表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/8

『日常への侵食』

パンの匂いがした。




こんなにもやさしいものが、


この世界にあるなんて──


私は、知らなかった。




***




朝露が乾ききらぬ空気に、柔らかな陽光が差し込んでいた。


焼け落ちた戦場の残滓を遠ざけるように、静かすぎる朝が、ゆっくりと始まっていた

朝露が乾ききらぬ空気に、柔らかな陽光が差し込んでいた。


焼け落ちた戦場の残滓を遠ざけるように、静かすぎる朝が、ゆっくりと始まっていた。




――ルアは、重たいまぶたをゆっくりと持ち上げる。




見知らぬ天井。


木造の梁。


揺れるレースのカーテン。




ここは……どこ?




近づく足音に気づく。




警戒反応。


反射的に、右腕の呪印が輝く。




空気が震え、部屋の温度が一気に下がる。




「……っ!」




黒い衝撃波が放たれる。


風圧が家具を弾き飛ばし、壁にかけられた時計が砕け散る。




が。




その刹那。




「術式展開――《反転鎖環アンビヴァレント・リンク》」




静かな声とともに、銀色の光が展開された。




魔道制御陣。




アヴェルが構えた手のひらから奔る封呪式が、呪いの波動を打ち消していく。




バチバチと火花が散り、空気が火薬のような匂いを残す中、呪印の輝きは急速に弱まった。




ルアの身体がぐらつく。




膝が崩れ、その場にへたり込む。




「……どうして、わたしを殺さない?」




かすれた声。


だが、怯えはない。


ただ、事実の確認のように淡々としていた。




「俺はお前を助けた。あの戦場から。名前はアヴェル。……敵じゃない。」




アヴェルは、彼女から目を逸らさずに言った。




「お前は“兵器”なんかじゃない。ただの、人だ」




ルアは何も言わない。


目だけが、微動だにせずアヴェルを見据えていた。




張りつめた沈黙。




ぐうぅぅ……。




腹の音。




ルアは無表情のまま、特に取り繕う様子もない。




アヴェルは思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、キッチンの方へ顎をしゃくった。




「ちょうどできてる。食えるなら、食え」




  * * *




テーブルの上には、トーストと目玉焼き。


湯気の立つスープ。


あたたかい食卓。




ルアはまだ半壊した部屋を一瞥しながらも、椅子に座る。




無言で、皿の上を見つめる。




「……毒は?」




「入れるわけないだろ」




アヴェルはコーヒーをすすりながら答える。




ルアは警戒を解かぬまま、そっと手を伸ばし――




ぱり。




はむ。




一口。




さらに、もう一口。




はむ、はむ。




一度食べ始めると、止まらなかった。




あっという間に食べ終えると、皿をじっと見つめ、顔を上げる。




猫のような視線。


もっと欲しい、という意思が目に込められていた。




「……アヴェル」




小さな声で、初めて名を呼ぶ。




「……仕方ないな」




アヴェルは笑いながら、自分の皿をそのままルアの前に置いた。




躊躇いなく、ルアは再びパンをかじる。




空っぽだったはずの空間に、少しだけあたたかさが宿る。




  * * *




昼過ぎ、シーツを干していると、アヴェルはふと気配を感じた。




振り返ると、廊下の影にルアが立っていた。


何も言わず、ただそこに。




風に揺れる洗濯物。


差し込む光。


生活の匂い。




ルアの表情に、言葉はない。


だがその目は、確かに何かを感じていた。




  * * *




何も起きなかった一日が、ただ静かに終わろうとしていた。


誰の命も奪わず、誰の叫びも聞かず、ただ息をして、食べて、見上げた夜だった。




薪を割り家に戻ったアヴェルが風呂場の前を通りかかると、微かな声が聞こえた。




「……ちがう」




震える囁き。




「わたしは……」




アヴェルは扉の前で足を止める。




「わたしなんか……」




崩れ落ちるような音。




だが、彼は何も言わなかった。




ただ、静かに立ち尽くす。




それが正しいことかはわからない。




けれど彼女は、今、自分と向き合っている。




右腕に刻まれた呪印と。




そして、まだ名もなき“人間の心”と。




アヴェルは、その背中を静かに見守っていた。

気に入って頂けたら、ブクマ、レビュー、感想是非よろしくお願い致します!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ