『鉄環の記憶』
朝の空気が、ひんやりと指先をなぞった。
アヴェルは庭先で干し草を運びながら、自分の右手――いや、“義手”を見つめていた。
かつて、この手で人を救おうとした。
そして、この手で人を壊した。
「……ルア」
家の中で、まだ眠っているであろう少女の名を、心の中で呼ぶ。
彼女の右腕に刻まれた呪刻。
その痕を見たとき、遠い過去が脳裏に蘇った。
* * *
焼け焦げた地面。
呻き声。
崩れかけた瓦礫の向こう、少年が一人、呪いの瘴気に包まれていた。
「またか。……君が制御するしかない」
背後から、誰かの声。
カンデラ祈療連盟。
呪いに蝕まれた者たちを“救う”と称していたその医療団体は、当時、俺にとって世界のすべてだった。
目の前の少年は、まだ十五にも満たない。
皮膚は青黒く変色し、呼吸は浅く、目に光はない。
けれど――生きていた。
まだ、生きていたんだ。
「……これを、つければ、少しは楽になる」
俺はそう告げて、鉄環を取り出した。
魔力を込めた拘束具。
瘴気の暴走を抑え、命を保たせる――そう教えられていた。
それが、どれほど冷たいものかも知らずに。
少年は何も言わなかった。
ただ、こちらを見ていた。
感情の宿らない瞳。
それでも、俺は――
嵌めた。
震える手で、鉄環を少年の腕に。
その瞬間、空気が変わった。
――ギィイイイッ!
鉄環が軋む音。
少年の体に走る痙攣。
そして――呪いが、逆流する。
「止まれ……っ!」
俺の叫びは届かず、次の瞬間、眩い光と黒煙が爆ぜた。
視界が歪む。
右腕に、灼けるような痛み。
吹き飛ばされた俺は、土と血の匂いの中で、ただ震えていた。
右腕は――もう、なかった。
* * *
「……お兄ちゃん、ごめん、ごめんなさい……」
うわごとのように繰り返していたあの子の声。
泣きながら、俺のことを見ていた。
俺を傷つけたことすら、理解できていなかった。
それでも――
「お前のせいじゃない」と、言ってやれなかった。
数日後、俺は知った。
俺たちの鉄環は、ただの“治療具”ではなかった。
カンデラ祈療連盟。
表向きは呪災救済の医療団体。
だが裏では、黒鎖連邦と結託していた。
俺が救ったと思っていた子どもたちは、
“呪導体”として兵器にされた。
……それでも、俺はまだ、自分が正しかったと信じたかった。
じゃなきゃ、壊れそうだった。
* * *
ルアの寝息が、かすかに聞こえる。
彼女の右腕にも、あの時の少年と同じ呪刻がある。
鉄環はない。
けれど、あの目だけは……変わらない。
「無」――感情を殺した目。
生きる意味すら奪われた者の目だ。
俺の右腕は、もう戻らない。
けれど、この手はまだ使える。
「……もう二度と、同じことは繰り返さない」
呪いしか知らなかったあの子が、
ほんの少しでも“人間”になれるように。
今度こそ、自分の意志で――
この手で、救う。
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