六話 アイアイ
ぽつぽつと、アスファルトを叩く音がし始めたのは放課後の終わり際だった。
校舎を出る頃には、空はすっかり重たい灰色に覆われ、まとまった雨が降り注いでいた。
「降ってきちゃったな……」
俺は、カバンから折りたたみ傘を取り出し、パッと開いた。
雨の日は視界が悪くなるし、靴も濡れるからあまり好きではない。だが、今日の俺には少しだけ期待があった。雨の日の夕暮れ。暗く湿った街並みは、怪異であるレツちゃんにとって絶好の「脅かし日和」なのではないだろうか、と。
いつもの通りへと続く道を進む。
雨粒が傘を打つ規則的なリズムを聞きながら角を曲がると――そこに、小さな影がぽつんと佇んでいた。
「……あ」
濡れたアスファルトの上。
ブカブカのアウターのフードを深々とかぶり、雨の中に突っ立っている人影。
黒髪ツインテールの先が、雨を含んで重たそうに揺れている。レツちゃんだ。
雨粒を避ける素振りも見せず、じっと立ち尽くしてこちらを待っていたらしい。
濡れた黒マスクの上からでも、冷たさに耐えるように肩をすぼめているのがわかった。
「レツちゃん!?」
俺は慌てて駆け寄った。
濡れて透けかけた服、寒さに震える華奢な身体。相変わらず極上の顔面は、濡れたことでどこか儚げな美しさを醸し出していて胸が締め付けられる。
「こんな雨の中で待ってたの? 風邪ひいちゃうよ! ほら、これ使って!」
俺は自分がさしていた傘を、レツちゃんの方へ差し出した。
取っ手を握らせようと手を伸ばす。しかし――
スーッ。
俺の手と傘の取っ手は、レツちゃんの指先をすり抜け、虚空をかいた。
「え……?」
「……ムダ」
レツちゃんは伏せ目がちに、小さく首を振った。
濡れた前髪の間から、潤んだ瞳がこちらを見上げる。
「ボク……ニンゲンの道具……触れない」
ポツリポツリと語られる事実に、俺は息を呑んだ。
じゃあ、どうすればいい?
雨に打たれ続けるレツちゃんを、このまま見ていろというのか?
——答えなんて、最初から決まっていた。
「じゃあ、こうしよう」
俺は一歩、踏み込んだ。
レツちゃんとの距離を、わずか数センチまで詰める。
そして、手に持ったビニール傘をぐっとレツちゃんの方へと傾けた。
バサリと、雨を遮る屋根がレツちゃんの頭上を覆う。
俺の右肩には冷たい雨粒が打ち付け始めたが、そんなことはどうでもよかった。
「あ……」
「これなら濡れないでしょ?」
「オ、オマエ……肩、濡れてル!」
「いいの。俺は丈夫だから。それより、レツちゃんが濡れる方が嫌だ」
傘の狭い円形の中に、俺とレツちゃんの二人が収まる。
肩が触れ合いそうなほどの至近距離。
小さな傘の下で、二人だけの空間が切り取られたようだった。
「なに……コレ……」
レツちゃんはパチクリと大きな目を瞬かせ、居心地悪そうに身を縮めた。
「相合傘だよ」
「アイアイ……?」
「一つの傘に、二人で一緒に入ること。人間が好きな人と一緒に雨を避ける時にやるんだ」
「す、好キ……ッ!?」
レツちゃんの顔が、瞬時にカッと朱に染まった。
雨の冷たさで蒼白だった頬が、一気に熱を帯びていく。
「レツちゃん、寒そうだったから。それに……こうして近くにいられるの、俺はすごく嬉しい」
俺が真っ直ぐに見つめると、レツちゃんはぎゅっと唇を噛み締め、視線を泳がせた。
逃げ出そうと一歩引きかけるが、傘から出れば雨に濡れる。それを察してか、俺が少し傘を追いかけると、レツちゃんはおずおずと足をとめた。
「……バカ」
ポツリと、小さく呟く声。
怒っているというよりは、どうしていいかわからずに戸惑っているような音だった。
俺たちは並んで歩き始めた。
歩幅をレツちゃんの足取りに合わせる。ザザァ、と雨音が二人を包み込み、世界から隔離されたような錯覚を覚える。
ふと、レツちゃんがアウターの裾をぎゅっと握りしめた。
「……オイ」
「ん? どうしたの?」
「オマエ……」
レツちゃんは俯いたまま、雨音に消えそうなほど小さな声で問いかけてきた。
「に、ニンゲン……ナマエ……」
「え?」
「な、ナマエ……! 教えロ!」
真っ赤な顔をフードの影に隠しながら、必死に言葉を紡ぐレツちゃん。
俺の胸の奥が、温かいもので一杯になった。
「吉田ヒロ。好きに呼んでいいよ。レツちゃん」
俺が優しく微笑むと、レツちゃんは口の中でその名前を反芻するように、ゆっくりと唇を動かした。
「ヨシダ……」
「うん、吉田」
「ヨシダ……ヨシダ……」
何度か確認するように呟いた後、レツちゃんは恥ずかしさに耐えかねたように、黒マスクの上から両手で顔を覆った。
「……ヨシダ、バカ。雨の日に、こんな……変な気持ちにさせるナ……ッ」
「変な気持ち?」
「う、ウルサイ!」
言葉の裏にある感情が愛おしくてたまらない。
レツちゃんは俺の制服の袖口を、ほんの少しだけ、すがるようにチョンとつまんだ。
怪異の手が、布越しに俺の存在を確かめている。
「レツちゃん?」
「ちゃん、イラナイ……レツでいい……」
「いいの? それじゃあ遠慮なく、呼び捨てにするね」
レツちゃん改めレツは自分の足先に視線を落とす。
雨は降り続いていたけれど、傘の下の温度は、どこまでも温かかった。
都市伝説と人間。相合傘の距離感の中で、俺たちの隙間は、一歩分、確実に縮まっていた。




