時間がかかるさ」




 




それだけ言って、斧を置く。




薪を、素手で割りはじめた。




手のひらに走る痛みが、何より静かだった。




 




***




 




空に星はなかった。




雲が夜を覆い、黒い天蓋のように広がっていた。




 




焚き火だけが、唯一の灯り。




薪がはぜる音が、あたりの静寂を切り裂いていた。




 




ルアは、炎の向こうに何かの気配を感じた。




耳をぴくりと動かし、静かに立ち上がる。




 




森の奥。枝を踏みしめる音。遠くで揺れる光。




 




黒い影が、木立の間を歩いていた。




ひとりの兵士。黒い鎧に身を包み、手には鎖の槍。




 




その胸には、はっきりと“黒鎖”の紋章が刻まれていた。




 




ルアの呼吸が止まる。




 




耳鳴り。視界の歪み。




意識の底から、黒い記憶が浮かび上がってくる。




 




――命令。拘束。装填。発動。制圧。




 




焼け焦げた肉の匂い。




耳元で響く怒号。




そして、崩れ落ちる誰かの身体。




 




身体が震える。




力が暴れようとする。




 




「ッ……!」




 




自分の腕を抱きしめるようにして、地面にしゃがみ込む。




右腕の呪刻が、うっすらと脈を打っていた。




 




だが兵士は、ルアに気づくことなく、森の奥へと姿を消していった。




ただ“捜している”。




この山中を、根気よく、音もなく。




 




焚き火の傍に戻ってきたルアの息は、浅く乱れていた。




視線を落とし、何かを噛み締めるように、自分の膝を抱えている。




 




その時、足音がひとつ。




 




「……何があった」




 




アヴェルがしゃがみ込み、焚き火越しに目を合わせる。




ルアはかすかに首を横に振った。




 




「兵士が、いた。でも――私は、壊してない」




 




「そうか」




 




静かに火に薪をくべながら、アヴェルは奥歯をかみしめた。




 




黒鎖は、まだ彼女を追っている。


生きていると、わかっている。




その事実が、全身を冷やしていく。




 




昔、自分が関わった地獄が、また牙を剥こうとしていた。




 




「……パン。もっと」




 




ぽつりと呟かれた声に、アヴェルは肩を落とし、ため息をひとつ。




 




「……猫か、お前は」




 




その声に返事はなかった。




けれど、焚き火の光が照らしたルアの頬には、確かに――わずかな笑みがあった。




 




火の揺らめきの中で、それは確かに“人の顔”だった。




 




――その笑みが、次にまた見られる保証は、どこにもなかった。




 




けたたましく、山の方で鳥が飛び立つ音。




 




アヴェルは立ち上がり、闇の向こうを見据えた。




 




不穏な気配が、すぐそこまで迫っていた。

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