八話 食べちゃうぞ
「ヨシダ!」
静まり返った住宅街。角を曲がった瞬間に突如として目の前に小柄な影が飛び出してきた。
ツインテールを激しく揺らし、オーバーサイズのアウターの裾を羽ばたかせながら、必死に手を広げて立ちはだかる人物。
都市伝説界期待の新人にして、極上の顔面を誇る『口裂け男の娘』――レツちゃんである。
「やあ、レツちゃん! 名前覚えててくれたんだぁ。嬉しいな」
突然の奇襲にも一切動じることなく、俺は満面の爽やかスマイルで手を振った。
「と、飛び出し作戦……失敗……っ」
レツちゃんはがっくりと肩を落とし、小さな頭を垂れた。
もっと「うわああっ!?」と悲鳴を上げて腰を抜かす姿を期待していたのだろう。黒マスク越しにもわかるほど絶望に満ちた表情で、地面に靴底で小さな円を描いている。
「そんなに落ち込まないでよ。飛び出してきた瞬間のレツ、躍動感があってめちゃくちゃ可愛かったよ?」
「カワイイ、イラナイ……ッ!」
悔しそうに拳を握りしめ、上目遣いで俺を睨みつけてくる。
その涙目な瞳の破壊力が凄まじすぎて、俺の心臓は恐怖ではなくキュン死の危機に瀕していた。
と、その時だった。
ぐぅぅぅぅぅ……。
やけに存在感のある可愛らしい音が響き渡った。
「……ッ!?」
レツちゃんの動きがピタッと止まる。
純白の肌が、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染まっていく。お腹のあたりを両手で必死に押さえるが、一度鳴り響いた音が消えるはずもない。
「……へえ、怪異もお腹空くんだね」
「ち、チガウ! いまのは……威嚇だ! お腹の音じゃないッ!」
「無理あるって。可愛いな、もう」
顔を真っ赤にして必死に取り繕うレツちゃんを見ていると、ふと素朴な疑問が頭をよぎった。
そういえば、怪異の生態ってどうなっているんだろうか。
「そういえば、怪異って普段何食べてるの?」
俺が興味津々に問いかけると、レツちゃんはハッと息を呑んだ。
そして、ここぞとばかりに低く、重々しい声を絞り出した。黒マスクをぐっと引き下げ、大きめに裂けた口元と鋭い八重歯を露わにする。
「……ニンゲン」
西日に照らされた八重歯が、キランと怪しく光る。
「ボクたちは……ニンゲンの肉を喰らい、血を啜って生きているんダ……! 油断しきった男子高校生なんて……格好のフルコースだぞ……っ!」
腕を広げ、精一杯の「肉食獣」のポーズをとるレツちゃん。
恐怖の演出としては、これ以上ないほど完璧なセリフとシチュエーションだ。
だが、俺の脳内で展開されたのは、全く別の映像だった。
レツちゃん……俺を食べ……?
——脳内シミュレーション開始。
薄暗い部屋。俺の胸の上にすっぽりと乗っかる小柄なレツちゃん。
真っ赤な顔で「喰らってやる……っ!」と威嚇してくる。
そして、大きめに裂けた可愛い口をあーんと開けて、俺の腕や首筋に八重歯をハムッと甘噛みしてくるのだ。
「痛いか……!? 怖いか……!?」と必死に顔を覗き込んでくるレツちゃん。
……なにそれ。ご褒美?
「へぇ、そうなんだ」
「へぇ、ジャナイ! 少しハ怖がレ……ッ!」
俺のあまりにも軽いリアクションに、レツちゃんはキーッと足をバタつかせた。
「いやさ、考えてみたんだけど」
「……ナニをだ」
「レツに食べられるなら、本望かなって」
「はァ!?」
レツちゃんが素で素頓狂な声を上げた。
俺は着ていたブレザーのボタンを外し、制服のカッターシャツの袖をまくり上げた。
鍛え上げられた前腕の筋肉が露わになる。中学時代から衰えていない、たくましい腕だ。
「ほら、ガブッといっちゃってよ」
「え……あ……?」
俺はニヤリと笑うと、ズンズンとレツちゃんに向かって距離を詰めた。
一歩、また一歩。
「な、ナニ……ッ!? なんで迫ってくるんだッ!?」
「だって、お腹空いてるんでしょ? 俺の肉でよかったら、いくらでも献上するよ。さあ、どこから食べる? 腕? 首筋? どこでも好きなところ噛んでいいよ!」
「ヒッ……!? 狂ってる……ッ! ニンゲン、頭おかしい……っ!」
レツは恐怖に目を引きつらせ、タタタッと後ずさった。
だが、背中が冷たいコンクリートの壁に激突する。
逃げ場を失ったレツちゃんの左右の壁に、俺はドカンと両手を突いた。
完璧なダブル壁ドン。逃走経路、完全封鎖。
「さあ、遠慮しないで」
至近距離。息が届くほどの近さで、俺はレツちゃんを見下ろした。
腕をまくった俺の太い前腕が、レツちゃんの顔のすぐ横に突き出されている。
「あっ……いや、ソノ……っ」
レツは壁に背中を押し付け、小さく身を縮こまらせた。
俺のたくましい腕と、本気で喰われようとしている狂気の瞳を交互に見つめ、完全にパニックに陥っている。
汗が白肌を伝い、平坦なお胸がヒッヒッと激しく上下していた。
「ほら、一口どうぞ。あーん」
「じょ、ジョーダン……ジョーダン! ボク、ニンゲン食べなイ! 食べないからッッ!!」
レツちゃんは両手で必死に俺の胸を押し返しながら、涙目で叫んだ。
「本当? 人間喰らう悪魔の怪異なんじゃないの!?」
「ウソ! 嘘に決まってるだロ!! ボクは怪異と人間のハーフで、普段は普通におにぎりとかパンとか食べてるんだよーーーっ!!」
ついに自白した。
「なぁんだ」
俺は心底がっかりして、肩を落とした。
レツちゃんにハムハムと甘噛みされる夢のシチュエーションは、儚くも露と消えたのだった。
「残念そうにするナ!!」
レツちゃんは真っ赤な顔で俺の胸をポカポカと叩いた。
猫パンチ並みの威力しかない拳。実に愛おしい。
「だって、レツちゃんに美味しく頂いてもらえると思ったのに」
「頂かない! ニンゲンなんて生臭い! 絶対食べない! バカ! 変態! 筋肉ダルマ!」
「ひどい言われようだなあ」
俺が苦笑いしながら壁から手を離すと、レツちゃんはズルズルと壁を背にしてその場に座り込んだ。
お腹を空かせた状態で、必死に嘘をついて、挙句の果てに壁ドンされて迫られたのだ。怪異としてのプライドも気力も、すっかり尽き果たしてしまったらしい。
ぐぅぅぅ……。
追い打ちをかけるように、再びレツちゃんのお腹が鳴った。
「……ウウッ」
レツちゃんはアウターのフードを頭からすっぽりとかぶり、膝に顔を埋めて丸くなってしまった。
プルプルと震える小さな背中。
「俺も小腹空いちゃった。コンビニでも行く?」
「コンビニ……?」
俺はしゃがみ込んだレツの手を取り、夕暮れに輝く最寄のコンビニへと向かった。




