七話 見たナ
相合傘から数日。ほんの少しだけ距離が縮まった気がしていたレツだったが、怪異としての危機感は限界に達していた。
(ダ、ダメだ……! このままじゃボク、ただの『ヨシダに愛でられるだけのナニか』になってしまう……っ!)
都市伝説界の期待の新人として、人間を恐怖のドン底に突き落とさなければ存在意義に関わる。優しくされたら照れて自爆。これでは怪異失格だ。
原点に立ち返るべきだ。怪異の基本、それは――圧倒的な顔面の恐怖!
夕闇が迫るいつもの路地裏の奥、ゴミ集積所の陰で、レツは一人小さくうずくまっていた。
ブカブカのアウターのポケットから取り出したのは、怪異さえ映すことのできる特別な手鏡だ。
「よし……今日こそ、ヨシダを恐怖で失神させてやル……!」
レツは黒マスクを顎まで下ろし、両手で手鏡をしっかりと握りしめた。
「可愛い」と褒めちぎられてしまうこの顔を、どうにかして「悪魔のごとき恐ろしい形相」に変形させなければならない。
「まずは……定番の、白目威嚇……ッ!」
レツはうーんと唸りながら、黒目をぐっと天井へ押し上げた。
同時に、大きめに裂けた口を極限まで横に引き裂き、八重歯を剥き出しにする。
鏡を覗き込む。
(……ん、ナンカ、あんまり怖くなイ……)
威厳が足りない。もっとこう、怨念のようなドロドロとした迫力がほしいところだ。
「じゃあ……顔の肉を寄せて、般若……!」
今度は両手の指で頬の肉をグッと押し上げ、眉間に深すぎるシワを寄せた。
「ヌウウウウ」と低く唸り声を上げながら、鏡の中で必死に怖い顔を作る。
「ヌギャアアア! ボクは恐ろしい怪異ダぞー!」
一人で小さな声を出しながら、角度を変えてみる。上目遣い気味に睨みつけたり、あえて口を歪ませて不気味な笑顔を作ってみたり。
「んー……こうか? いや、こうか……? ガオーッ!」
手鏡を顔の前に掲げ、必死に顔筋をフル活用して「最恐の顔」を模索するレツ。
夢中になるあまり、周囲の気配など一切気にしていなかった。
——その、背後で。
「……っぐ」
忍び寄る影ひとつ。
いつもの通りに差し掛かり、陰でなにやらモゾモゾ動く愛しい存在を発見した吉田であった。
吉田は息を殺し、壁の隙間からその光景を静観していた。
小さな手鏡を覗き込みながら、頬を引っ張ったり、白目をむこうとして途中で挫折したり、「ガオーッ」とつぶやきながら可愛い八重歯を見せびらかしているレツ。
破壊力が、凄まじい。
(なにあれ……天使? 天使が変顔の練習してるの……?)
恐怖どころか尊さの限界突破である。吉田は必死に口元を手で覆い、漏れそうになる悶絶の声を全力で押し殺した。
頬を膨らませている時のレツの顔など、怒ったハムスターにしか見えない。
もっと近くで拝もうと、足音を殺して忍び寄る。しかし、足元の缶カラを微かに踏み鳴らしてしまった。
カタン。
「――っ!?」
静かな路地裏に響いた小さな音。
レツの動きがピタッと止まった。
鏡に映る背景。自分の真後ろに、背の高い男子高校生が、慈愛に満ちすぎた温かい眼差しで立ち尽くしている姿がバッチリと映り込んでいた。
一秒。
二秒。
三秒。
夕暮れの風が、ふたりの間を吹き抜ける。
「…………あ」
レツの手から、手鏡がポロリとこぼれ落ちそうになった。
顎まで下ろしたマスク。指で押し上げられたままの頬。必死に寄せた眉間のシワ。そして、「ガオーッ」の形のまま固まった大きめの口。
全部、見られていた。
「よ、……ヨシダ……?」
「あ、気にしないで続けて。すごく迫力あったよ、レツ」
吉田は満面の爽やかスマイルで、親指を立てた。
その瞬間――レツの脳内で、なにかが弾けた。
「——っっっっっ!?!?!?」
沸騰。
白磁の肌が、耳の先、首元、胸元に至るまで、文字通り爆発的な勢いでリンゴのように真っ赤に染まり上がる。
瞳にみるみるうちに涙が溜まり、ポロポロとこぼれ落ちそうになった。
「み、みみみ……見タナァァァァァッ!?」
「いや、見てない見てない! 全然見てない! ただレツが手鏡持って『ガオーッ』って言ってたところしか見てないから!」
「全部見てルーーーーーッッ!!」
レツはバッとマスクを引き上げると、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆ってその場に蹲まった。
「ウアアアアアアン! シヌ! ボク、シヌッ!」
「死なないで! 可愛かったよ! ほんとに世界一可愛かったから!」
「『可愛い』って言うなァァッ! 怖がれって言ってるだロ、この大バカ変態ヨシダァァッ!!」
地だんだを踏みながら叫ぶレツ。
穴があったら入りたいどころか、地球の裏側まで掘り進んで逃げ出したいレベルの赤っ恥だ。怪異としての尊厳も、カッコいい悪役としてのプライドも、すべてが崩壊した。
「ほら、レツちゃん立ち上がって。顔真っ赤だよ」
「見るナ! こっち見るナ! 忘れロ! 今の記憶、全部消セぇぇぇっ!!」
レツは泣きじゃくりながら、地面に落ちた手鏡を拾い上げると、アウターのポケットに突っ込んだ。
そして、真っ赤な顔のまま、限界突破の超スピードで吉田の横をすり抜ける。
「ツ、ツギ……ツギ会ったら……記憶喪失になるまで殴ってやルァァァッ!!」
捨て台詞というよりは、ただの恥ずかし紛れの悲鳴だった。
残された吉田は、レツが逃げ去った方向を見つめながら、深く、深く息を吐き出した。
「……あー、あぶない。心臓止まるかと思った」
胸を押さえる。
怖さで止まりかけたのではない。レツのあまりの愛おしさに、心拍数が爆発して破裂しそうだったのだ。
「鏡に向かって練習とか……健気すぎるだろ……」
夕闇の中、吉田は鼻の下を伸ばしながら、どこまでも幸せな足取りで家路についた。
怖がらせるどころか、「レツちゃんラブ」のメーターを極限まで振り切れさせてしまったことを、レツは知る由もなかった。




